追想
「両陛下ともご機嫌麗しくあられた。お前のおかげだよ、エカテリーナ」
「わたくしなど何も。お兄様の采配と、皆が準備に励んでくれたからこそですわ」
皇帝の馬車が公爵邸の正門を出て行った後、アレクセイのエスコートで邸の中へ戻りつつ、兄妹はそんな会話を交わした。
ちなみに、正門の前で皇室御一家の還御を待っていた人々は、公爵家の美貌の兄妹にも感嘆の声を上げていたのだが、二人とも自分たちへの歓声にはまったく気付いていない。自分への称賛にはとんと気付かない、妙なところで似た者兄妹である。
「閣下、お嬢様、お茶をご用意いたしました。しばしご休憩ください」
「ああ。グラハム、お前もご苦労だった」
「なにもかも順調で、素晴らしい仕事ぶりでしたことよ」
執事のグラハムをねぎらい、二人は正面玄関から近い小振りな談話室に入る。そこには従僕のイヴァンとメイドのミナが待っていて、それぞれの主人に紅茶を淹れた。
「お兄様がおっしゃった通り、気さくな方々であられましたわ。終わってみれば、楽しいひとときでございました」
「皇后陛下とは、ずいぶん話が弾んでいたな」
「興味深いお話をたくさんうかがいましたの。陛下はとっても素敵な方ですのね。お母様とお年が近いせいか、慕わしい気持ちになりましたわ」
「……そうか」
アレクセイは柔らかく微笑む。
「皇帝陛下も、ご機嫌うるわしくお話しになっておられましたわね」
「ああ、昔から良くしてくださる。まだ皇太子であられた頃は、ミハイル殿下の元へよくお出でになって、皆に勉強や剣術を教えてくださることもあった」
陛下……いいお父さんだったんだなあ。皇子がいい子に育つわけだ。
しかしうちの親父は働かないタラシ、マグナさんちも皇城に初めて来た息子ほっぽって泣かせるってダメ父親の気配濃厚……。
小さい頃のお兄様は、陛下が、いや当時は皇太子殿下だけど、あの方がお父様だったらいいのに、なんて思ったりしたのかな。ウラジーミル君も。
「ミハイル様がお話しになったお小さい頃のウラジーミル様のこと、意外でしたわ。以前は、あまり感心できない方のようにうかがいましたけれど」
「……」
アレクセイは視線を落とす。何か、迷っている風だ。
「あの、お兄様。無理にお話しくださることはございませんのよ」
「いや……無理というわけではない。出会ったばかりの頃は、ウラジーミルは確かに気の優しい子供だった。人見知りではあったが、私にはなついてきたな。弟とはこんな感じかと思った。そして頭脳明晰で記憶力はきわめて優れていた。七歳やそこらで、アストラ古典の詩文をすらすらと暗唱したものだ。
……だがお祖父様が亡くなってしばらく会えず、再会した時には、話しかけても返事もしないで去って行くようになっていた。それからしばらくして」
言葉を切ってアレクセイは苦い顔をした。
「どういうわけかウラジーミルは、お父様とたびたび行動を共にするようになった」
は?
「あの、お父様とは……わたくしたちのお父様、アレクサンドル・ユールノヴァ、ということですの?」
「そうだ」
そうですね他にお父様と呼ぶ相手はいませんよね。しかし。
なんでやねん!
元祖正統派でもう一回つっこむぞ、なんでやねん親父!実の息子であるお兄様はほったらかしだったの知ってるぞ!
その父親がよその子連れて歩くって、お兄様がどれだけ大人びてたとしても、感情的にしこりになるわ!
いや待てよ……あの親父って。名うてのタラシで遊び人やろ?そういう人の行動範囲って、プロフェッショナルな女性のいるお店とかカジノとか……?
それ、子供連れてっていいところなの?
「人から聞いた話にすぎないが、子供には不適切な場所にいることもあったようだ。それでウラジーミル自身も、悪い噂が立つようになった。その、淑女が聞くべきことではないから、場所の説明はできないが」
「はい、お兄様がそのようにご判断されるのでしたら、わたくしうかがいませんわ」
すいませんだいたい想像ついちゃってすいません。
しかしなんなんだ親父。しっかりした息子には怒られる悪い遊びに、よその子を付き合わせて面白がってた……とか?それあの子がいくつの時なんだ……事実だったらそれもある種の虐待だぞ。
「そもそもお祖母様が、マグナの先代と親しかったんだ。お祖母様の母である先の皇太后陛下が、ユールマグナの出身であられたからね。ユールマグナの先々代は、孫である先帝陛下とお祖母様にかしずくように仕えたそうだ」
えーと、クソババアのお祖父ちゃんである当時のユールマグナ当主が、ババアをちやほやして甘やかしたと。それが原因であんな性格に育ったんじゃ……。
いや、同じようにされた先帝陛下は穏和な方だったというから、結局本人の資質だな。うん。
「だからお父様も、マグナの当代当主ゲオルギーと昔から親しかった。お父様とお祖母様が亡くなるまでの数年、ゲオルギーは頻繁にお祖母様の元を訪れてきたものだ。お祖父様が亡くなられた途端にいろいろなことが変わったが……あれはそのひとつだった」
あああ……。
家族の中で唯一愛情をかけてくれた、尊敬するお祖父様を喪って、お兄様はさぞ悲しくて寂しかっただろうに。
途端にクソババアが好き放題始めて、よそのおっさんがうちにしじゅう入り込むようになって、友達だと思ってた子は口もきかなくなって、自分に見向きもしない父親に連れ歩かれてるって……。
すごく孤立感があったんじゃないだろうか。自分の家が自分の家ではなくなってしまったみたいに。
これは、無理だわ。許せる話じゃない。
すいません。BLフラグとかアホなこと考えてすいません。予想を超えて根深い話でした。
思わず、エカテリーナは兄の手を取って両手で握る。
「お兄様……お寂しいことでございましたわね。そのような中で、まだ子供でいらしたお兄様がこのユールノヴァを守るために戦ってこられたとは、なんとご立派だったことでしょう。わたくし未熟な身でございますけれど、これから精一杯お兄様をお支えいたします。お約束いたしますわ」
アレクセイは目を見開き、そっと妹の手を握り返した。
「私は幸せだよ、エカテリーナ。天がお前という賜物をくださったからね。美しく優しい、私の貴婦人」
…………いやそんな大層なもんじゃないんですすいません前世からの追っかけみたいな奴ですいません〜。
「エカテリーナ」
「はい、お兄様」
「お母様は……どんな方だった?」
エカテリーナは思わず息を呑んだ。
兄から、母について尋ねられたのは初めてだ。母の死について謝罪されたことはあったが、それ以後は、まるで避けていたかのように母のことは話題にならなかった。
イヴァンとミナが一瞬目を見交わす。そして一礼し、そっと下がっていった。
「そう、ですわね。お母様はーーー」
エカテリーナの、幼い頃の記憶を呼び起こす。
「お綺麗で、淑やかな方でいらっしゃいましたわ。
皇后陛下はお母様のことを、貴族令嬢の鑑のような方とおっしゃってくださいましたの。今思い起こしましたら、本当にそう。もの静かで、お優しくて……。
そう、刺繍がお好きでしたわ。いつもサンルームで針仕事をしておられました。絵を描くのもお好きで、それから、ピアノがお上手でしたの。小さい頃はよく、お母様が弾いてくださるピアノに合わせて、教えていただいたお歌を歌ったものでしたわ」
そう、小さい頃は。
ピアノは、いつの間にかなくなってしまった。
刺繍は……糸も針も、お母様が愛用されていた優美な裁縫箱ごと消えてしまった。絵の具も、筆も……。
楽しみをすべて奪われ、どんどん暮らしは悪くなって、お母様はそれでも娘に優しかったけれど……鬱々と過ごすようになり、やがて体調を崩して寝込むようになっていった。
「時々……お兄様のことをお話しになりましたのよ。あなたにはお兄様がいるのよ、きっと素敵な紳士になっているわ……と。
お母様のお声は、お優しくて上品でしたわ」
嘘じゃない。確かにお母様は何度もそう言った。
ただ、幼い娘にお母様が繰り返し話してくれたことは。
『あなたのお父様は、それは素敵な方なのよ。美しいりりしいお顔立ちで、背が高くて、勉強も運動も優秀なの。何よりとても優しい方で、うっとりするような素敵な言葉をたくさんかけてくださるのよ。あの頃の魔法学園では、あの方に憧れない女性は一人もいないほどだったわ。嫁ぐお相手と知った時には、夢かと思ったものよ。今はお会いできないけれど、良い子にしてお待ちしていれば、きっと迎えに来てくださるわ。
そうそう、あなたにはお兄様がいるのよ。きっとお父様のような、素敵な紳士になっているでしょう』
生まれてすぐに引き離された息子のことを、あまりイメージできなかったのだと思う。それより、憧れだった夫への恋心の方が強かった。
今にして思う。お祖父様は息子の嫁に、公爵領ではなく皇都に住むよう勧めたんじゃないだろうか。そうすれば周囲の目もある、あまりに横暴な真似はできなかったはず。
けれどお母様は、それを断ったのだろう。妻として、夫の近くで、夫が自分の元へ帰る日を待つと。お母様は憧れの人に恋する乙女であり、従順に夫を信じて従う貴族女性の鑑でもあった。
……そしてあのクソ親父はお母様の元へ帰らなかった。
寝たきりになってからのお母様は、もう夫の話をしなくなった。そのかわり娘に、皇后になってと望むようになった。そして最後に、初めて会ったお兄様を夫と思って亡くなった。
まるで『浅茅が宿』だ。雨月物語。戦乱の中、夫を待ち続けた妻。すべてを失った夫がついに帰り妻と一夜を過ごした翌朝、目覚めてみると家は朽ち自分を迎えたはずの妻は墓に葬られていた……という話。
もしもお母様が、貴族女性の鑑でなかったら。たとえば皇后陛下のような、強い女性だったら。姑に立ち向かって、家族で暮らすことができていただろうか。
でも、お母様がもっと強ければ……と言うのは簡単だけど、実際には酷だとわかっている。
二十一世紀の日本とは違う。貴族女性は結婚相手を自分で選ぶことも許されない、自力で働いて生活するなんて選択肢はない。それがこの世界。皇后陛下はきっと、多くの批判にさらされ、それでも自分を曲げなかった稀有な女性だ。
わかっているけど……ただ。
お兄様に話してあげられることが、もっとあればよかったのに。
お母様はお兄様のことをいつも想っていましたよ、と言ってあげられるならよかったのに。
ささやかだけど平穏な暮らしをしていました、楽しみもそれなりにありました、だからお母様が不幸に亡くなったと思って苦しむことはないんです。そう、言ってあげられるならよかったのに。
嘘でもそう言ってしまいたいけど、きっと、聡いお兄様には解ってしまう。そして、少し無理をして、その嘘を喜ぶふりをしてくれる。
そんなことをさせちゃいけない。私はお兄様に嘘を言っちゃいけない。なんとなく、そう思う。
「エカテリーナ……すまなかった。辛いことを訊いた。もういい、だから泣かないでくれ。私が悪かった」
泣いてなんかいないのに。
そう思ったけれど、抱きしめられて初めて、自分が涙を流していることに気付いた。
ああ、十五歳のエカテリーナが泣いている。久しぶりに少し分裂してる。
「……辛いことなど、ございません。わたくし幸せですわ。お兄様がいらっしゃるもの、わたくし、とても、幸せですわ」
「ありがとう。私も幸せだ、お前がいてくれるから。
優しい、私の女神。私の夜の女王。お前が泣けば、星々も悲しんで流れて墜ちてしまうだろう。だから、どうか泣かないでくれ」
囁く兄の身体にエカテリーナは腕を回し、抱きしめた。兄は母の話を聞いて、きっと悲しかったはずだから。どんなに大人びていても、この人はまだ子供なのだから。お祖父様が遺したものを守るために、わずか十歳の頃から独り戦ってきた、あまりに健気な子供だったのだから。
十七歳と十五歳。
広大な公爵領、莫大な富、四百年の歴史ある名家を背負う、二人きりの孤児。
互いに慰めあう兄妹を、今生の自分から離れて虚空にたたずむ、二十八歳で死んだ女がひっそりと哀れんでいた。