プロジェクト始動
「お嬢様、ようこそ」
同級生を招いた略式パーティーの翌日。再び馬車で訪れたムラーノ工房で、嬉しそうに出迎えたガラス職人のレフに、エカテリーナは微笑みかけた。
「ごきげんよう、レフ。急なお話しで驚かせてしまいましたわね、申し訳のう存じますわ」
「とんでもない!僕の非常識なお願いを、こんなに早く聞き届けてくださって、本当にありがとうございます。この工房がもう売り物じゃないなんて、親方の炉に僕が火を入れられるなんて、あんまり嬉しくて信じられないくらいです」
そう。すでに工房の購入は完了していたりする。
エカテリーナがムラーノ工房を買いたいとアレクセイに相談したのは、先週末。購入の手配をアレクセイから命じられた商業長のハリルは、ほぼ即日で手はずを整えてくれたらしい。
購入担当に任命されたハリルの部下が、この工房の権利者を調べて接触したのは週明け早々。
即座に金額交渉に入り、最初の言い値のほぼ半額に値切り倒すまで三日。
合意した金額を一括即金で支払い、交渉相手と笑顔で握手して工房の鍵を受け取ったのが一昨日。
その鍵を購入担当からエカテリーナが受け取り、ミナに託してレフの元へ届けたのが昨日。
早っ!
日本の企業って、意思決定が遅いことで世界的に悪名高いと聞いていたけど、皇国はやっぱりヨーロッパ的なんだろうか。たぶん前世のグローバルスタンダードに十分勝てるビジネススピード。
前世の社会人人生で関わった会社のほとんどは、たった一週間じゃ、購入予算の決裁承認もらうためのプレゼン資料作りをしたいですと上司を説得するのにようやく成功しましたー、程度の進捗しかなかったよ。それ進捗?って感じだけど、財閥系企業あたりだと、マジでそんなもんなんですよ。
そして、半額に値切ってもなお、工房のお値段は前世の私の年収の数倍だよ……。
ブラック企業と言ってもうちの会社は、残業代はそれなりに出た。だから私の年収て、同世代の中ではまあまあの額だったと思うのよ。
でもその数倍ですよ。
……その収入、ロクに使う暇なく過労死したよなー……私の貯金て国庫に収められたんだろーなー……ま、まあそんなん考えてもしゃーない。
とにかく!シスコンお兄様だけじゃなく、公爵領幹部の皆さんにまで、甘やかされた感じでガラス工房買ってもらっちゃったけど。
甘やかしてもらったからこそ、これ以上甘えることにならんよう気を付けないとあかんやろ。
前世でも数千万円て、人生変えられる金額だったよ。貧富の差が大きいこの世界なら、庶民だったらどれだけの人の人生を変えられるかわからないと思う。それだけのお金を使ってもらった以上、公爵家にこれ以上の損をさせないように、できるだけのことをしなければ!
「レフ、あなたには期待していてよ。美しい、人に喜ばれるものを、たくさん作り出していただきたいの」
「ありがとうございます。僕もぜひ、そうさせていただきたいです」
「嬉しいこと。わたくし、ガラスのことは何も存じませんもの。あなただけが頼りですの」
にっこり笑ったエカテリーナは、しかしすぐに表情を引き締めた。
「ですけれど、あなた一人に全てを負担させるつもりは、ございませんのよ。この工房はわたくしの名義になったのですもの、ユールノヴァの名にかけて、公爵家の一翼としての恩恵をこの工房にもたらしますわ。そしてゆくゆくは、工房から公爵家へ恩恵を返すという義務を、果たしてみせるつもりですの」
「恩恵、と、義務……ですか」
きょとんとしたレフに、エカテリーナはうなずいて見せる。
「まずは、お尋ねしますわ。ムラーノ親方は、商売が苦手だったとおっしゃっていましたわね。あなたはいかがかしら。親方と同じように、商売を含めた工房のすべてを把握したいと思って?それとも、作品を作ることに専念できた方がよろしいかしら」
レフは息を呑み、しばし視線をさまよわせた。
「その……すみません、僕は、商売とかお金のことが、さっぱりなんです。親方はいつも、おめえは俺より商売に向いてねえ、自分で工房持つよりずっと雇われ職人でやってく方が向いてるかもな、って」
「まあ、では、役割分担でよろしいですわね」
エカテリーナは明るく言う。
「こちらの工房の作品を販売する場合、公爵家の商業を担う部門が、売り込みなどを担ってくれると申しておりますの。ムラーノ工房のお品ならば、引く手あまたと保証してくれていましてよ。売ってみたいと、うずうずしているほどですわ」
「ありがたいお言葉です」
レフはほっとした顔で頬笑む。
「今申しましたのは、グラスなどムラーノ工房の定番商品についてのお話ですの。そしてガラスペンですけれど、商品にできる水準のものを作り出せるようになるまでに、試行錯誤が必要でございましょう。工房が軌道に乗るまでは、新たな商品を開発する費用は、ユールノヴァ公爵家が負担することとして良いと、許可をもらっておりましてよ。ーーミナ」
「はい、お嬢様」
ミナがレフの前に袋を置くと、硬貨がかちゃりと音を立てた。
「今週のお給金ですわ。ミナから聞きましたの、わたくしとお話しした後、ガレン工房を解雇されてしまったそうですわね」
働いた分の給金も出さずにいきなりクビって、あのおっさん雇用者として最低じゃ。
私と話をしたのに気付いたからだろうけど、ガレン親方、私の腕を掴もうとしてミナにひとひねりされたもんだから、レフ君に八つ当たりした疑惑あるぞ。
「暮らしにお困りになっては商品開発どころではありませんもの、前払いいたしますわ。いったんムラーノ工房の頃と同額で用意いたしましたけれど、後日あらためてきちんと契約いたしましょう。工房を担う立場にふさわしい額をお渡しできるよう、励んでまいりましょうね」
「すごい、さすがご大家ですね……!ありがとうございます」
おずおずと給金を手にして、レフは夢かという顔だ。
「それに……」
エカテリーナが言いかけたところへ、澄んだ音が響いた。風鈴に似た、美しいベルの音が音階を奏でる。この工房のドアベルで、ドアの横のレバーを引くとガラス製のベルが鳴る仕組みらしい。
レフがあわてて立ち上がるより早く、ミナがすっと出ていく。そして、すぐに戻ってきた。
「薪の置場所はどこ」
尋ねたミナの後ろから、大きな薪の束を持った男が室内を覗き込んでいる。
「あ、はい、地下の倉庫です。ご案内します」
レフが急いで応対に出た。さすが動線がしっかり考えられたムラーノ工房、燃料は外から直接搬入できる地下倉庫に保管することになっているようだ。
大量の薪があっという間に運び込まれ、レフは呆然とした表情で戻ってくる。エカテリーナは微笑んだ。
「お話しする前に届いてしまいましたわね、驚かせてしまって申し訳のうございますわ。材料や燃料などの仕入れは、公爵家の他の事業とまとめて行うことにいたします。大量購入で価格を抑えることができるからでしてよ。それに、仕入れを価格交渉に長けた人材に任せることができますもの、工房の負担を軽くできますわ」
工房のお値段を半値に値切ってくれたことに感動して担当さんを褒めちぎったら、ハリルさんがそう提案してくれました。工房の分も含めて購入することで、購入量が増えて価格交渉を有利にできるメリットがあちら側にもあるから、遠慮なくそうしてほしいと言ってくれたので、ありがたく乗っかりました。
「それから、帳簿をつけて利益や損失を計算する役割も、専門の知識をもつ会計士をつけてもらえますの」
「そ、そんなにしてもらえるんですか」
レフは目を白黒させて、まだ実感がなさそうだ。
ーー公爵家に損をさせないようにと言いつつ、公爵家の資産やら人材やらを消費する気マンマンなんかい!と心のどこかがツッコミ入れて来るんだが。
マンマンだとも!と胸を張って返すぞ。
ここは遠慮するところじゃない。
私は経営は素人なんで、プロの力を借りまくり使いまくります。初心者が自力でなんとかしようなんて、考えたらあかん。
新入社員が、先輩が忙しそうだから自分の力でシステム修正しようとか、障害を復旧させようとか、考えたおかげで大惨事発生……前世でありがちな展開でしたよ。
いや先輩が忙しそうじゃなくても、できないとかわからないとかカッコ悪いこと言いたくない、ってだけで順調ですとかほとんど出来てますとかでまかせ言い続けて、突然会社に来なくなったという、ワースト後輩もおったなー……。
うん、思い出すのやめよう。
あと、資金投入は最初にドンと入れて、駄目なら早いとこ見極めつけて離脱するのが正しいはず。ジリ貧になってからちょっとずつテコ入れするのが一番愚策。
……なんて偉そうなこと言っても、私のような素人にそんな見極めがつけられるか疑問だがな!
やっぱり玄人の手を借りるべきだよ。信頼できる玄人がいるならの話だけど、そこはユールノヴァ公爵家は、めちゃめちゃ恵まれてるからね。
「ですからレフ、あなたにはのびのびと、作品を生み出すことに集中していただきたいのですわ。
わたくしはあなたに、ガラスペンを作っていただきたいの。それができる環境を用意するのが、わたくしの役目と思っております。必要なものがあれば、遠慮なくおっしゃって」
「お嬢様」
レフは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。こんなにいろいろ配慮をいただいて、僕は信じられないほど幸運です。薪倉庫をいっぱいにしていただいたから、いつでも炉に火を入れられます。炉に火が入ったら、この工房は生命を取り戻します。炎はガラス工房の生命そのものなんです。
お嬢様のお望みのガラスペン、僕は必ず作ってみせます」
そしてレフは、テーブルの上にバサッと紙の束を広げた。
「ガラスペンのスケッチを描いてみたんです。持ち手の部分、どのデザインがお好みでしょうか」
「まあ、さすが、わたくしの素人絵とは比べ物になりませんわ!」
写実的で美しいスケッチに、エカテリーナのテンションは一気に上がる。
昔見たダ・ヴィンチのスケッチみたいな雰囲気で、これ自体が素敵だ。
「まずは、わたくしのお兄様、ユールノヴァ公爵に使っていただくためのものを作ってほしいのですわ。ですから、男性的で上品なデザインがよろしいわ。お手が大きくていらっしゃるの、持ちやすい太さにできれば嬉しいですわね。それから、お色は……」
テンション上がったまま、ついついあれこれ希望を出しまくってしまい、後で反省したエカテリーナであったが。
翌週末にはレフからの連絡が学園に届き、ガラスペンの試作品ができたので見てほしいとのことだったので絶句した。
早‼︎