挿入話〜兄妹二態〜
少し時を遡って、エカテリーナがアレクセイの元から駆け去った後。
午後一の授業が終わった小休憩、アレクセイは机に肘をついた手で目元を覆い、何度目かのため息をついていた。
さっきの授業、アレクセイはさんざんだった。完全に上の空で、教師に当てられても答えられないどころか、何を訊かれたかもわからないありさま。呆れた教師に「もういい」と言われて呆然とした。入学以来、常に一分の隙もない授業態度を通してきた彼にとって、許容しがたい失態だ。
そんなアレクセイの横に、ぬっと現れた大柄な男子生徒がいた。
「おい、公爵。あんた今日はどうしたんだ。何かあったのか」
不思議そうに言う。燃えるような赤毛に金色の瞳、長身で見事な筋肉を持つ彼は、ニコライ・クルイモフ。伯爵家の嫡男である。
ニコライは屈託のない性格で、クラスの全員、下手をすると教師からも敬して遠ざけられているアレクセイに、他の皆と接するのと同じ態度で話しかけてくる。
魔法学園はクラス替えがなく、三年間同じ顔触れだ。一年生の頃から公爵領の業務を行ってきたアレクセイを、揶揄する意味で『公爵』と陰で呼ぶ者がいるのは承知していた。しかし面と向かってあだ名のように呼ぶのはニコライだけだ。
それを咎めなかったのは、かつてユールノヴァ家が負ったクルイモフ家への借りがあるゆえだった。しかし実際に爵位を継承しても変わらずニコライの深みのある声で呼ばれる『公爵』は、爵位とは異なる彼だけの呼び名のように感じられて、不快なものではなくなったのだ。
ニコライを、アレクセイはひそかに、自分とは正反対の人間だと思っている。そのつもりがなくとも場に足を踏み入れただけで空気を緊迫させるアレクセイに対し、ニコライはそこにいるだけで場を暖かく和やかにするようだから。
そして今は、アレクセイはあまりに弱っていた。だからつい、言ってしまった。
「……妹を泣かせてしまった」
「は?」
ニコライは目を丸くする。
「おいおい、そんな理由か?妹なんてのは、なんもなくてもしじゅうピーピー泣いてる生き物だろ。放っておくといつの間にか俺が悪いことになってて、親父かお袋にぶん殴られる羽目になって、あいつはそれ見てアカンベーとかしてきやがるんだ」
彼にも妹がいるようで、後半はただのぼやきと化していた。
伯爵や伯爵夫人が『親父』『お袋』『ぶん殴る』とは奇妙だが、クルイモフ家は特殊だ。魔獣との混血馬を交配し調教する秘術を伝える家柄なのである。領地の統治すら管理人に丸投げする貴族も多い中、クルイモフ家の当主は広大な牧場で自ら働き、出産シーズンには手ずから仔馬をとり上げることで知られている。そして当代の伯爵夫人は、有力な侯爵家の令嬢でありながら馬が好きすぎてクルイモフ家に押しかけ女房し、先代の伯爵夫人に『逸材』と呼ばれた女性だという。
と、ニコライは何か思い出した様子で「あ」と言った。
「そういや、あんたの妹らしいのがここに来たな。藍色の髪で、紫がかった青い瞳の、きれいな子じゃないか?
うん、新入生とは思えないぐらい大人っぽい、すごい美人だった。透き通りそうなほど色白で、折れそうに細かったなあ。ぱっと見は近寄りがたく見えたんだが、あんたの居場所を教えたら、丁寧に礼を言ってくれた。感じがいいのに、なんかきらきらした、気品てのかな、それがすごかったぞ。
すまん、あれはうちの妹とは別の生き物だ。あれが妹ならうちのは猿だ」
ははは、とニコライは笑う。
「今年の新入生で一、二を争う美人だって騒がれてるぞ。青薔薇の君、とかって呼ばれてるらしい。もう一人目立つ美人がいて、そっちは桜花の君だそうだ。
それはともかく、なんであんたが、あんなお淑やかそうな妹を泣かせたんだ?そんな落ち込むぐらい、大事にしてるくせに」
「……交友関係について、好ましくない点があった。友人だと連れて来た同級生が、釣り合わない身分だったので……」
「ほーう」
意外な答えだったようで、ニコライは唸った。
「付き合うなと言ったら、嫌がって泣いたわけか。
そりゃなあ、ユールノヴァ公爵家ともなれば、おかしなのが寄ってくるのを警戒しなきゃならんだろうが……しかしあんたの妹なら、そのへんは昔から心得てるもんじゃないのか?」
「あの子は……あまり人付き合いをしてこなかった。長く……静養していたんだ」
「ああ、そういえばあんた入学式の後、妹が倒れたって言って遅れてきたな。身体が弱いのか、ますますうちの猿とはえらい違いだ。
しかしそうするとーーーその身分違いの同級生が、初めて出来た友達ってことになるんじゃないか?」
その言葉に、アレクセイははっと目を見開く。
まさに、そのはずだった。友達どころか、領地に居た頃は側近くに仕える使用人がエカテリーナの声を聞くことすらまれなほど、誰にも心を開かないと報告を受けていたのだ。
そんなエカテリーナが、皇都へ来てからは見違えるように明るく話すようになり、報告にあった姿を想像することすら難しくなっていた。だから、失念していた。
「そういうのをきつく言うと、下手をするとこじれるなあ。
その同級生、付き合わせるわけにいかないような、好ましくないタイプだったのか」
「いや……」
卑下することなく自分の出自を語ったフローラを思い出す。下手な貴族より、よほど品位を感じさせた。
「ただ……あの子には、貴族の付き合いを学んでほしかった。まだ何も知らない、優しすぎる子だから。あの子の守りになるような人脈を得て……」
アレクセイは口ごもる。近い身分の者ほど油断ならない、彼はそのことを身に沁みて知っている。
ふと思った。
ーーーお祖父様なら、如何されただろう。
祖父セルゲイは、有能であれば身分にこだわらず重用した。しかしそれは部下の話だ。祖父の親友フォルリは侯爵家の三男、のちに実家とは縁を切ったが、友人としてふさわしい家柄の生まれではある。
だが……祖父には腹違いの弟がいる。アレクセイにとって大叔父にあたる、庶子のアイザックだ。母親が違っても祖父と大叔父は仲の良い兄弟で、祖父は五歳年下の弟を幼い頃から可愛がっていたと聞く。少々変わり者だが優しいアイザックは今では高名な学者で、さまざまな身分の人間と交流がある。祖父に引き合わせることもあったはずだ。
アレクセイが平民出身の友人を祖父に引き合わせたとしても、祖父がその交友に何か口出しすることは、考えにくかった。
そう、祖父は口出ししないだろう。身分違いの友人を徹底して排斥するのは……。
アレクセイはぐしゃりと前髪を掴んだ。
(エカテリーナ……お前は、正しかった)
烈火のごとく怒ってわめき散らす声が耳に蘇る。
排斥するのは、祖母だ。
『お母様を虐げた……お祖母様と、同じですわ……』
ずっと祖父を心の指針とし、祖父亡き後には祖母の横暴からユールノヴァ公爵家を守ってきたつもりだった。父でなく自分が、祖父から公爵家を引き継いだ。そんな自負を持っていた。
それなのに、いつの間にか自分は、祖母の考えに染まっていたのか。
あの子はもう……手を握っていて欲しいと言っては、くれないのだろう。
ぽんぽんと肩を叩かれた。
「公爵、おい公爵、どうした。ユールノヴァ。アレクセイ」
ニコライに呼ばれて、アレクセイは我に返る。
「大丈夫か、顔色悪いぞ。具合悪いんじゃないか?」
「いや。体調は問題ない」
頑なに首を振るアレクセイに、ニコライは苦笑する。
「《氷の薔薇》が溶けて萎れたって感じだな」
「なに……?」
「やっぱり知らんか、女子の一部があんたに奉ってるあだ名だ。
ま、あんまり落ち込むなよ。兄妹なんて一生どうしたって兄妹なんだ、多少波風立つ時ぐらいあるさ。友達との付き合いは、学園にいる三年間ならってことで、許してやればいいんじゃないか?その友達に、おかしなことを吹き込まれる恐れとかあるなら別だが」
一瞬だけ、アレクセイは唇の端で微笑った。
「……料理くらいだ」
「あ?」
「あの子はその友達に料理を教わって、執務室に持って来た。ちゃんと食事をとってほしいと言って」
「そんな妹がこの世にいるのか」
ニコライは真顔で唸る。
「うちの猿なんか、飯が置いてあれば俺の分まで食っちまうぞ。なのにあいつの菓子を俺が食ったら、ピッチフォーク振り回して庭じゅう追いかけ回してきやがった」
ピッチフォークとは、牧場で牧草などをすくうのに使われる、人も殺せる巨大フォークである。
「猿と違ってあんたの妹は天使だな。あんまり心配することなさそうに思えるがなあ。向こうも気にしてるかもしれんし、明日にでもちょっと話してみたらどうだ」
「そう……だな」
執務室での即断ぶりが嘘のように、アレクセイは言葉をにごす。
拒絶されるのが恐ろしくて、声をかけられる気がしなかった。
翌朝。
アレクセイは全くいつも通りの様子で現れて、ニコライを苦笑させた。
「おはよう、公爵。元気そうだな」
「ああ、おはよう。昨日の件だが、放課後、妹の方から訪ねてきて解決した。お騒がせした」
アレクセイは澄まして言う。
それから、視線を落として、小さな声で言った。気恥ずかしそうに。
「君の助言に感謝する……昨日は、ありがとう」
「おう」
莞爾と笑ったニコライは、すぐ顔をしかめて後頭部をさすった。
「?どうした」
「あー、ちょっと視線が刺さって……いやなんでもない」
ニコライもよくは知らないアレクセイを巡る女子の暗闘は、男子にまで流れ弾が飛んでくる勢いらしい。いや暗闘というか、あまりに近寄りがたくて本人に直接アプローチは誰もできないまま、牽制やら協定やらで訳の分からないことになった挙句、近頃はアレクセイに何かあればよくわからない盛り上がりを見せるようだ。入学式での笑顔とか。
難儀なことである。
「ま、良かったな」
ニコライが言うとアレクセイが微かな笑顔で頷き、音のない悲鳴が教室に響き渡った。