狩猟大会開始とお見送り
アレクセイとミハイルを始めとする狩猟大会の参加者たちは、それぞれ馬上の人となって、猟場へと向かっていった。
ミハイルが乗っているのは、ユールノヴァ家の馬だ。名馬ぞろいのユールノヴァ城の厩舎の中でも、最も優れた駿馬である。ミハイルも当然自分の愛馬を持っているが、皇都から大河セルノー河を快速船で遡ってきたため、連れてくることはできなかったのだ。
「良い馬だね」
馬と引き合わされた時、ミハイルは微笑んで言った。如才のない台詞はいつも通りのようだが、目の輝きに本当の喜びが表れている。
実際、見るからに見事な馬だった。均整がとれていてすらりとして見えながら、たくましく力強い。美しい栗毛の馬体は完璧に磨き上げられていて、鏡のようにつややかだ。歩くたびにうねる筋肉の動きまで、しなやかで美しい。たてがみもきれいに編み込まれていて、皇子殿下が騎乗するこの馬を、馬丁たちが細心の注意を払って仕上げたことがうかがえた。
「アレイオンには及びもつきませんが」
アレクセイが言った言葉で、エカテリーナはぴんときた。アレイオンというのはミハイルの愛馬の名前だろう。
この栗毛の名馬さえ及びもつかないほどの存在。皇帝陛下の御馬係、クルイモフ家。
ミハイルの愛馬アレイオンは、クルイモフの魔獣馬に違いない。
皇子!お兄様に魔獣馬を贈ってくれるよう、クルイモフ伯爵にプッシュして!
思わずミハイルに念波を送るエカテリーナであった。
アレクセイが乗ったのは、こちらも引けを取らないほど見事な黒馬。やや大きい馬体が、長身のアレクセイに合っている。
先頭を進む若き貴公子たちの後に、ノヴァク、アーロンら臣下たち、狩猟大会参加者たちが続いていった。彼らの馬も、なかなかのものだ。皇子殿下と共に参加するこの催しのため、念入りに手入れをしてきたことだろう。中には、このために新たな馬を買い入れた者もいるかもしれない。
ふとエカテリーナは「馬揃え」という言葉を思い出した。前世の戦国武将が、配下を集めて馬や軍装をチェックした、催しのことである。
織田信長が、大々的な軍事パレード状態で京都の街を練り歩いたのが有名だ。山内一豊という武将が、奥さんが渡してくれた彼女の持参金で名馬を買って、その馬が信長の目に留まって取り立てられたとかなんとか。
まあその山内一豊が、のちのち土佐の藩主になって、土着の長宗我部氏の郎党たちの反抗に手を焼き、彼らに対して差別的な藩政を始めてしまったわけだけれども。
車が登場する前の時代、馬は本当に重要な存在だったんだなあ。
狩猟大会の参加者はほぼ男性だったが、一人だけ女性が混じっていた。きりりとした乗馬服に身を包み、背筋を伸ばして馬を進めていく凛々しい女性は、公爵家の老執事ノヴァラスのひ孫姉弟の姉だ。
祖母アレクサンドラの時代には隠していたが、実は乗馬が大好きなのだそうで、狩猟もこっそりたしなんでいたらしい。隠していたのはアレクサンドラが乗馬好きな女性を嫌ったからで、アレクサンドラが乗馬好きな女性を嫌ったのは、自分を軽んじる皇后マグダレーナが乗馬を好む女性だったからだ。やたら堂々と八つ当たりをしていたようなものである。
ほんっと、ロクなことしないなババア。
この世界この時代、乗馬服でも女性はスカート。馬にまたがるのではなく、横乗りといって横向きになって乗る。鞍もそれ用に作られたものを使う。
その乗り方で狩猟にまで参加できるというのは、かなりの技量だろう。
エカテリーナもフローラも、馬には乗れない。エカテリーナは乗馬を習いたいとアレクセイにねだったことがあるのだが、まず身体に合った鞍を作ってからでなければと教えてもらって、注文した鞍の出来上がりを待っている状態だった。
そして、習い始めてもおそらく彼女は、狩猟に参加できるほどにはならないことであろう。
「猟果をお祈りいたしますわ。でもなによりお気をつけて、お怪我などなさらないでくださいましね」
エカテリーナはアレクセイとミハイルにそんな言葉をかけて、狩猟参加者一同を見送ったのだった。
そして女性たちは、グランピング会場、ではなく渓谷へ馬車で移動する。
渓谷まで馬車道が拓かれており、道の周囲は圧倒的な緑だ。白樺だろうか、樹皮が白く葉は爽やかな翠緑、という木々が多く、見る目に心地よい。
到着して馬車を下りたとたん、フローラが目を見開いた。
「素敵……!」
いつも慎ましい彼女が、こんなに声を上げるのは珍しい。しかしエカテリーナも一緒に歓声をあげていた。
マイナスイオンー!
と、叫んだわけではないが。
話に聞いていた滝は思いのほか大きく、どうどうと音を立てて滝壺へ流れ落ちている。周囲には白樺、そして滝壺の周辺が拓けた広場になっていて、いくつかの天幕が張られ、白い瀟洒なテーブルと椅子が並べられていた。
滝壺から流れ出す清流の岸辺には、アーロンが言っていた通り、山野草の花々が色とりどりに咲き乱れている。
そこに漂うのは、森の香り、滝の涼気。
身体に染み入ってくるようだ。
前世で観光した、青森の奥入瀬渓谷を思い出す。あの場所に似た、緑と清流のハーモニー。
「こんな風景、生まれて初めてです。なんて美しいんでしょう!」
皇都で生まれ育ったフローラにとっては、本当に新鮮な風景に違いない。この世界にはテレビも写真もないのだから。
皇都にも緑豊かな公園があって、木陰でお昼を食べたりしてピクニックもどきをすることはあるそうだ。けれど、こんな天然自然の風景とは全然違うだろう。
前世では、実際に行ったことがなくても、有名な観光地ならその景色はテレビの旅番組やガイドブック、SNSにアップされた写真で見たことがあるのが普通だった。
この世界では、体感するまで、実際に目にするまで、その景色を見ることはできない。見るすべはない。そう考えると、情報があふれかえっていた前世は、すごい時代だった。
写真が発明されてから、たぶん二百年くらい。
人類史で考えればごく短い期間で、人間の暮らしはなんて変わったんだろう。
「本当に素敵ですわね。今日はきっと楽しい一日になりますわ。それにここには、猟場の歓声や角笛の音が聞こえてくるそうですの。お兄様やミハイル様のご活躍を、感じ取ることができれば嬉しいですわね!」