皇太后
「セレズノア家は皇太后陛下のご実家。侯爵家の中でも最も家格が高いお家になられていますのに、さらに皇后を立てることが悲願とは、不思議なことに思えますわ」
エカテリーナが小首を傾げて言うと、アレクセイはうなずいた。
「その疑問はもっともだ。通常、皇后陛下の実家は外戚として強い力を得るからね。むしろ皇室は、皇后本人の資質以上に、実家の力を利用するためにその時々で求める力を持つ家から、皇后を選んできた歴史がある。
しかしクレメンティーナ皇太后陛下は、セレズノア家を外戚にすることを目的に選ばれたわけではない。昔お祖父様が話してくださったが、若き日の先帝陛下が、皇太后陛下の歌声を聞いて恋に落ちたのだそうだ。皇太后陛下は、かつて音楽神の庭に招かれたほどの歌い手なんだよ」
「まあ、そうでしたの!」
思わず、エカテリーナは目を丸くする。
なんとびっくり!
音楽神の庭に招かれるのは、真に才能ある者のみと聞いたけど。まさか、皇太后陛下がそういうお方だったとは!
歌い手……うわあ。その歌声、聞いてみたい……。
でも、音楽神に招かれるという世俗を超越した出来事と、皇太后という人間世界の頂点とは、両立するものなの?
「音楽神のお招きを受けた方は、神殿に迎えられると聞き及びましたわ。皇太后陛下は神殿にお入りにならなかったのでしょうか?」
「音楽神殿に入ることは、義務ではないんだ。本人が望まないなら、元通りに暮らすこともできる。
とはいえ言われてみれば、違和感があるな。皇太后陛下の慎ましいお人柄であれば、神殿に入ってひたすら音楽に浸って生きることをお望みになりそうなものだ……」
アレクセイが眉を寄せる。
皇太后陛下は、そういうお人柄なんですか。つい、さっきのリーディヤちゃんと重ねてイメージして、貴族令嬢として完璧だけど微妙に引っかかる、という方かと思ってしまいましたけど。
「一度は神殿にお入りになったそうです。そして建国記念の式典で歌を披露し、先帝陛下のお目に留まったとか。我々の世代では、有名な話です」
そう言ったのは、ノヴァクだった。
「あの当時は、あやかって良縁を得ようと令嬢たちがこぞって声楽を学んだり、音楽神殿に若い男女があふれるなどいたしまして、人々が熱狂したものでした」
あー……そういえば昭和の日本でも、似たような経緯でテニスが大流行したとかなんとか、昭和の文化を振り返る番組で見たような。
「皇都育ちのフローラ嬢であれば、お聞きになったことがあるのでは」
「はい、昔そういうことがあったと、音楽神殿に行った時に聞いたことがあります」
フローラがうなずくと、ノヴァクはかえって苦笑した。
「遠い昔のことになったと、実感いたしますな」
五十三歳らしい感慨を吐いたものの、すぐにいつもの実務家の表情に戻る。
「セレズノア侯爵家はピョートル大帝の角笛の奏者を開祖とし、建国以来続く名家ですが、それまで皇后を出したことはありませんでした。
セレズノア領は古参の臣下たちを徹底して優遇し、皇国の建国以前から続く土着の者たちを差別する政策を続けております。たびたび反乱や内紛が起きるため、国政に参与する余裕はなかったようです」
そう。皇帝から領地を与えられた貴族の中には、子飼いの臣下を優遇し、領地に元々住んでいた人々を差別する政策をとる家がある。それを知ったエカテリーナは、家臣を上士と下士に分けていた江戸時代の土佐藩山内家を思い出したが、セレズノア家はそうした貴族のひとつであり、その中では最も高位の家なのだった。
「ところが、家を離れて音楽神殿へ入ったご令嬢が、思わぬ幸運を引き当てた。セレズノア侯爵家は当初、狂喜乱舞したようです。皇后の外戚として権力を振るい、三大公爵家に成り代わるのも夢ではないと。
しかし現実には、先帝陛下が国政を委ねたのは、義理の兄となったセルゲイ公。ユールノヴァ公爵家でした」
ああ……確かに。
結局三大公爵家が優遇されるのか、と歯痒く思ったのかな。
……いや待て。領地では古参の臣下を優遇しておいて、自分たちは下克上を狙うってどうなのよ。
「先帝陛下の時代、セレズノア家はたびたび当時の皇后陛下に働きかけて、提言した政策を通そうとしたり大臣などの役職を得ようとしたりしたようですが、ほとんど思い通りになることはありませんでした。クレメンティーナ陛下は、閣下が仰せになった通り慎ましい、控えめなお方だそうですので。
皇后として振る舞うことも苦手で、そのため義理の姉である大奥様、アレクサンドラ様が皇城で権勢を振るうのを許すことになりました。音楽神の加護がおありということで、さすがのアレクサンドラ様も陛下への不敬は控えておられましたので、むしろ任せることができるのを喜んでおられたようですが」
「……皇太后陛下は、先ほどお会いしたセレズノア家のご令嬢とは、まったく違うご性格のように思われますわ」
思わずエカテリーナが言うと、ノヴァクはうなずいた。
「皇太后陛下は、三姉妹の次女としてお生まれになりましたが、上と下に美貌で知られた姉妹がいらしたそうで、あまり重視はされていなかったようです。充分にお美しい方なのですが。音楽神に招かれたことでもお家の名を高めたはずですが、セレズノア家は当時はどちらかといえば武辺の家柄でしたので、しかるべき評価を受けられなかったのかもしれません。音楽神殿にお入りになったのは、お家から離れたかったのではないか、と考える者がおりました。
それが、先帝陛下のお心を得たことで、突然セレズノア家の浮沈を担う身とされて、あれこれ期待をかけられるようになったわけです。領地を挙げて音楽が盛んになったのも、それからのことで。そんな手のひら返しで頼み事ばかりされても、まあ無理というものですな」
ノヴァクさん、時々しれっと毒を吐きますね。
でも、ええ、まったくその通りですね!
「むしろ皇太后陛下は、先帝陛下と同じくセルゲイ公を兄と慕っておられました。実の兄上がおられたのですが、ご実家から無理を言われた時に、庇ってさしあげるのはセルゲイ公でしたので。それに、先帝陛下との仲を取り持ったのもセルゲイ公であったようです」
出たな、お祖父様のセレブな仲人趣味……。
「それゆえセレズノアは、お家を盛り立てることのできる皇后を出すことを悲願としているのです。リーディヤ嬢はそのために育てられたご令嬢です。また、皇太后陛下と同じく音楽の才能がおありだそうで、音楽神の庭に招かれるべく研鑽を積んでおられるとか。音楽神に招かれたなら、その加護によりミハイル殿下のお目に留まることができると、信じておられるようです」
いや、なんでやねん。音楽神様って、縁結びの神様と違うやろ。
ああでも、神様の加護があるというのは、実家の力関係とは別で皇后に即ける価値があることになるのか……。あの祖母さえ、手出しを控えたほどだもんね。そうか……。
「それだけに、ミハイル殿下が夏休みをユールノヴァ領でお過ごしになったことで、内心衝撃を受けられたのでしょう。それゆえ、不文律に抵触しない範囲で、様子を見に来られたと思われます」
ノヴァクの口の端には、にんまりとした笑みがある。それに気付いて、なぜだろうと首を傾げるエカテリーナであった。
そんな妹の手を、アレクセイが取って握る。
「不文律がどうあろうが、お前への非礼は私が許さない。リーディヤ嬢がお前に何かしたなら、いや、良からぬものを感じでもしたら、すぐに私に言うんだよ」
「はい、お兄様。お言いつけの通りにいたしますわ」
良からぬものを感じでもしたら……疑わしきは罰せずの真逆ですね。
さすがシスコンお兄様です。




