大角牛
目が合ってしまった。
ぞおっと寒気が走る。赤みがかった金色の目が、ギラギラとした狂気をたたえている気がして。いや全身から、瘴気のように異様な気が噴き出しているような。
ふっ、ふっ、と荒い呼吸を繰り返しているのが見て取れた。
角が金色なのは病気によるもので、苦痛にさいなまれているために凶暴。別邸に飾られていた金角を見たときに聞いた推測は、きっと正しい。
四、五メートルある川幅が、急に狭く思えてくる。大角牛は、シャレにならない大きさだった。先日騎士団と共に討伐した単眼熊より、はるかに大きい。
あの熊でも、推定体重は二百キロくらいあった。けれども目の前の大角牛は、あれより一回り、いやそれどころではないほど大きい。そういえば前世で好きだった農業漫画で、牛の体重は軽めでも五百キロとか書かれていたような。普通の牛より大きそうなこの大角牛は、下手をすれば一トンに達するのではないか。
さらに、前世で見たネットニュースの記事が脳裏によみがえる。自然界で一番恐ろしいのは、肉食獣よりもむしろ巨大な草食獣だと。アフリカではライオンよりカバの方が怖いのは有名な話、アラスカでも熊よりヘラジカの方が、遭遇した場合の死傷率が高いとかなんとか……。
やめて!こんな状況で怖いことばっかり繰り出してこないで私の記憶!
狂気をたたえた大角牛の目から、目をそらせない。目線を外したらその瞬間、こちらへ突進してくるに違いない。川などものともせず、あっという間に渡って来てしまうだろう。その予感がひしひしとした。
腹に力を込めて、押し返すように視線に力を込める。そうしながら、そろそろと川から足を引き上げる。
せめて大角牛の足元が土だったなら、魔力で闘えたかもしれない。けれど、岩場だ。エカテリーナの魔力は土属性、岩を操ることはできない。それに、魔力を使おうと気をそらしたら、それだけで大角牛は襲いかかってくる気がする。
睨み合いながら、ゆっくりと距離をとり、逃げる。それしかない。
そのために、まずは立ち上がらなければ。
上半身をできるだけ動かさないように、ゆっくりゆっくりと膝を上げて、座っている岩に足をつこうとした。スカートがふとももを滑り落ちて、足はすべてが見えてしまっているだろう。けれど、両手は岩について上半身を支えている。スカートを押さえるどころではない。
貴族令嬢としてとんでもない状態、誰かに見られたら自害も考えなければならないありさまではなかろうか。
でも、生命あっての物種だ。気にしている場合ではない。見る人なんて、誰もいない。
はずだった。
「止めるな!あの大角牛は確かに金角だった、凶暴なら逃すわけにはいかない!勢子たちを下がらせるよう、アレクセイに伝えて――」
(え?)
突然聞こえてきた声に、エカテリーナは反射的に、そちらへ目を向けてしまった。
夏空色の目と、目が合った。
それはもう、ばっちりと。
「……」
真っ白。
自分の体勢とか、スカートがどの辺とか、頭から全部すっとんで、エカテリーナは完全に固まっている。
「……」
対岸に現れた、ミハイルも固まっていた。
まじまじと見つめてしまっているあたりに、彼の混乱ぶりがうかがえる。普段のそつのない彼ならば、すぐに失礼とでも言って目をそらすはずだろうに。
そうだよ、目をそらせ!いつまで見てんだ、皇子のばかーっ!
という叫びが令嬢エカテリーナの脳内でお嬢様向けに変換されて、
「き……」
きゃーっ!という叫びとして口元までせり上がってきた、その時。
ブモオオオオオーーーーッ‼︎
魔獣の咆哮が轟いた。
推定体重一トンの大角牛が、前足の蹄を岩に叩きつける。ガコン!と音を立てて、大人一抱えくらいの大きさの岩が、二つに割れた。
大角牛の狂気に燃える目が、ミハイルを向く。狂っていても、本能で、ミハイルが自分を狩る者であることを悟ったのだろう。
ミハイルも我に返り、大角牛に向き直った。自分が来た方向、川岸の奥の森へ向けて声を張る。
「皆、来るな!大角牛を見つけた、僕が獲る!」
その言葉と同時に、川の水がどおっ!と逆巻いた。
視界に入る限りの川の水が、ミハイルの魔力の支配下に入ってまるで壁のようにそそり立ち、大角牛へと雪崩れ落ちる。
お……皇子の本気、すげえー!
これだけの量の流れる水を、一瞬で支配した!魔力の量、発動の速さ、制御技術、どれをとっても一級品!
君、マジですごいな⁉︎
あの大角牛と同じ岸で向き合っている君だけど、全然心配いらなそうだよ!
はっ、感心してる場合じゃない!
きっと皇子は、お付きの人々の視界を遮って私を隠してくれるために、こんなに派手に水を操ってくれたんだ。
あわてて、エカテリーナはばっとスカートを足にかぶせる。
いや、これじゃない。これも大事だけれども、これじゃない。
エカテリーナは急いで、座っていた岩から降りる。ちょうどそこへ、靴を手にしたフローラが駆け戻ってきた。
「エカテリーナ様!」
「フローラ様、大変ですわ。大角牛が現れましたの。角が金色で……」
「ええっ」
フローラは目を見張る。おそらく大角牛の咆哮を聞いて振り返ったものの、もう水の壁で対岸は見えなくなっていたのだろう。
ミハイルに見られて固まっていた時間は、とても長かったような気がしていたけれど、実際は数秒だったわけだ。
「ミハイル様が闘っておられます。戦いの妨げにならないよう、わたくしたちはここを離れましょう」
「はい!」
そして二人の少女は、手を取り合ってそこから駆け去った。
走りながら、エカテリーナの頭の中は同じ言葉がぐるぐる回っている。
お、皇子に……皇子に……。
ふともも見られたー⁉︎