風の挨拶
手綱の持ち主が変わっても、ヴェントゥスは反応せずじっと立ち尽くしている。
その背に、アレクセイはひらりと飛び乗った。
――途端。
ヴェントゥスが走り出した。
は、疾あああああ――っ!
エカテリーナは、内心で絶叫だ。
なんというロケットスタート!こんなの見たことない!
前世のニュースとかでたまにダービーとか皐月賞とかの有名レースのVTRがちょっと出てくるのを見たけれど、馬たちが入ったゲートがガシャっと開いてさあ各馬一斉に飛び出したとか決まり文句のアナウンスが入っていたやつ、絶対あれより魔獣馬のほうがはるかに初速が速い!
どうしようこんな速度でお兄様が落馬したら!
こんな危険なことを願ってしまっていたなんて私はなんてことを私のバカバカバカーっ!
いきなり錯乱したエカテリーナだが、そんなものは序の口だった。
ヴェントゥスが駆ける先には、馬場の柵がある。速度からして、停まるも避けるもあり得ない。その柵の、はるか手前で。
魔獣馬は踏み切った。
その跳躍。
いや何これーーーーっ!
オリンピックの中継で見た馬術競技で障害を飛び越えるやつ、あれって人馬は塀の直前で踏み切って跳んでたよ?飛距離はどれくらいかわからないけど、障害の高さは人間の身長くらいありそうで、それだけに距離はそんな何メートルも跳んではいなさそうだった。
魔獣馬の跳躍力、レベチが過ぎる!
ヴェントゥスの跳躍、高さはおそらく優に三メートルを超えている。長身のアレクセイを背に乗せてだ。
長く長く思えた滞空の後、馬蹄の音を響かせて着地したその飛距離は。
も……もうよくわからないけど、十五メートルくらいなのでは?
後ろから見ているから距離が掴みにくいし、着地してまったく速度が衰えないまま駆け去って見えなくなってしまったので正確なところは分かりませんが……。
馬ってあんなに跳べるものなの?馬ではなく魔獣馬だから別の生き物なんでしょうけど、体型はそりゃサラブレッドよりちょっとがっちりしているけど、充分優美なのに。あの細い足であのジャンプをして、とんでもないはずの着地の衝撃がどうして平気なのかわかりません。
そういえばご先祖ヴァシーリー公の愛馬は、あるじと発明家ジョアンナさん二人を背に乗せて、大河を跳び越えたんだった。なんちゅう生き物ですか……。
「エカテリーナ様」
マリーナが心配そうに手を握ってくれて、エカテリーナは我に返った。
いつの間にか両手を祈りの形に組んでいて、その手に関節が真っ白になるほど力を込めてしまっていた。
「そんなに心配なさらなくても、閣下は大丈夫ですわ」
確信を込めた口調で、マリーナは言う。
「あれくらいは、なんと言うか魔獣馬の挨拶のようなものですわ。ヴェントゥスはちゃんと、閣下があぶみに足を入れるまで駆け出すのを待っておりましたもの。少し試そうとしているだけなのです。閣下もヴェントゥスの動きに、解っていたように合わせていらしてさすがでいらっしゃいました。魔獣馬の瞬発力についてこられる方は、なかなかおられませんのよ。閣下がふさわしくない乗り手であれば、最初にぶっ飛ばされておりましたわ」
最後、猫が仕事をしてない。
「さっきのを見て確信したが、アレクセイは魔獣馬に乗ったことがあるな」
ニコライがエカテリーナに言った。
「セルゲイ公がゼフィロスに乗る時に一緒に乗らせて、柵を跳び越えたりしたんじゃないか。十歳かそこらの頃の記憶といっても、アレクセイほどの馬術の腕前があれば、充分にものを言う。安心して待っていればいいさ」
「ありがとう存じます……」
魔獣馬をよく知るクルイモフ兄妹の言葉は心強く、エカテリーナはほっと息を吐いた。固く握り合わせていた手を、ゆっくりとほどく。
「確かに兄は、祖父と一緒ならゼフィロスは乗せてくれたと話しておりましたわ。触れようとすると睨まれたと……祖父は愉快そうに笑っていたそうです」
もはやゼフィロスの話題はタブーではない。
お茶目なところもあったお祖父様なら確かに、お兄様と一緒にゼフィロスに乗った時に、柵越えの大跳躍で孫を喜ばせようとしてくれそう。十歳のお兄様にとっては、さぞわくわくする体験だっただろうな。
そしてその時から、いつかお祖父様のように魔獣馬のあるじとなることを、夢見ていたことだろう。
その時、馬蹄の轟きが近付いてきた。
「お、一周りしてきたか」
ニコライが言う。どうやらアレクセイとヴェントゥスは、広大なクルイモフ邸をもう一周してきたらしい。
広さではクルイモフ邸は、ユールノヴァ公爵家皇都邸に勝ると思われる。それをこの短時間で一周……と頭がバグりそうになるエカテリーナである。
人馬の姿が見えてきた。エカテリーナたちのいる馬場へ、まっすぐに向かってくる。
再び柵のはるか手前で踏み切ると、ヴェントゥスは跳躍した。
先ほどよりも高く、先ほどよりも遠く。
さながら天へ駆け上るような、大跳躍。
その時の兄の表情を、エカテリーナは確かに見た。
ああ……。
ああ!
着地するや、駆け去ってゆく。いっそう速度が上がったように思える。
「折り合いがついてきたな。やはり相性が良さそうだ」
満足げにフョードルが言った。
「ああ、もうほとんど御せてる。楽しそうだ」
ニコライも言う。
そんな兄の姿をエカテリーナは見送りたかったが……もう、視界が、歪んでいた。
「エカテリーナ様?」
マリーナが、エカテリーナの顔を覗き込む。
涙のしずくを散らせて、エカテリーナは思いきりマリーナに抱きついた。
「ありがとう存じます――ありがとう存じます!兄のあのような顔、わたくし初めて見ることができました。目を輝かせて、夢中になって。心の底から楽しそうでした!
わたくしはずっと、あの姿が見たかったのですわ。公爵という立場をひととき忘れて、十八歳の若者らしく自分の喜びに浸ってほしいと、ずっと思っておりました!今日、願いが叶いましたわ。クルイモフ家の皆様には、お礼の言葉もございません。本当にありがとう存じます!」
嬉しい、本当に嬉しい!
いつだって公爵、当主という立場を最優先にしていて、個人として生きることを忘れてしまっているようなお兄様が。魔獣馬を駆ることに夢中になって楽しんでいたあの顔、好きなことに打ち込む普通の若者の顔になっていた。
普通というにはあまりにもイケメンだけどね!
ヴェントゥスを得て、人生を楽しむひとときを得て、お兄様の人生はこれからきっと変わる。
過労死防止にもきっと効果絶大に違いない!
「エカテリーナ様」
マリーナが優しい声で言って、エカテリーナをそっと抱いた。
「わたくしたちがこの贈り物を選びましたのは、閣下がふさわしい方であればこそですわ。そして、エカテリーナ様がいつも人のためにできる限りのことをしてくださる方だからです。わたくしはただ、日頃のお返しをしたかっただけでしてよ」
「マリーナ様……」
エカテリーナは涙にくれ、フョードルとニコライ父子は二人の少女を温かく見守っていた。
その後しばらくして、アレクセイとヴェントゥスは戻ってきた。
両者の間にはしっかりと『折り合い』がついたようで、ヴェントゥスの歩みは軽やか。アレクセイは白皙の頬を珍しく紅潮させて、高揚した気持ちが伝わってくる。
「どうだった」
ニコライの問いに、アレクセイは笑って答えた。
「凄まじい」
答えながらヴェントゥスの背を下り–—アレクセイはふらりとよろめく。
驚いた表情でヴェントゥスに寄りかかるアレクセイに、ニコライは破顔した。
「わかる、わかる。最初は、気が付かないうちに、つい力が入ってるんだよな」
ああ、ニコライさんも嬉しいんだ。友達が、魔獣馬を知る同士になったこと。
それに気付いて、エカテリーナはいっそう嬉しくなる。
ニコライはにっと笑った。
「けど、何度か乗るうちに慣れるさ」
その裏の意味を汲み取って、エカテリーナは兄をじーっと見る。
お兄様、もう意地を張ったりしませんよね?ヴェントゥスを受け取りますよね?まだ何か言ったら、ニコライさんががっかりしますよ?
ふ、とアレクセイは微笑んだ。ヴェントゥスの首を軽く叩く。
「邸にお前の厩を建てさせる。完成するまで、待っていてくれ」
ぶるる、とヴェントゥスが鼻を鳴らす。嬉しげに聞こえた。
やったあ!
「ようございましたわ、お兄様。わたくし嬉しゅうございます」
「エカテリーナ……」
アレクセイが妹に向き直り、何か言いかける。
が、息を呑んで言葉を止めた。
あれ?
はっ!さっき泣いたのに気付かれた?クルイモフ家の皆さんの前でお兄様のシスコンが暴走したらどうしよう!
あわてて、両手で目元を覆うエカテリーナ。
しかし、その時に気付いた。
なんか、私……。
後ろから、ふんふんされてない?
お読みくださってありがとうございます。
浜千鳥です。
前回はたくさんのご感想ありがとうございました。ずっと書きたかったエピソードなので、楽しんでいただけてとても嬉しいです!
実は、階段を踏み外して足の小指を骨折してしまいました。さほど痛くはないのですが、やたら眠くなるのが不思議です……。なにとぞ足元にはお気をつけて。
次回更新は来年の1月4日とさせてください。
早すぎて恐縮ですが、皆様、良いお年を。




