音楽の夕べ(オリガ)
レナートへの拍手がおさまってきたのを見計らって、エカテリーナはオリガが座っている席へ急いだ。
「オリガ様」
「あ……エカテリーナ様」
こわばった笑顔を浮かべようとしたオリガの手を取って、エカテリーナはやはりと思った。
オリガちゃん、手が冷たい!めっちゃ緊張してる!
その手を両手で包み込み、エカテリーナは励ますように微笑みかける。
アラサーお姉さんとしては、十五歳やそこらの女の子が緊張でプルプルしていたら、全力で励ます以外に選択肢はないのだ。
「オリガ様、セレザール様の演奏は素晴らしゅうございましたわね。ですけれど、本日は気楽なクラスの催しですわ。お互いに楽しんで、親しみを深めることができれば、それでよろしいのです。無理などなさらず、ご家族を前にしているような気持ちで、気楽にお歌いになってくださいまし。わたくしは、オリガ様のお声を聴くことができれば、それだけで嬉しゅうございますわ」
ここはオーディション会場じゃないんだから。学芸会未満と言って過言じゃないかもだから。ほら、某三人とか。
笑って笑って。楽しんで。
「エカテリーナ様……」
若草色の瞳を涙でうるませて、オリガはエカテリーナを見上げる。
あー、可愛い。オリガちゃんはフローラちゃんみたいなザ・美少女タイプじゃないけど、小柄でおとなしそうで、小動物系の可愛さだよ。うさぎとかチワワとかの。
エカテリーナはそっとオリガの身体に腕を回し、よしよしと背中を撫でた。座っているオリガは、エカテリーナの胸に顔を埋める状態だ。
多くの女子が心配そうに、多くの男子がうらやましそうに見つめる中、オリガはほっと息を吐いて、微笑んだ。
「ありがとうございます。わたし……急に、歌おうと思っていた歌を思い出せなくなってしまって」
「緊張してしまうと、あることですわね」
入社一年目くらいの頃、プレゼンしようとしていた内容が頭からすっとんで、どうやっても思い出せなかったことがあったよ……うん、怖い。
「ですから……実家のほうに伝わる、古い歌を歌わせてもらってもいいでしょうか。おばあちゃんから教わって、家族とよく歌っていた歌です。田舎の古臭い歌で申し訳ないんですけど、それなら、わたし絶対忘れませんから」
「素敵ですわ。わたくし、そうした伝統的なものは好きですの」
エカテリーナがにっこり笑うと、オリガはほっとしたような、吹っ切れたような表情になった。
「斬新な曲の後にすみません、わたしは古い歌を歌わせていただきます。月光花と戦士蝶を詠った歌です」
ピアノの横でぺこりと頭を下げたオリガに、温かい拍手が向けられる。
月光花と戦士蝶は、魔獣の一種。魔獣というか、魔虫というか、魔植物とかいうべきなのか、いささか悩ましい変わった生態で有名だ。
雌雄で全く姿が違い、雄は黒い蝶。ただし翅が薄い鋼になっており、不用意に触れようとすれば切り裂かれる。ゆえに戦士蝶。
雌は、普段は湖底に棲んでおりどういう姿をしているのか不明だが、繁殖期の満月の夜、湖底から長く茎を伸ばして、湖上に白く輝く巨大な花を咲かせる。それが月光花。
その花の甘い香りは、辺り一帯を覆うほどだという。その香りに惹かれて、戦士蝶は花のもとへ惹き寄せられる。無数の雄がひとつの花を争い、鋼の翅で戦う。最強の勝者のみが、花のもとへたどり着き、子孫を残すのだ。
オリガはそのまま、ピアノの前に座った。
ピアノを弾けるなら、オリガの家にはピアノがあるのだろう。エカテリーナは今まで意識しなかったが、音楽の夕べの演奏者を募った時にはたと気付いた。
この世界では、ピアノはとても高価だ。
いや考えてみたら前世でも、決して安いものではなかった。電子ピアノとかではなく本物は、持っている家はそんなに多くはなかったような気がする。だから勿論、この世界ではさらに高価で貴重なものなのだ。
貴族の基準では決して裕福ではないはずのオリガの家にピアノがあるならば、彼女の実家はとても音楽好きな一家なのだろう。
鍵盤に手を置いて、オリガはすうっと息を吸って顔を仰向けた。
月は夜空に花と咲き、湖に一夜の花が咲く
今ぞ死の時、愛の時
鋼の翅を震わせて
つわものどもは飛び立ちぬ――――――……
(⁉︎)
歌い始めたオリガの声に、エカテリーナは思わず目を剥く。
オリガちゃん、凄い!めっちゃいい声!
歌い出しから高い音域。難しいそれを、安定した音程できれいに発声している。前世でいうファルセット、甘く繊細で哀調を帯びた裏声だ。それが美しい。
特に最後、長く伸ばしたロングトーン――天へ伸び上がっていくような澄み切った声がかすれゆく、それがたまらない。魂が引き出されてしまいそうなほど。
脳裏に、皓々と輝く巨大な満月が浮かんでいた。
これは、ユールノヴァで見た月だ。死の乙女セレーネと遭遇した時、この満月を背景に、人馬のシルエットがたたずんでいた。
今はその月に、黒い蝶のシルエットがくっきりと見えている。
ぶわっと鳥肌が立った。
ピアノの弾き語りで、オリガは歌う。
満月の下で、蝶たちは花を争う。互いに斬り裂きあい、若い生命を散らして、湖面へ落ちてゆく。虚しさを覚えても、花の甘い香りに抗えない。得られないと半ば知りつつも、望みを捨てられず戦場に征く。
オリガの美声だけでなく、曲のテンポが独特なのがまたいい。この感じ何かに似ている、と考えてエカテリーナは思い出す。
前世で、沖縄や奄美地方の民謡テイストを取り入れた曲を聞いた時の感じだ。ちょっと異国風なような、けれど懐かしいような、明るいような、それでいて哀調が胸に沁みる感じ。
曲自体が沖縄っぽいわけではないのだが、あれを思い出すのはおそらく、本来は特徴的な音の出る民族楽器で弾く曲に、ピアノの音階を当てはめて弾いているからではないか。沖縄や奄美も、民謡は確か三線という三味線のような楽器で弾くのだったはず。
そして、この歌詞、この哀調。これはもしかすると、戦士蝶の争いというのは比喩か隠れ蓑で、本当は人間の戦乱を歌っているのかもしれない。セレズノア領ではたびたび反乱が起きたという。その反乱で生命を落とした若者たちを悼む歌なのではないか。領主に睨まれないよう、真意は隠して。
最後の蝶が、傷つきながらも花のもとへ辿り着く。花は白い両腕を開き、傷ついた戦士を抱く。
今ぞ死の時、愛の時――――
何度も繰り返されたフレーズ、そのリフレインを最後に、曲は終わった。
鍵盤から手を離し、オリガはほっとため息をつく。
音楽室は、しんと静まっている。
無反応な聴衆に、オリガは肩を落としつつ立ち上がり、頭を下げた。
そこへ、どおっと拍手が起きる。
驚いたオリガは思わず後ずさり、ピアノの椅子に当たってそこにぺたりと座ってしまった。拍手は鳴り止まず、歓声が混じる。
聴衆は次々に立ち上がっていた。本日三度目のスタンディングオベーションだ。
エカテリーナももちろん立ち上がり、全力で拍手している。
いや〜、合唱でオリガちゃんの声を聴いてきれいな声をしているとは思っていたけど。これほどとは!
ゴット・タレント再び。
ていうか、あれだな。
意外性含めての、この感動。
前世でブリテンズ・ゴット・タレントって番組でスターになった歌手が初登場した時の、動画を見た時の感じかも。
オリガちゃん、皇国のスーザン・ボイルだったよ。
……えらいこっちゃ。
コミカライズ連載開始とオーディオドラマ情報について、活動報告に記載しております。
ご一読いただければ幸いです。
また近日中に、4巻の書店特典情報をアップする予定です。こちらもよろしくお願いいたします。