皇都への出立
ミハイル皇子殿下歓待の日程は、すべて終わった。
夏休みも終わりが近付いており、エカテリーナとアレクセイも、皇都の魔法学園に戻らねばならない。そのため、ミハイルの帰途に同行する形で皇都へ向かうことになっていた。
本日はもう、その出立の日。ユールノヴァ城の正面玄関前には、公爵家の紋章をつけた華麗な馬車が二台、高貴な客人と公爵兄妹を乗せる時を待っている。
賓客と主君兄妹を見送るべく、使用人たちや警護の騎士たちがずらりと居並んでいた。
「皆、ありがとう。素晴らしい歓待だった」
例によってそつなくミハイルが言い、見送りの者たちは一斉に頭を下げる。ざあっ、と波打つように見えるほどの人数だ。
「留守を頼む。任せて問題ないと、信頼している」
アレクセイの言葉に、見送りの使用人たちの中で主人に最も近い位置に立っている、ライーサが深く一礼した。
「恐れ入ります。閣下、お嬢様、いただいた大役、全身全霊で努めさせていただきます」
実は、高齢の執事ノヴァラスがついに引退したのだ。その後任を、ライーサが務めることになった。ユールノヴァ四百年の歴史にもまれな、女性執事の誕生である。
ノヴァラスが引退したといっても自主的にではなく、本人はこのお見送りを最後のご奉公にさせていただきたい、と言ってまだ粘る気を見せていたのだが。何度目の最後だ、という無言のつっこみが各方面からありつつ、アレクセイが「今までご苦労だった」とバッサリ斬った。
父アレクサンドルが公爵であった時代、ユールノヴァ城にはライーサとは違う家政婦が送り込まれ、多額の横領に関して主導的役割を果たしていた。
ノヴァラスはそれに加担こそしていなかったものの、全力で目も耳も塞いで、一切止めることがなかったのだ。
皇都にいる父と祖母から離れて、ユールノヴァ城で領政にあたるアレクセイを、支える姿勢もまったくなかった。アレクサンドルが早逝するとは夢にも思っていなかったため、風見鶏はアレクセイになびかなかったのだろう。
解雇できるほどの明確な罪状はないものの、長年にわたってアレクセイの不興を買ってきた。誰が見ても年齢的に引退時期であるから、引退勧告は当然でしかない。
不死鳥の風見鶏、ついに墜つ。
とはいえ、そういう状況でしれっと粘っていた生命力。この人はまだまだ長生きしそうだ、というか死なないんじゃないか、と囁かれている。
それはさておき、ノヴァラスへ引退を勧告すると聞いて、後任にライーサを推したのはエカテリーナであった。
そう言われた時、アレクセイは驚いた顔をしたが、すぐに同意した。妹を甘やかしてのことではなく、当主として、最も適切な人事と判断したからだ。
ユールノヴァ公爵家において、女性が執事を務めた例は、過去にもある。執事が急逝するなどした異常事態で、家政婦が臨時で執事を兼任するといった事例がほとんどではあるが。
とはいえ、その過去の例や、現状からわかることがある。皇国では家政婦の業務は一般的に、女性使用人の統括が主だ。しかしユールノヴァ家の場合、全体統括責任者である執事の業務を兼任することがあり得るほど、家政婦は広範囲な業務を担う場合があった。
ライーサはすでに、ノヴァラスからかなりの業務を肩代わりしている。そして彼女は、祖父セルゲイが見出だした人材。他の分家とのしがらみもなく、アレクセイに絶対の忠誠を誓う騎士団と繋がりが深い、全幅の信頼を置ける人物なのだ。
「女性執事への反発はあるだろうが、いったんは前例通り家政婦兼任のまま臨時での就任とし、頃合いを見て正式に任命すればある程度は抑えられるだろう。それでいいか」
「まあお兄様!ご配慮ありがとう存じますわ。ライーサもその方が、きっとお仕事が容易になりましょう」
「兼任としても、ライーサは家政婦の仕事までは手が回らなくなるだろう。そちらの後任を誰か探さねばならないな」
「それでしたら……心当たりがありますわ」
エカテリーナは微笑んで言った。
「ノヴァラスのひ孫にあたるご婦人なのですけれど、とてもしっかりした方のようですの。血縁として以前からノヴァラスを支えて、家中のお仕事にも関わっていらして、ライーサとも気心が知れておりますし、ノヴァク伯の娘マルガリータ様とも親しい間柄ですわ。そして、すでに嫁いで、ノヴァラス家からは離れておられますの。
お兄様のご不興を買ったノヴァラス家の者をすぐ登用しては、家中の者たちがお兄様をあなどる恐れがありましょう。とはいえノヴァラス家は古株、あまりに厳しくなさっては、家臣たちの力関係が不安定になりすぎるかと。他家へ嫁いだとはいえ血縁の女性、というのは、面白い匙加減になりませんかしら」
アレクセイは、声を上げて笑ったものだ。
「家政婦の人事は女主人の権限だ、お前の思う通りにやりなさい。私を恐れる者は、お前のとりなしでノヴァラス家が首の皮一枚つながったと思うことだろうーー私のエカテリーナ、この美しい頭は、知恵の湧き出る泉でもあるようだな」
そして、ふっと嘆息した。
「考えてみれば、最適の人材だ。性別にとらわれて、ライーサを考慮から洩らしていたとは……。お祖父様ならば、ためらいなく登用なさっただろう。お前の発想は、本当にお祖父様譲りだ」
そう言った兄を、エカテリーナは真摯な表情で見上げる。
「わたくしにできることなど、思いつくことだけですわ。それを実行できるのは、お兄様がしっかりとユールノヴァ領を掌握なされたからこそでございます。
お祖父様の後継者は、お兄様の他におられません。そのことをわたくし、よくわかっておりましてよ」
アレクセイはエカテリーナの手を取り、指先に口付けた。
「エカテリーナ、私の妹……お前の言葉はいつも、なんと謙虚で清らかなのだろう。お前の声は、清流のように私の心を洗い清めてくれる」
エカテリーナが例によって、アレクセイのシスコンフィルターの高性能ぶりに感心したことは、言うまでもないだろう。
「お兄様のお留守をライーサが守ってくれることになって、嬉しくてよ。きっとお祖父様も喜んでくださっているわね」
「嬉しいお言葉です……」
いつもプロフェッショナルな印象のライーサが、エカテリーナが祖父セルゲイに触れた言葉に一瞬、声を詰まらせた。
遠い昔、寒村から来た下働きだった小さな娘は、公爵家に仕える者の頂点のひとつまで登りつめたのだ。怖いもの知らずに声をかけた、嫡男セルゲイに導かれて。
しかしすぐにきりりと表情を引き締め、さっと手をあげて門番へ合図を送った。
ゆっくりと、ユールノヴァ城の城門が開く。
その向こうから、大きな歓声が上がった。
北都の人々、ユールノヴァの領民たちが、皇都へ帰ってしまう前に高貴な方々の姿を一目見たいと、詰めかけている。
「つつがない道中をお祈りいたします」
ライーサがそう言うと共に、見送りの者たちが再び一斉に頭を下げた。
それを合図に、ミハイルとフローラ、アレクセイとエカテリーナは、それぞれ馬車に乗り込んでいく。
「ご出立!」
騎士団長ローゼンが声を張り、騎士団の奏者が角笛を吹き鳴らす中、一行は皇都に向かう旅路へ踏み出した。