リーディヤと悪役令嬢と皇太后
音楽神の庭に招かれるのは、音楽神殿の舞台で音楽を奉納した時だと聞いていた。
それなのに、この離宮での演奏で音楽神様が現れたのは。
――そなたの側で、美しき歌、美しき音色が響いていた。それゆえ、来た。
あの言葉からして、音楽神様の加護を持つ皇太后陛下がいらしたからなのだろう。皇太后陛下が耳にする音楽は、音楽神様にも届くということだ。
リーディヤは、それを知っていたのかもしれない。だから、皇太后陛下に音楽を聞いていただく機会を得ると、寸暇を惜しんでレッスンにうち込み、完璧に仕上げてきたのだろう。レナートの言葉を借りれば、鬼気迫る気迫で。
特に今回は、私との勝負だと思っていたから、その場で音楽神の招きを受けることができれば完璧な勝利だと、いつも以上に力が入ったのではないだろうか。
そして音楽神様が降臨。すぐ側まで舞い降りて来られた時には、ついに長年の願いが叶った、ついに成し遂げたのだと思って歓喜しただろうに。
それなのに、この結末……。
今までに出会った誰よりも強く高位の貴族令嬢としての自負を持ち、その身分にふさわしいふるまいしかしてこなかったリーディヤが、今は舞台にくずれ落ちたまま泣き続けている。
公爵令嬢って、こういう時、どうするのが正解なんだろうね。
そっと見ないふりをする?
セレズノア様おかわいそう……とか呟いて、はらはら涙を流す?
まあ、私がやってることは間違った対応に違いない。
私、走ってますから!
「セレズノア様!」
エカテリーナは舞台のリーディヤへ駆け寄っている。
あ、両陛下と皇子に何も断らずに貴賓席から駆け出してしまった。ますます間違ってるわ自分。
でも、でも、しょーがないんだよー!
こんな挫折、ほっといたら立ち直れないだろ!下手したら引きこもるわ!
なんか思い出したけど、甲子園を目指していた高校球児が、県大会の決勝で九回まで勝ってたのにサヨナラヒットを自分がエラーにしちゃって負けて引きこもったとか……リーディヤの姿にダブるのよ。
たぶん、同じくらいのショックだよ。そりゃ、くずれ落ちるわ。立ち上がれないで号泣して当たり前だわ。
高校球児と侯爵令嬢、一緒にしていいのか?
だけど小さな頃から一途に目指してきた夢が破れた、っていうのは同じだし!
……なんか責任感じるし。
リーディヤが言い出した領法改定を止めるためにこういう舞台を整えたんだから、君が理不尽なことやろうとしたのが悪い!とは思うのよ。
でも私の身分のおかげで、すごく楽勝な策が取れていたから。ちょっとやりすぎなマウンティングみたいなことになって、いろいろ彼女を追い込んだと思う。ユールノヴァ公爵令嬢っていう肩書がこんなに強いって、自分でいまいちわかってなかったのよ。
そのあげくに、まさかこんな事態になるとは思わなかったよー。音楽神様が貴賓席に来て、私とリーディヤの前に降りた時のぬか喜びが、一番の打撃だったんじゃないだろうか。
私の魂が異世界産で珍しいだけだったんだよ。なのにあれで、てっきり自分へのお迎えだと思い込んでしまったんだと思うと……すまん。私が悪いことしたわけじゃないけど、なんかすまん。
そういう責任とかさておいて、シンプルに。
泣いてる女の子をほっとくなんて、無理だから!
そんなわけで、エカテリーナはリーディヤのもとへたどり着くと、舞台に突っ伏して泣いている彼女の身体に腕を回して抱き寄せた。
「セレズノア様!」
だがリーディヤは、何か叫んでエカテリーナを押しのけようとする。
かまわず、エカテリーナは思い切り腕に力を込めて、リーディヤを抱きしめた。こんなに力を込めては、痛いかもしれない。けれど、心があまりに痛い時は、身体の痛みが必要なことがあるはずだから。
そうして、彼女の耳元で、思い切り叫んだ。
「今ではないだけです!」
びくっ、とリーディヤの身体が揺れた。
「いずれ、貴女様の時は来る!今がその時ではなかっただけです!」
ごめん、正直そうなるかはわからないです。音楽神様が招いてくれるかは、音楽神様のみぞ知ること。
でも、これは間違いなく言える。
「貴女様の歌は、美しかった!ずっと、本気で、打ち込んでこられたことが、伝わってきましたわ」
リーディヤの歌は、本当にレベルが高かった。事前にお母様のことを持ち出されてイラッときていた私が、コロッと感心して感動してしまったほど。
前世の私は歌が好きだったけど、何かあって合唱部の部活がなくなった時は、友達とやったーと喜び合ってスイーツとか食べに行った。でもリーディヤは、一日たりとも休まずにレッスンを重ねてきたことだろう。それは、すごいことだ。
きっと彼女は、歌うことが好きだ。まだ何も知らない幼い子供だった頃から、無邪気に歌っていたのだろう。家のため、地位のためという重石が加わってからも、歌い続けてきたのだろう。
「貴女様はずっと、努力してこられた。だから、貴女様の歌は、美しい。それをわたくしは、感じました」
リーディヤの考え方、やり方に、うなずけない点はいろいろあるけれど。
彼女の努力は、尊い。それは、確かだ。
「貴女様は、もっと成長なさいます。もっと大輪の花を咲かせることができるようになってから、貴女様の時は来る。そうに違いありませんわ」
甲子園は三年間限定だけど、音楽神様の招きへの挑戦は、一生できるんだから。
君、自分がどんなに若いか、どんなに未来に満ちているか、わかってないだろうね。高校生なんてそんなもんだよ。
私はまだまだこの世界の価値観に馴染めていないけど、両陛下の御前で身分について追及したリーディヤの「正義」が尖りすぎだっていうことは解る。高校生の正義が純粋なのは、無知だからだ。これからいろんな出会いや挫折があって、彼女は変わっていくだろう。
君はまだまだ、未熟なんだから。それはつまり、未来に伸びしろがあるっていうことだよ!
けれど、リーディヤはまだ嗚咽しながら、エカテリーナの腕を自分から引き剥がそうとしている。
ああっ、私(仮想敵)が何を言っても響かない!追い込んだ張本人だしね!どうしたら!
教えて前世の熱い人ー!
困ったエカテリーナが、脳内に日めくりカレンダーを召喚しようとした時。
「リーディヤ」
静かな声がした。
はっ、とエカテリーナとリーディヤが顔を上げる。二人の傍らに、皇太后が立っていた。
皇太后は微笑みかける。リーディヤに。
「リーディヤ……そなたが今日、挫折を知ったのなら。それを幸いと知りなさい」
「陛下……?」
リーディヤは唖然と目を見張った。
「かつてわたくしがお招きを受けた時、音楽神様は仰せになりました。そなたの歌は、苦悩が美しいと……。
リーディヤ、そなたは、挫折を知らなかった。努力が報われ、己が尊重される、完璧な世界しか知らなかった。そなたはその若さで、完璧な歌を歌えます。それでも完璧は、最上ではない」
その時ふっと皇太后の唇をかすめた笑みは、自嘲のようだった。
「……最上の歌とはいかなるものか。それはわたくしも未だ追い求めるもの、偉そうに語れるものではありません。けれど、完璧だけでは、最上ではない。そのことは、解っています。
もし、今日、そなたが挫折を知り、苦悩を得たのなら。そなたは、完璧から旅立つことができるかもしれません。行き着く果てを誰も知らない、最上の歌を求める旅に……出るかどうかは、そなた次第です」
リーディヤは言葉を失っている。
それでも涙は止まっていて、エカテリーナはよしよしと彼女の頭を撫でた。
これってあれだ、一皮剥ける機会ってことだよ。
頑張れ。
うつむいて考え込んでいるリーディヤは、エカテリーナになでなでされていることにも気付いていないようだ。
が、いきなり気付いた。
「きゃっ⁉︎」
一声叫んで、ビョンっ!と跳び離れる。真っ赤な顔で口をぱくぱくさせてエカテリーナを凝視して、パニックに陥っているようだ。
「……」
いや、すまん。仮想敵が頭なでなでとか。
でもそんな、跳び離れんでも。カエルみたいに。
ていうか、ビョンって君、体幹強いな。やっぱり声楽やっていると地味に鍛えられるんだなー。
皇太后が、ふっと笑った。
「ドレスが汚れましたね、リーディヤ。着替えていらっしゃい」
その言葉と共に、皇太后の腹心らしき侍女が進み出て一礼する。
そしてリーディヤの手を取って立ち上がらせると、案内して下がっていった。
「わたくしたちは席に戻りましょうね、エカテリーナ」
そう言って、皇太后はエカテリーナに手を差し出す。
エカテリーナは思わず目を丸くしたが、おずおずとその手に手を預けて、立ち上がった。