破滅フラグ対策と兄妹喧嘩
懸案事項が片付いて、執務室の空気はぐっと明るくなった。
「美味でございますな」
ようやく食事に口を付け、フォルリは目を細める。そして、アレクセイとエカテリーナを見比べた。
「お嬢様が手ずから兄君のために料理とは、いささか驚きましたが、兄妹仲睦まじくあられて何よりでございます」
古武士のように風格あるフォルリだが、二人を見る目は深く優しい。
「フォルリ卿は、お兄様を若君とお呼びになりますのね」
「は。年寄りの我儘でして、この学園を卒業されるまでは、そうお呼びいたす所存です」
アレクセイが苦笑した。
「フォルリ翁にはかなわない。エカテリーナ、フォルリはこの学園でお祖父様と同級生だったんだよ」
「左様です。今にして思えば畏れ多いことながら、セルゲイと呼び捨てにして、一緒に悪さも致しました。振り返ればよい時代でした……若君にもいま少し、時間がおありになればと思いまするが」
一緒に悪さか……年配の人らしい友情エピソードですな。
でも、そうか。この人は、お兄様を子供扱いしているわけじゃないんだ。
若くして無理やり大人にさせられたお兄様を、少しだけでも子供扱いしてあげたいと、思ってくれてるんだな。
本当にお祖父様のいい友達で、友達の孫として心を砕いてくれているんだろう。
「しかし、女性の友情はたおやかなものでございますな。料理のご友人でございますか」
フォルリが話を振ってくれたので、エカテリーナはありがたく受けた。
「皆様、あらためてご紹介いたしますわ。こちらはフローラ・チェルニー様。わたくしの同級生で、お料理の先生でいらっしゃいますのよ」
年長の男性陣に注目されて、フローラはきちんと頭を下げたのち、桜色の髪を揺らして首を振った。
「先生なんて……ユールノヴァ様はもともとご存知かと思うくらいお上手です。何もお教えするようなこと、ありませんでした」
「ご謙遜を、とてもお料理上手で、教え上手でいらっしゃいますわ。今日のお料理など、殿下も美味しいとおっしゃったくらい」
「殿下?」
アレクセイが聞き咎めた。
「先ほどお廊下で殿下に呼び止められて、興味がおありのようでしたからひとつ差し上げましたの。美味しいとお言葉をいただきましたのよ。ね、フローラ様」
エカテリーナとしてはフローラと皇子のフラグをほのめかしているつもりなのだが、公爵領の面々は素早く視線を交わしていたりする。
「お兄様、殿下とご懇意でしたのね。わたくしの名前をご存知でしたわ」
「お前は殿下と同い年だからね。殿下も気に留めておられたのだろう」
「そういえば、お兄様、ウラジーミルという方をご存知?殿下のお知り合いで、二年生のようでしたわ。髪の色が薄い青紫の方」
途端、アレクセイの表情が険しくなった。
「ウラジーミル・ユールマグナ。我が家と同じ三大公爵家のひとつ、ユールマグナ家の嫡男だ。……お前に何か話しかけたのか」
「え?いえ……話しかけられたわけではありませんわ」
うん、あれは話しかけてきたわけじゃない。うっすらテロに遭ったって感じだな。
しかし、そうかー。ユールマグナ家ね。
三大公爵家って、お互い同士はライバル関係ってことで、嫌味かましてきたのか。ちっさ。
「あの方、嫡男でいらっしゃいますのね。お兄様とはお一つ違いですのに、これからの努力が大切な方とお見受けしましたわ」
つい、キラッキラの笑顔でうまいことディスってしまった。
でもあれ、皇子に対する態度もなってなかったし、お兄様とは比べ物にならん。
そういや前世のロシアでずーっとトップ張ってた犬好きのマッチョ様と同じファーストネームなのに、残念な子や。お前もせいぜい頑張れ。
ふ、とアレクセイは微笑む。
「ウラジーミルは優秀な人間だが、いくつか悪癖がある。それには異性に関することも含まれているから、あまり関わらないでおきなさい」
「はい、お兄様。お言い付けの通りにいたしますわ」
タラシか!あいつタラシなんですねお兄様。
いや、声さえかければ女は全部自分に落ちると思ってる勘違い系?
実は前世の学生時代、そういうのに関わってえらい目に遭いましたので、関われと言われても全力でお断りするからご安心ください。
「ところで、チェルニー嬢はチェルニー男爵家のご令嬢であられますかな。ご領地は、確か東のアンガル地方でありましたか」
フォルリがフローラに尋ね、フローラは少し目を見張った後、微笑んだ。
「領地はありません。ずっと前に売ったそうです。男爵夫妻は、今は皇都の小さな借家に住んでいます。お庭にたくさん花が咲く、すてきな家ですよ」
「……ほう」
フォルリはただ頷いたが、他一同からは微妙な雰囲気が流れた。
「領地を売ったお金はまだ残っているそうですけど、奥様は趣味も兼ねて、刺繍の内職をなさっています。私の母はお針子だったので、そのお仕事を通じて奥様と親しくなりました。二人とも料理好きでしたから、レシピをいろいろ交換したり……それで母が亡くなった時、男爵夫妻が私に、孫みたいに思っているからうちにおいでと言ってくださって、養女になりました。
ですから私は、男爵令嬢といっても、庶民の生まれです」
背筋を伸ばし、静かに語るフローラは、清楚でありつつ凛としている。
ふふっと笑った。
「お聞き苦しいことをお話ししてしまってすみません。でも、ユールノヴァ様とあまりに世界が違うものですから。
優しくしていただいて、一緒にお料理して、とても楽しかったです。でも、私と同い年なのに、領地の大きな問題に堂々と意見を述べるお姿を見ると、やっぱりまるで違う世界の方だとわかりました。
だから、私なんかと一緒に居たら、同じ世界の方からユールノヴァ様が笑われてしまうかもしれません」
え?とエカテリーナは目を見張る。待って、何を言うの?
そう思った途端に気付いた。ウラジーミルが言った『恥知らず』という言葉、フローラにも聞こえていたことに。
やめてよ、あんなの気にしてどうすんの。
「ユールノヴァ様はお優しい方ですから、気にしないと言ってくださると思います。だから、公爵様……公爵閣下に判断していただきたいんです。私がふさわしくないとお考えでしたら、おっしゃってください」
フローラの言葉を聞いて、アレクセイは眉を上げた。
そして、うなずいた。
「君の方から申し出てくれたことに感謝する。妹は今まで社交から離れていたせいか、世の中がわかっていないところがある……すまないが、私としては本来あるべき在り方を学んでほしいと思っている」
「お兄様!」
思わず、エカテリーナは弾かれたように立ち上がる。
その袖を、そっとフローラが引いた。小声で言う。
「ユールノヴァ様、公爵閣下にもご迷惑がかかるかもしれないんです」
「ーーーっ」
ぐ、とエカテリーナは言いかけた言葉を呑み込んだ。代わりに言う。
「お兄様……後で、わたくしと二人で、お話ししてくださいまし」
「わかった」
アレクセイがうなずき、エカテリーナはすとんと座り込んだ。
会話が途切れがちな昼食を終えて、フローラが去った執務室の隅で、エカテリーナはアレクセイと向き合った。
「エカテリーナ……」
アレクセイは、困ったような顔だ。優しい声で言う。
「お前の優しい気持ちを、無にしたようですまない。しかし身分が違えば、住む世界というものは大きく違うものなんだ。そして、同じ階級同士の中で、絶え間ない争いがある。自分の身分にふさわしい振る舞いや考え方を身につけることは、お前の身を守るために必要なことなんだよ。わかってくれないか」
どう話せばいいんだろう。言いたいことがありすぎて、言葉が出て来ない。
「エカテリーナ……!」
突然、アレクセイが息を呑んだ。
「すまない、私は……頼む、頼むから、泣かないでくれ、エカテリーナ……」
泣いてなんかいませんよーーーと思った途端、視界が歪んでいるのに気付いた。
ぽろぽろと、雫がこぼれ落ちてゆく。
アレクセイが手を伸ばすのへ、首を振る。前世の記憶を取り戻してから、アレクセイに触れられるのを拒むのはこれが初めてだ。
「お兄様、身分が違うからと相手を軽んじるのは……皇女の生まれだからと、お母様を虐げた……お祖母様と、同じですわ……」
アレクセイが硬直した。
ああ、失敗。ひどいことを言ってしまった。クソババアと同じだなんて。
駄目だ、なんでこんなにぐちゃぐちゃになってるんだろう。
その時、予鈴が鳴った。
「お兄様、ごめんなさい」
撤退して、立て直そう。
エカテリーナは踵を返し、小走りにその場を駆け去った。