挿入話〜還御〜
迎える公爵家が多大な時間と労力と費用をかけて準備する皇室御一家の行幸だが、多忙を極める皇帝のこと、そう長い時間を割けるわけではない。昼食の後は、もう皇城へ還御となる。
ユールノヴァ騎士団と皇室騎士団が守りを固める公爵邸正門の外では、還御の気配を感じ取ったのか、人々のざわめきが大きくなっている。
皇帝の馬車が待つ正面玄関の車回しに皇室御一家と公爵家兄妹が姿を現わすと、門の外からわあっと歓声が上がった。
「馳走になったな、アレクセイ。そなたらしい、ゆきとどいたもてなしであった」
「光栄に存じます。家中の者たちも喜ぶことでありましょう」
君臣が言葉を交わす隣で、皇后は両手でエカテリーナの手を取っている。
「楽しかったわ、エカテリーナ。今度はぜひ皇城へ来てちょうだい」
「嬉しゅうございますわ。ぜひおうかがいしとうございます」
エカテリーナも皇后の手を握り返して、まるで級友のような親しさだ。皇后の横でミハイルが苦笑していた。
「アレクセイ、エカテリーナ。今日はありがとう、学園でまた会おう」
ミハイルの言葉を最後に、御一家は馬車に乗り込んでゆく。
そして皇室騎士団の奏者が高らかに奏でる角笛を合図に、魔獣馬に引かれる馬車はゆっくりと動き出して、ユールノヴァ公爵家を後にした。
「……今年のノヴァは、青薔薇がなかなか美しかったな。そう思ったであろう」
「あら、陛下が令嬢のことをお気に留められるとは、お珍しいこと」
往きと同じく沿道の人々に手を振りつつ、皇帝コンスタンティンは機嫌良く言った。
こちらも微笑みを絶やさず手を振る皇后マグダレーナが、揶揄うように言う。
「なに、そなたがあまりに気に入っておったからな。ずいぶんと話が弾んでおったではないか」
「ええ、それは」
ふ、と微笑んだ皇后が、コロコロと笑い出した。
「あの子ときたら……!関税だの、船荷の保険だのの話を、目を輝かせて聞く令嬢など初めてですわ。少し説明しただけで、理解の深く広いこと。さすがアレクセイの妹ですわね。
ようやくドレスの柄に目を止めたと思えば、自分に似合うかより、どこの国のものでどういった文化から生まれたのかを気にして、あちらの技術や感性にしきりと感心しているのですもの。
あの国の大使の機嫌を取りたい時には、会食にエカテリーナを連れて行くべきですわ。別の文化の話を偏見なく嬉々として聞く上に、あの若さであの洞察力。大使を感激させられることでしょう」
エカテリーナがこの評価を聞いたら『すいません中身ぜんぜん若くなくてすいません』と深く頭を下げるだろう。
「ふむ。世間へ出てまだ一年にもならぬはずだが、驚くべき進歩だな」
本来ならエカテリーナは、子供の頃から皇城に出入りしていておかしくない身分だ。母親であるアナスタシアも、皇都の社交界で華やいでいるべき立場だった。それなのに、十数年姿を見せぬまま亡くなった。夫アレクサンドルは公爵を継いでからほとんど皇都で過ごしていたにも拘らずだ。アナスタシアが病のため静養しているという名目だったが、誰も信じていなかった。
アナスタシアとエカテリーナが身分にふさわしからぬ、不幸な暮らしをしていたのは想像に難くない。社交界では、二人は石牢に閉じ込められているなどと、おどろおどろしい噂が囁かれたものだ。
しかし今日初めて会ったエカテリーナは明るく聡明な少女で、兄を助けて公爵家を盛り立てようとする気概に満ちていた。その精神の強さは称賛に足る。いつもは隙が無さすぎるほどのアレクセイが、妹には甘い顔を向ける様子も、微笑ましかった。
「アレクセイとエカテリーナ、今後はノヴァ訪問が楽しみになる」
「あら、わたくしは昨年までも、ある意味楽しんでおりましたわよ?」
ほほほ、と皇后は笑う。
エカテリーナの想像通り、アレクサンドラは甥の嫁に素直に頭を下げる人物ではなかった。
そもそもマグダレーナとアレクサンドラは、互いに相容れない考え方の持ち主だ。マグダレーナのくだけた話し方、大きな笑み、他国まで広がる交友関係、男勝りのレイピアの腕前、経済への取り組み、そして夫とあまり変わらないほどの長身。アレクサンドラはいちいち否定したものだ。
『あなたには威厳も淑やかさもない。皇室に最もふさわしくない人間。これほどの失格者を皇室の一員にふさわしく教育せねばならないとは、わたくしの不運をピョートル大帝も哀れんでくださるでしょう』
扇の陰で嘆息したアレクサンドラに、当時は皇太子妃だったマグダレーナはこう返した。
『あら教育だなんて、いつの間に家庭教師の職に就かれましたの?働いて糧を得る大切さに気付いてくださいましたのね』
降嫁したとはいえ皇帝陛下の姉君になんという口をきくのかと、あの時はアレクサンドラの取り巻きがぎゃあぎゃあ姦しかったが、まあまあの返しだったと思っている。
その後セルゲイ公を喪い気落ちした先帝陛下が譲位を決断し、マグダレーナも皇后となった。明確に上の身分になっても不愉快な相手だったが、マグダレーナが生み出すものを否定するアレクサンドラが徐々に影響力を失って苛立つ様子は、それなりに愉快だった。
「ですが、ええ、エカテリーナは楽しみですわ。エリザヴェータも可愛い子ですけど……ねえ」
エリザヴェータはユールマグナの令嬢で、年齢は十歳だ。ミハイルに気に入られようとする様子は健気で、見目も愛らしく、よき貴族令嬢になると思われるが、なにぶんまだ幼い。
そして彼女の父親ゲオルギー。彼は三大公爵が皇帝の前に集まる御前会議、三公会議でエカテリーナのことを『ノヴァの令嬢は病弱で教育を受けたことも他家を訪れたこともない』と揶揄したことがある。
ライバルを蹴落とすにしても、不遇な少女をあからさまに貶める発言は、言う者の株を下げる。それに気付けない。ミハイルの妻の一族は、すなわち次の皇帝の外戚となる。娘を推すつもりで自分が不安要素になっているようでは世話はない。
皇帝はふむと唸った。
「しかし、アレクセイは妹をどうするつもりかな」
皇帝皇后の前ではっきりと『妹は身体が弱い』と発言する意味を、理解しないアレクセイではない。皇后になればもとより、皇太子妃とて激務である。なにより、現実として最大の役目は世継ぎを産むことだ。よって、健康であることは大きな条件になる。
アレクセイの言葉は、ユールノヴァはエカテリーナを皇后に立てることを望まない、と明言したも同然だった。
「ノヴァは今はあの二人きりですものね。大叔父のアイザックも子がなかったはず。エカテリーナを分家にでも入れて、家中のてこ入れをしたいのかしら。ただ可愛くて手離したくないのかもしれませんけれど。
ですが、エカテリーナ自身はどうしたいのかしら?」
ここで皇帝皇后夫妻は、自分たちの息子にちらりと目をやった。
「……エカテリーナは僕に興味はないですよ」
微笑みを絶やすことなく窓の外へ手を振るミハイルだったが、その声音は彼が意図したほど淡々とは聞こえなかった。
「初めて話しかけた時なんて、毛虫でも見たみたいにぎょっとされましたから。後ずさりでもするんじゃないかと思ったぐらいだ」
後ずさりしそうになったのが、完全にバレていたエカテリーナであった。
「そういう策かもしれなくてよ?」
「気を引こうとして気のない振りをする子は、前にもいました。女の子は怖いですよね。でも、エカテリーナはそうじゃなさそうです。魔獣と戦った後も、アレクセイにべったりで僕なんか居ることも忘れてたし」
存在を忘れていたのもバレバレである。
「突然魔獣が現れたのに、落ち着いて定石通り戦っているからさすがノヴァの子だと思ったら……終わったとたん大泣きしてアレクセイにしがみついて、急に普通の女の子になってました。勇敢だったねって褒めたら、泣きそうになるし。あれは……ちょっと、可愛かったですけど」
だんだん独り言のようになってきた息子の言葉を、聞き流すふりで両親が聞き入っていた。
「正直言って、あんなに僕のこと眼中にない女の子は初めてです。ですから、アレクセイに逆らってエカテリーナが僕の結婚相手になりたがる、なんてことはありえない。
むしろ、彼女が嫌がっているからアレクセイがああ言ったんじゃないかな。……さすがに、そう嫌がらなくても、って気はしますけど。毛虫扱いは心外だ」
「……ふむ」
呟いたのは皇帝コンスタンティンだった。
「まあ良かろう。そなたの卒業まで、まだ時はある」
皇国の皇位継承者は、学園卒業後に立太子式をおこない正式に世継ぎとなる。その際、伴侶となるべき女性も立太子式に参加し、その後結婚して皇太子妃となることが多い。
「情勢は変わる時は変わるものだ。それに、若者の心もな」
『わたくし、自分で商会を立ち上げて商売をするの。自分の船を持って世界を巡るのが夢なの。わたくしみたいな大女に構っていないで、他の可愛い女の子をお嫁になさいませ』
皇帝も皇后も知っている。
ミハイルが父親にそっくりなのは、外見だけではない。逃げられると追いたくなる気質、追い始めれば手中にするまで諦めない執着の強さを、受け継いでいる。
(煽るなよ)
(わかっています。逆効果でしょう)
親同士の視線でそんな会話が交わされたことに、ミハイルは気付かなかった。