行幸前日
日々は飛ぶように過ぎて、今日はもう行幸の前日。
皇都公爵邸の広大な薔薇園は、ほぼ満開。色とりどりのあでやかな薔薇の花々が放つ、かぐわしい芳香が大気を満たしている。
その中で庭師たちは、最後の調整に忙しい。盛りを過ぎた株を邸の裏手にある別の薔薇園の株(開花時期を調整するため、皇都より涼しい公爵領の本邸からわざわざ運んできたもの)と植え替えたり、逆に開花が遅れている株を温室の株と植え替えたり、最後の剪定をしたり、雑草を抜いて地面を掃き清めたりーーーすべてを今日中に終わらせるべく、やることは山積みだ。
そんな忙しい庭師の一人が、お邸のバルコニーに置かれた巨大な植木鉢に植えられた、深紅の薔薇の手入れをしていた。重たげな大輪の花の向きを整え、変色した葉があれば取り除く。薔薇一本の全体を姿よく見せて、庭園の花波とは違った美しさを作り上げてゆく。
「まあ、素敵。きれいにしてくださってありがとう」
「へえ……」
メイドだと思って振り向いた庭師は、ぽかんと口を開けた。
まるで大輪の青薔薇。
見たこともないほど美しい女性だった。
つややかな藍色の髪を結い上げていて、白いうなじがなまめかしい。大きな瞳は紫を帯びた青。長いまつ毛も藍色なのだろう。微笑むふっくらした唇が、なんとも色っぽい。髪飾りと耳元に、豪華な宝石をつけている。折れそうにほっそりしているのに、豊かな部分は目のやり場に困るほどだ。
そして彼女がまとうドレスの色彩ーーーなんていう青だろう。藍色よりもわずかに青い、太陽が去って星が輝き始める空の、深く深い宵闇の青。この女性のために作られた青なんだろうか。なんてよく似合っているんだろう。
ああ、こんな色の薔薇を咲かせたい。薔薇に関わる誰もが夢見る青薔薇の色は、こうでなければ。
「驚かせてしまったかしら。お忙しいところにごめんなさいましね」
そう言われて、我に返った庭師は慌てふためいた。
「申し訳ありません!あっしみたいなのがお目を汚しちまって……!」
ユールノヴァ公爵家は、大奥様がおっかなくて理不尽なことで有名だ。下々の分際で高貴な方の目を汚すなとか言われて、大奥様が庭へ出る時は、どんなに忙しくても庭師は全員どこかへ隠れなければならない。
だが、どう見ても高貴な貴婦人に違いない目の前の女性は、微笑んだ。
「申し訳ないのはこちらの方でしてよ、どうぞお続けになって。お時間をとらせてしまったこと、お許しになってね。ごきげんよう」
背を向けて、青薔薇の貴婦人は去ってゆく。
白日夢を見たようで、庭師はため息をついた。
「お待たせいたしました」
ドレスの裳裾を引いて、しずしずと二階から階段を降りていくと、階下で何か話していたアレクセイと騎士団長ローゼンがこちらを見上げ、ぴたりと話を止めた。
二人の視線に感嘆がこもっている気がして、エカテリーナはほっとする。カミラさんとずいぶん悩んだ甲斐があったかな?
でも騎士の礼服をさらに華麗にした騎士団のあるじの礼装を、さらりと着こなしているお兄様こそ素敵ですよ。
結局、ドレスは二着作った。打ち合わせの翌週にカミラが持ってきた仮縫いが二パターンあり、行幸の前日にも騎士団との行事ができたことだし、前日と同じドレスで皇室御一家をお迎えするのはまずいだろうということで、両方注文することになったのだ。カミラがそれを狙っているのはよくわかったし。
どちらも形はスタンダードなAライン。けれどスカートの広がりは控えめにし、代わりに後ろへ少し裳裾を引いた。天上の青の美しさを活かし、メインは瑠璃色。そこに春空色と夏の天頂色を挿し色として一部だけに使った。二着の違いはどこに挿し色を使うかと、少し飾りにつけたレースが白か黒かだけ。
今日着ているドレスは白いレースの方で、スカートは瑠璃色の下に夏の天頂色を覗かせ、袖と襟に春空色を使っている。手には白い手袋。胸元に大きな宝石のブローチ。
宝石は、前世には存在しなかったもの。虹石というそうだ。瑠璃色の生地の上で、きらめく光を放っているーーー本当に光っているのよこれ!光るというか、透明な石の中に青い光が閉じ込められて渦巻いている、という感じ。その様子が、石の中に青い光の薔薇が封じ込められているかのよう。
虹石自体はさほど珍しいものではなく、全体がぼーっと光るものは灯りとして使われたりする。けれど、こんな綺麗なのはとても貴重で、れっきとした宝石として高値がつく。特にこの石は、同等のものが見つかることは二度とないであろうという、アーロンさんの激推しだった。博物館に収蔵されるクラスですね。
結い上げた髪には金細工に大粒のサファイアがはめ込まれた髪飾り、イヤリングは髪飾りと対のサファイア。重いほど大粒。ユールノヴァ家に伝わるもので、前世だといくらの値段か、これこそ考えると怖い。たぶん、億でもおかしくない。ひええ。
ドレスのデザインはシンプルだけど、さすがこのクラスの宝石は存在感がすごい。ゴージャス。
……ただ、シンプルで上品なドレスなんだけど、それだけに体型がはっきり出ちゃうのが誤算というか。悪役令嬢のけしからんスタイルでこういうの着るとねえ……胸元とか一切露出せず包み隠してるのに、それが身体にぴったりしたライダースーツ着た峰不二子的な、ものすごいセクシーを醸し出してしまった。ほんっと十五歳にして可憐さとは縁がない。
カミラさんはむしろ計算通りらしく、『皇都の殿方の視線はお嬢様に釘付けですわ!』とか大喜びしてたけど。いや求めてないからね?
階段を降りたエカテリーナの手を取って、アレクセイはしみじみと言った。
「美しい。夜の女王のようだ」
夜の女王とは、宵闇の精霊とも呼ばれる夜の女神のことだ。前世のヨーロッパと違い多神教の皇国で、主要な神というわけではないが、最も美しい女神の一柱とされる。
「百万の星の光も、満月の光も、お前の美しさに敵わない。天上の青と誰が名付けたのかを私は知らないが、お前が天に昇ってしまいそうで恐ろしいほどだよ。どうか何処にも行かないで、私の側にいてほしい」
そう言って、アレクセイは妹の指先に口付けた。
「お兄様ったら」
さすがお兄様。妹を美化するシスコンフィルターが分厚いですね!
そして貴族男子の美辞麗句スキルすげえ!
「お嬢様、まことにお美しい。皇国で最も美しい貴婦人を戴くことができるとは、ユールノヴァ騎士団は幸福にございます」
「まあ、お上手。恐れ入りますわ、騎士団長ローゼン様」
騎士道精神には貴婦人への美辞麗句も盛り込まれてるもんな。美辞麗句を本気で言えるのも騎士のたしなみなんですね。ごっつぁんです。
アレクセイにエスコートしてもらって、ローゼンの先導で移動した先は小部屋だった。優美な装飾が施され、壁紙も家具の布地も深緑で統一された、歓談のための部屋。
そこにエカテリーナの見知った人物が待っていた。
「お嬢様」
「マルドゥ先生!」
眼鏡をかけた温和な印象のアナトリー・マルドゥが、ユールノヴァ騎士団員の礼服を身に付け、剣を手にした姿で立っている。
そして、アレクセイとエカテリーナに深々と一礼した。
「お陰様をもちまして、栄光あるユールノヴァ騎士団の一員に加えていただきました。この大恩を決して忘れず、全身全霊をもって務めを果たす所存にございます」
その姿が様になっていて、エカテリーナは感心する。眼鏡と穏やかな口調は文官向きに思えていたが、大柄でたくましい体格は騎士として充分通用しそうだ。正規雇用とはいえ、家庭教師から騎士団員は畑違いすぎる仕事ではないかと心配していたのだが、これは大丈夫かもしれない。
「まあ先生、よくお似合いですわ。わたくしの方こそ、先生の学識に助けていただきましたのよ。わたくしどもの騎士団に加わっていただくことになり、嬉しい限りですわ」
「ああ、エカテリーナの魔獣との戦いぶりは見事だった。その見識を活かし、騎士団の戦術向上に尽くしてくれるよう期待する」
「恐れ入ります。お嬢様のご活躍は、ご自身の素晴らしい魔力とご熱心な学ぶ姿勢があればこそでございますが、大恩あるお嬢様のため、そして騎士団の敬愛するあるじアレクセイ閣下のため、微力を尽くさせていただきます」
マルドゥ先生、馴染むの早いというか……騎士団員らしい話し方とか板についててすごいんですが。家庭教師になる前の経歴が気になってきます。
と思ったら、アレクセイが言った。
「エカテリーナ、知っていたか?マルドゥはユールマグナの分家に生まれ、研究者としてアストラ研究機関に勤めていたそうだ。マグナは尚武の気風が徹底しているから、研究機関の学者さえ鍛錬させる。武芸の腕も持ち合わせた、騎士団の参謀にはうってつけの人材だ」
「まあ、そうでしたの!」
「お恥ずかしいことですが、辛抱が足りず飛び出してしまいまして。食いつめた身を拾っていただいた上、ユールノヴァ家の文献を調査し実際の魔獣対策に役立てるという、私にとって夢のような役目をいただきました。すべてお嬢様のおかげでございます。妻子も深く感謝しております」
フローラちゃんの為に聖の魔力について調べるのも、マルドゥ先生がやってくれるそうだ。
私は先生に、魔獣との戦い方を根掘り葉掘り聞いただけなんだけど。なんか良い方へ転がってほんと良かったです。