挿入話~水仙の盃~
公爵家の邸と図書館とをつなぐ回廊にたたずんで、ウラジーミルは庭園を眺めた。
ユールマグナの花は水仙。冬の終わりから春にかけての季節には、この庭園は素晴らしい。さまざまな種類の水仙が一面に咲き乱れ、清冽な香りが満ちる。花の色で公爵家の紋章を描く一角、皇国の国旗を描く一角があり、ここにしかない貴重な品種も多い。
しかし今は、青々と葉が茂るばかり。皇室御一家をお迎えする日のために、この庭園はただ水仙を咲かせるための場所になっている。他の季節には、見るべきものなど噴水くらいしかない。
そして、この庭は静かだ。鳥のさえずりも、虫の羽音もしない。水仙の葉を鳥がついばむことも、虫が食うこともほとんどない。
なぜなら、水仙は毒草だから。
花も葉も、すべての部位に毒がある。特に球根の毒は強い。食べれば人が死ぬ。
皇国には水仙にまつわる伝説がある。
水仙の精は美しい女性であったが、心変わりをした恋人に別れを告げられた時、黄金の盃を差し出して最後に酒を酌み交わしたいと望んだ。実はその盃は水仙の花の中心にある黄色の花冠で、二人は水仙の毒で共に死んだという。
一途な愛を意味する花ではあるが、水仙を恋人に贈ることは忌避される。一途な、死の愛の花だ。
庭園から目をそらし、ウラジーミルはふと北を見やる。
この季節、ユールノヴァの庭はさぞ美しいだろう。
アレクセイに初めて会ったのは、皇城の階段の陰だった。
皇子殿下の遊び相手を務めるようにと皇城へ連れて行かれたが、知人を見つけた父親に自分で殿下のところへ行けと言われ、置いていかれたのだ。
誰かに行き方を訊けばいいだけだとわかっていた。それでも悲しかったのは、父にとって自分がこんなにもどうでもいい存在だと思い知らされたからだ。父の意に沿わない身に生まれた自分が悪いのだとあの頃は思っていて、棄てられたように心細かった。だから、階段の陰に隠れて泣いていた。
『どうした』
声をかけられて、見つかってしまったと怯えた。けれど、それは子供の声だった。
水色の髪、水色の瞳、きれいな顔立ちの年上の少年。水色の瞳の光が強くて、驚いたことを覚えている。こんなに印象的な瞳は、初めて見たと。
『僕はアレクセイ・ユールノヴァ。君は』
『僕……ウラジーミル・ユールマグナ』
『ウラジーミル。マグナの子なら、君もミハイル様を訪ねて皇城に来たんだろう。どうしてこんなところにいる』
有無を言わせない強い口調で言われて、返事に困った。父親に置いて行かれたと言ったら、父親の恥になることを知っていた。
『……初めて来たんだ』
そう言ったら、迷子になったのか、と向こうで納得した。
『ミハイル様はあちらにいらっしゃる』
と言って、アレクセイは歩き出そうとする。泣き顔のウラジーミルは、階段の陰から出たくなくてためらった。
すると、アレクセイは振り返り、じっとウラジーミルを見た。
『僕、怖いか』
『え?』
『時々、怖いとかきついと言われる。嫌な目の色だとか。僕が嫌なら、他の誰かを呼んでくる』
のちにウラジーミルはその言葉を言ったのが誰かを、よく知ることになる。
しかしこの時は、アレクセイの瞳の色をしばし見つめて、ふと思い出した通り口にした。
『空の青のみを映す山上の湖に
神殿は沈みたり
澄み冴えたる湖の淡き青、
水面の陽に煌めくことつるぎのごとし』
さすがに、アレクセイはきょとんと目を見張った。
『なに?それは』
『アストラ帝国時代の詩だよ。紀行詩人トーレスが神々の山嶺で見つけた、いにしえの神殿を詠んだ詩なんだ。君の目の色、淡い青できらめく剣みたいだから。
僕、君の目の色はとてもきれいだと思う。詩人が見たら詩に詠むくらい、きれいだと思う』
すると、アレクセイは気恥ずかしそうに微笑んだ。
『詩に詠まれたくなんかない。でも、ありがとう。君、そんなのすらすら言えてすごいな。
僕が嫌じゃないなら、ミハイル様のところへ連れていってあげる』
そしてすいと手を差し出して、ウラジーミルの手を取った。
ウラジーミルは目を丸くした。手を握られたのは、知らない誰かに触れられたのは、初めてだったので。
本当は、振り払うべきだった。そうするよう教えられて育った。
けれどあの時、きらめく剣のような目に柔らかい笑みをたたえた少年の手を、ウラジーミルはおずおずと握り返したのだ。
手を引かれて階段の陰から出ながら、そんな自分に怖気づいてまた涙がこぼれてきた。
『君、泣き虫だな』
アレクセイはからかうように言ったけれど、その声は優しかった。
ーーー空の青のみを映す山上の湖。
それを思わせるほど、まだ幼かったあの頃から、アレクセイはどこか近寄りがたい、峻烈な孤高の雰囲気があった。年齢の近い子供たちから、遠巻きにされるほどに。
けれど、いったん懐へ入れた相手には、限りなく優しいのも彼だった。
仲良くなって、互いの家を行き来していた頃、薔薇の庭園を案内する時アレクセイはいつもウラジーミルの手を引いた。迷子にならないようにと。初めて会った時も迷子だったわけではないのだけれど、ウラジーミルはそれを言わなかった。アレクセイが手を差し出して、手を取る相手は自分だけ。それが、とても、嬉しかったから。
……思い出すたび、胸は鉛のように重く痛む。
まだ、泣くことも笑うこともできた頃。あまりにも遠い日々。
七年前、九歳の時、生と死の境をさ迷いながら、声が枯れ果てるまで届かない謝罪を言い続けた。泣いて、泣いて、涙も枯れて、あれから一度も泣いたことはない。
突然自分が態度を変えて、アレクセイはどんなに傷ついただろう。けれど、何もなかったように以前通り話すことなど、できはしなかったのだ。
ーーー重くため息をついて、ウラジーミルは庭園に視線を戻す。
かつてユールマグナが豊かだった頃は、水仙の季節が終われば全ての花を植え替えたそうだ。だが、今のマグナにその余裕はない。
最初から豊かだったのが、仇になったのだろう。代々の当主は農地を広げたり収穫量を増やすことに、そもそも内政に関心を持たず、武芸や学問に打ち込んだ。ユールノヴァが最初は資源があっても農地がなく、代々開墾に力を入れたのとは対照的に。
建国時に比べ、現在のユールマグナ公爵領の収入が下がった訳ではない。だが、収入に比較して支出が膨れ上がっている。
開祖パーヴェルの理想は高邁だった。建国当時の事情から考えれば、軍事軍略をもって皇国に仕えよとの家訓は当然でさえあったろう。しかし時代は変わる。時代に応じて変化することが、ユールマグナにはできなかった。
騎士団もアストラ研究機関も、今は既得権益の塊だ。主要な役職は能力の有無にかかわらず世襲で引き継がれ、業者と癒着して巨額の費用を食いつぶしている。内部の権力闘争に明け暮れているが外敵には団結し、何度か試みられた改革には激しく抵抗して逃れ切った。
父ゲオルギーが騎士団に支持されているのは、改革や規模縮小を考えていないからだ。
騎士団にも、研究機関にも、心ある者が現れない訳ではない。しかし、壁の厚さに力尽きて去ってゆく。
『ユールマグナは巨人です。頭と拳が膨れ上がった歪な巨人。歪んだ身体を引きずってようやく這っている有様なのに、自分では気付いていない』
そう言ったのは、アナトリー・マルドゥだった。マグナの分家に生まれ、アストラ研究者として十分な能力を持っていたアナトリーだが、横行する腐敗に眼をつぶることができず、戦って弾き出されていった。
『ウラジーミル様の代には、ユールマグナを改革なさるでしょうか』
そう問われて、ウラジーミルは首を、横に振った。
アナトリーはそれを、改革する意思がないと受け取っただろう。あるいは、改革などできるはずはないという諦めと。
彼は知らない、そんな日は来ないことを。
庭園には五月の陽光。ウラジーミルは考える。
ユールマグナ公爵家は、いつ、滅ぶのだろう。
そして自分は、ウラジーミル・ユールマグナは、いつ……死ぬのだろう。