挿入話〜メイドと従僕〜
遅い時間まで話し込んでしまったフローラを、エカテリーナに頼まれてミナが送っていった。同じ寮の中で送ってもらうなんて、とフローラは遠慮しようとしたが、寮内でも意地悪があり得ることをエカテリーナは知っているから譲らなかった。
フローラを部屋に送り届けて、ミナは特別室へと戻っていく。
そこへ、
「よう、ミナ」
と声がかかった。
驚きもせず、ミナは窓の外を見る。そこにいたのは、アレクセイの従僕、イヴァンだ。
「女子寮は男子禁制だよ」
「建物には入ってないから、いいだろ」
イヴァンは笑顔で言う。
が、そんなことよりここはーーー三階だ。
窓の外、三階の高さまで枝葉を伸ばす欅の木があり、彼はその枝に立っている。細い枝をたわませることすらなく、涼しい顔で。
アレクセイと同じくらい背の高いイヴァンだ、普通であれば枝はへし折れて彼は地上へ落下しているはず。なぜそんなことができるのか。だが、ミナは気に留めてすらいない。
「ありがとな、お嬢様を連れてきてくれて。今は公爵閣下もすっかり元通りだ」
「あたしがお連れしたわけじゃない。お嬢様がご自分で、閣下に会いに行くって決めたんだよ。今日帰っていらしてからずっと考え事してたと思ったら、お兄様に会いに行ってくるわ、って」
「そうか。世間を知らないなんて言われてるけど、なんかしっかりした方だな。最初は閣下を説得にいらしたのかと思ったけど、謝罪に来ましたって言い切ってさ。あれで閣下も、折れて出るのが楽になったんじゃねえかな」
「お嬢様は頭が良くて優しい、芯の強い方だよ。けど、世間を知らないって言えば知らないね。常識が抜けてるところがあって、いろいろ変わってる。だから、いつか痛い思いをしそうで心配だね。閣下もそう思っていらっしゃるんだろ」
「へえ」
イヴァンはにやりと笑った。
「閣下がお嬢様にメロメロなのは、唯一の家族だし母君のことがあったしでわかるけど、お前までそんなぞっこんなのか。お嬢様、すげえな」
「あたしの仕事はお嬢様をお護りすることだ。お気持ちが傷つかないように気をつけるのも仕事のうちだよ。あんただって、閣下の身の安全と関係ないことでわざわざ、お嬢様と閣下の仲直りを取り持ってくれとか言いに来ただろ」
「だってなあ、あのお方があんな、塩かけて茹でた菜っ葉みたいにへなへなになってるとこなんか初めて見たもんな。まあ、面白かったけど」
ははは、とイヴァンは笑う。
「決裁書類見ても『すまない、頭に入ってこない』って、しまいにゃ書類の上に突っ伏しちゃってたんだ。
なのにお嬢様が来て帰った後は、その書類ちらっと見て『ダニールに回して法令を精査させろ』とかなんとか、いつも通りにすぱすぱ片付けてさ」
そしてアレクセイは、突然、こう言ったのだった。
「エカテリーナだが、どこにも嫁がせないことにした」
「ノヴァク卿が『若君、お気を確かに』って口走ってたぜ。俺はあの時、ズルっとコケなかった自分を褒めたい」
「……まさか本気でおっしゃってないだろうね、それ」
「本気じゃなくても本音じゃね?
娘大好きな父親みたいな台詞だよなあ。なんせお嬢様、あの閣下の頭撫でてたもんな。母君の代わりをやろうとしておられるのかもな。お互いにお互いの親代わりになろうとしてるって、お二人とも、可愛くねえか。
それいいな、って俺は思っちまったよ。お嬢様がずっと側にいらっしゃったら、閣下は幸せだろうなあ、なんてな。
けどまあ、閣下もすぐ我に返ってたよ」
で、アレクセイはこう言った。
「言ってみただけだ。……いいじゃないか別に」
「照れるっつうか拗ねるっつうか、まあそんな言い方でさ。あの閣下が拗ねるって天変地異かって。ヤベェほど笑いたかった」
他の三名も同様で、まさに《絶対に笑ってはいけない執務室》状態。
「イヴァン、あんた何しに来たのさ」
「あんまり面白かったんで、誰かに言いたくてさ。でもずっとお嬢様がいらっしゃるといいな。そう思わねえか」
イヴァンの言葉に、ミナはフンと鼻を鳴らした。
「あたしはお嬢様が嫁がれても、付いてってずっとお仕えするよ」
「なんだよ、自分だけ。お嬢様だって、どこにもいかない方が幸せだと思うぜ。お二人あんなに仲良いし、閣下ほどお嬢様を大事にする男、そうそう居ねえよ」
「だからって閣下と結婚するわけにいかないだろ、何言ってんのさ。そもそも、あたしらがとやかく言うことじゃないよ。あんたも閣下に惚れ込んだもんだね」
「お仕えしやすい方だからな。お嬢様みたいに解りやすく優しいわけじゃないけど、理不尽なことは絶対しない」
ふ、とイヴァンの頬に皮肉な笑みが浮かぶ。
「化け物扱いしたりとかしない」
ミナは表情を変えない。
「そんなのよっぽどの馬鹿だろ」
「そのよっぽどの馬鹿に当たったことあるからなあ、俺」
イヴァンは苦笑いする。
「それに俺、閣下の不憫なとこ見ちまってるから。母君が亡くなられた時、五日ぐらい全然寝ないで葬儀の手配やら仕事やらやってらしたんだ。忙しいのは忙しかったけど、それよりただ、眠れなかったんだよ。学園に戻る馬車の中でやっと寝たけど、ありゃ倒れたってのが本当のとこだった。
あん時、つくづく、可哀想な方だなあって思わずにいられなくてな。俺にできることなんて、毛布かけて差し上げるぐらいなもんでさ。誰かこの方に優しくしてあげてくれ、って思ったんだ。
あの時、お嬢様との仲が今みたいだったら良かったな」
ミナは小さく眉をひそめた。
「……お嬢様がそれ知ったら、さぞお気になさるだろうね」
「言わねえよ。閣下も知られたくないだろうし」
忠義者のメイドと従僕は、顔を見合わせて頷きあう。
「さっさとお側に戻って、お茶でも淹れて差し上げたらどうなのさ」
「そうだな、そろそろ戻らねえと。じゃあ帰るわ」
そう言うと、イヴァンは細枝を蹴って背後へ跳び、別の木の枝に鳥のように止まった。葉を揺らすことさえなく。
ひらひらと手を振って、夜の闇に消えていったイヴァンを目で追うこともせず、ミナは何事もなかったように特別室へ戻っていった。