大叔父アイザック
その人は、鉱山事業本部の片隅にある雑然とした部屋で、何か書き物をしていた。
向かっているのは立派な机ではなく、簡素なテーブル。ただ板に四本の足がついているだけ、という感じだが、とても大きい。そのあちこちに何の変哲もなさそうに見える石が置かれていて、ハンマーで細かく砕かれてなにかの薬品に浸けられていたり、ランプに炙られたビーカーの中でコポコポと熱せられたり、魔法陣に置かれて明滅したりしている。
部屋の奥にはずらりと戸棚が並び、そのすべてにさまざまな鉱石がきちんとケースに収まり名前が書かれた名札を付けられて、大切に保管されていた。
うーん、大学時代の研究室を思い出すわー。試験管洗いたくなる。
「アーロンかい」
穏やかな声がした。
「今手紙を書いているから、あとで送ってくれないか。『神々の山嶺』の麓にある観測所へ」
今やこの鉱山事業本部のトップであるアーロンだが、昔通りに助手と思われているようだ。そしてアーロンも、当然のようにうなずいた。
「はい、わかりました。その前に博士、お客様です」
「お客様?」
不思議そうに、鉱物学者アイザック・ユールノヴァは振り返った。
エカテリーナを見て、大きく目を見張る。
そんな大叔父に微笑みかけながら、エカテリーナも内心驚いていた。
セルゲイお祖父様に似てる!
肖像画でしか知らない祖父は、優しい人柄を知ってはいても、威厳を擬人化したようにいかめしい見た目だった。宰相や外務大臣など国の要職を歴任するに、この上なくふさわしく。そして、ダンディそのものの魅力的な男性だった。
祖父の異母弟であるアイザック大叔父は、その祖父と明らかに似通った、整った目鼻立ちをしている。けれどずっと柔和な印象で、祖父ほど長身でもないようだ。
髪の色が青みがかった白なのは、もともと青い髪がほとんど白髪になっているためだろうか。瞳の色は、祖父は鮮やかな青だったようだが、大叔父は勿忘草のように淡い青。水色とも言えるが、アレクセイのネオンブルーとも、祖母の氷のような色とも違う、優しい印象だ。
「……アナスタシア?」
戸惑ったように母の名を呼ばれて、エカテリーナはかぶりを振った。淑女の礼をとる。
「お初におめもじいたします。わたくし、エカテリーナです。アイザック大叔父様、お会いできて嬉しゅうございます」
「エカテリーナ!」
弾かれたように立ち上がり、アイザックは大きな笑顔でエカテリーナに歩み寄った。両手を差しのべて、エカテリーナの小さな両手を優しく包み込む。大きな温かい手だった。
「なんてことだ、会えて嬉しいよ!なんだか、まだ小さな女の子のように思っていた。こんなにきれいなお嬢さんだとは……でもそうだ、アーロンが、とても賢いご令嬢だと教えてくれて」
と、アイザックははたと言葉を切った。おろおろと言う。
「ああ……ごめんよ、僕は、君とアレクセイを城で出迎えることになっていたんだった。すっかり忘れていた。もう皇都からこちらに着いてしまったんだね。
あれ、いや、城で宴があるから行くように言われていたんだったかな。どちらにせよ、ごめん。僕は本当に駄目な奴だ……」
しょんぼりしてしまったアイザックに、エカテリーナは微笑んだ。
アーロンやユールノヴァ城の家政婦ライーサから聞いていた通り、現実的なことには対処できないタイプらしい。天才学者なのだから、いっそこれくらいのほうが、伝記が面白いと思う。
「どうぞお気になさらないでくださいまし。わたくし、お兄様の名代で山岳神殿へ参拝に参りましたの。ちょうどお会いできて、ようございましたわ」
「そうかい……?でも女の子が一人で旅をするなんて、えらかったね。エカテリーナはしっかりした子だ」
……すいません中身アラサーなんです。そんな純粋な笑顔で褒められると、ほんとにすいませんとしか。
「一人ではありませんでしたの。フォルリ卿がご一緒くださいましたのよ。今は山岳神殿の神官様たちと、明日の参拝について打ち合わせをしていらっしゃいますわ」
「ああ、バルタザール兄さんと一緒だったなら、心強かっただろうね。僕も昔はよく、一緒に旅をしたんだ」
兄セルゲイの親友だったフォルリだけに、アイザックも親しく付き合っていたようだ。
「博士、お嬢様は博士にお土産を持って来られたそうですよ。早くお渡ししたいとおっしゃるので、打ち合わせはフォルリ卿にお任せして、お嬢様をこちらにお連れしたんです」
アーロンがふってくれた話に、アイザックは驚いた顔をする。
「お土産?エカテリーナが僕に?」
「大叔父様のご研究に、ぜひ役立てていただきたいものですの。――ミナ」
エカテリーナが呼ぶと、大きな荷物を軽そうに持ったミナがすすっと寄ってきた。テーブルの上に荷物を置き、手早く荷ほどきをする。
現れたものは、顕微鏡だ。
エカテリーナにとってはいささかレトロな印象の、しかし明らかに顕微鏡とわかる形状。だが、アイザックは不思議そうに首をかしげた。
「なんだろう、初めて見たよ。でも、研究用の器具らしい感じがするね」
アイザックがこう言うのは、この世界にも顕微鏡が存在はするが、前世とは形状から違っていてかなり使いにくいものであるせいだ。プレパラートもまだ存在しておらず、拡大する対象はテーブルの上などに置く。ので、かなり見づらい。
今回、皇都のムラーノ工房で雇い入れたレンズ職人エゴール・トマにこの顕微鏡を作ってもらうと共に、プレパラート用のスライドガラスも作成依頼して送ってもらった。それに拡大対象をセットして、下の鏡で光を反射させて視界を明るくすれば、この世界に既存の顕微鏡よりはるかに見やすい。
それにトマは、いろいろ工夫して、皇都の公爵邸にあった顕微鏡より拡大率を高くしてくれたそうだ。凝り性だと自称していたのは、事実らしい。
「これは、顕微鏡ですの。皇都でユールノヴァ家が買い入れたガラス工房で作らせた、改良型ですわ。このように使いますのよ」
テーブルの上にあった、細かく砕かれた岩石の粉をもらってスライドガラスに乗せる。
前世では、プレパラートといえば水とかを一滴落としてカバーガラスをかぶせたものだったが、極薄のカバーガラスはまだちょっと作れない。スライドガラスだって、かなりきれいに透き通った均一な厚さのものを作ってくれたのはすごいと思う。
台にセットして、レンズをのぞき込む。下の鏡を調節して反射光で視界を明るくし、調節ねじを回してピントを合わせると、粉はまったく違う姿で見えるようになった。黒っぽいごつごつしたものに混じって、明るく透き通った、美しい色の結晶らしきものがいくつも見える。まるで雪の結晶のように美しい形のものも。形状からみて、水晶とかではなさそうだ。
「どうぞ大叔父様、ご覧になって」
「ありがとう」
エカテリーナの操作を目を丸くして見ていたアイザックは、いそいそとレンズをのぞき込んだ。
「おお!」
一目見たとたん、アイザックが叫ぶ。
「すごい!こんなに明るく……こんなに拡大できるのは初めてだ。なんてはっきり見えるんだろう。ああ、語りかけてくるようだ……」
感動の声はうっとりした呟きに変わって、アイザックは息をつめて、無言で顕微鏡を見つめ始めた。
と、顕微鏡から目を離し、何かを探すようにきょろきょろする。
そんなアイザックに、アーロンが心得顔でノートと羽根ペンとインク壺を差し出した。いつの間にか、テーブルの別の場所に置いてあったものを持ってきたらしい。
「ああ、ありがとうアーロン」
嬉しそうに受け取ったアイザックは、ノートにスケッチとメモを描き始めた。
他のことをすべて忘れて没頭するアイザックを、満足気に眺めるアーロン。助手スキルは完璧なようだ。
なおアーロン、この若さで鉱山長を務めているのは伊達でもコネでもない。
ユールノヴァのすべての鉱山を把握し、それぞれの鉱山の産出量に推定埋蔵量、所在地周辺の地形や輸送路、およその経費、利益、雇用人員数、主要な関係者と彼らの相関関係、その他もろもろの膨大なデータを脳内に収めている。豊富な知識にもとづいて各鉱山に的確な指示を出し、鉱山に巣食う海千山千の叩き上げたちが水増しした費用を上げてきたり指示通りの結果を出してこなかった場合、にんまり笑って通常の指揮系統とは違うところへ何かを伝え、それでなぜか問題が改善する、というちょっと怖い現象を起こすことさえできる。
執務室では最年少のため控えめに振舞っているが、人材育成が趣味だった祖父セルゲイが取り立てたメンバーだけあって、とんでもなく出来る男なのだ。そして実は黒い。
それほどの鉱山長としての能力も、実はアイザックが存分に研究に没頭できる環境を作るための、助手スキルの一環なのかもしれない。と、アーロンがアイザックの助手をやっている時の幸せそうな表情が思わせる。
――アーロンさんのアイザック大叔父様ラブが深すぎる。私のブラコンが負けているかもしれない。これは危機!
アホな焦燥を感じるエカテリーナであった。
手早くスケッチを書き上げて、顕微鏡から目を離したアイザックは、あらためて感心したように顕微鏡自体をしみじみと見て、そっと撫でる。
それからようやく我に返って、あわてた様子でエカテリーナを見た。
「ああ、すまない。また僕は、夢中になってしまって」
エカテリーナは微笑んだ。
「大切なご研究ですもの、集中されるのは良いことですわ。この顕微鏡は、お役に立ちますかしら」
「もちろんだよ。これは、素晴らしいね。こんな風に台をつけて、ガラスに乗せて鏡で下から光を当てられるようにするなんて、すごい工夫だ。他の顕微鏡とは、まるで違うよ」
アイザックは嬉しそうに顕微鏡を撫でている。
「こんなすごいものを、本当に僕が貰ってしまっていいのかい?」
「もちろんですわ。お使いいただいて、もっとこうして欲しいといったご要望がありましたら、ぜひ教えてくださいまし」
「博士、この顕微鏡はお嬢様が改良されたんですよ」
アーロンの言葉に、アイザックはきょとんとなった。
ええ、その反応は正しいです。私がこんなの思い付けるなんておかしいですよね!だって思い付いてないもん!
本当は、顕微鏡が生み出されてから百年二百年かけて、いろんな人がいろいろな改良を積み重ねて、こういう形になったものですよ。
でもそんなことは絶対に言えない。
「素人ならではの思い付きですわ。女性たるもの、宴の前に装う時には、鏡の反射で光を当てて髪やお化粧を確認するものですのよ。殿方には馴染みのない鏡の使い方なのかもしれませんわね」
つるつると言い訳が出てくる自分に感心するわ……。
「そうなんだね。でも、すごいし素晴らしいよ。アーロンが言っていた通り、エカテリーナは本当に賢い子だ」
子供のような笑顔で、アイザックが褒めそやす。
その純粋な笑顔が、エカテリーナの良心にグサグサきていたりする。
「お……大叔父様、今ご覧になっているのはどういった鉱物ですの?」
苦しまぎれに尋ねたエカテリーナに、アイザックはにっこり笑った。
「これかい?これは、虹石だよ」




