月の名の乙女
少女は微笑むと、巨大な黒馬の背からするりと滑り降りた。
長いまっすぐな金髪がさらりと流れる。ほっそりと華奢な身体つき、細面の顔立ちは少し寂しげだが気品があって、美しい。
「わたしはセレーネというの」
セレーネとは、この世界の神話で月に住み竪琴を奏でている美女の名前だ。昔はポピュラーな名前だったらしく、古典文学などでもよく見る。
「わたしを怖がらないでくれて嬉しいわ」
「アウローラ様から、お話をうかがっておりましたの。迷子の子供を案内してくださった、優しい方と」
それに正直、夢の中にいるような気持ちだから。
ミナ、騎士たち、森の民、レジナたち猟犬さえも眠りから目覚めず、周囲の森も静まり返っている。これは、セレーネがなんらかの影響を及ぼしているためだろう。自分もどこかが、麻痺しているような気がする。
「まあ、嬉しい。わたしを見た人は、とても恐ろしいと話すことが多いようなのに」
馬に寄り添い、銀色のたてがみに頬を埋めて、セレーネはおっとりと言った。
……この少女が、かつて仇の一族を殲滅したのだろうか。
けれどふと見れば、彼女が着ている白いシンプルなドレスには、黒ずんだ汚れがある。死の乙女は、伝説の通り、血染めの屍衣をまとっているのだった。
「あなたは、とても賢いのね。わたしに近寄らない」
ふふ、とセレーネは微笑う。
小首を傾げてエカテリーナを見る、その目が淡く光っていた。
「こんな風に呼び立ててごめんなさい。でも、とても不思議だったものだから――あなたの魂が。二千年この世に留まって、あなたのような魂を初めて見たの。他の誰とも、何かが違う。
あなたは何?」
エカテリーナは、大きく息を吸い込んだ。
何?と訊かれてしまいましたよ。
すいません悪役令嬢です。って答えていいですか?
いけません。二千年前に乙女ゲームないから通じない。ていうか二千年後の現在だって、この世界で乙女ゲーム言うても通じんわ。この世界が乙女ゲームなのになー。
いや、いいからさっさとお答えしろ自分。
「わたくしは……」
言いかけて、エカテリーナはいったん言葉を切った。
思い切って言う。
「わたくしには、前世の記憶がありますの」
こんな怪しげなこと人に言う日が来るとは……。
でも相手も、死の乙女という超常的存在だし!
……この目で見られて嘘つくとかごまかすとか、無理ですから。
「前世の記憶」
おうむ返しに言って、セレーネは首を振る。
「そういう人は、他にもいたわ。でも、あなたは、何かが違う。とても目立つの。聞いたことのない旋律が響いてくるような、不思議な色の光が射しているような。何かが……今までの誰とも違う。
この世界と、微妙にずれている、のかしら。それがどうしても気になって、こんな風に会いに来てしまったのよ」
うわあ。
ほぼバレてる……ような?
「それは……前世のわたくしが生きた世界が、この世界ではない別の世界であったから、なのかもしれません」
腹をくくったエカテリーナの言葉に、セレーネは目を見開いた。
「別の、世界?」
「まず、前世のわたくしが生きていた世界は、この世界よりも歴史が進んでいたようでしたわ。この世界も数百年後には、前世の世界のようになることでしょう。
そして何より、前世の世界には、魔力が存在いたしませんでした。魔獣も存在しない、神様もいない世界だったのです」
セレーネは絶句しているようだった。黒馬を見上げ、銀色のたてがみに指をからめて、首を振る。
「……とても想像できないわ」
「さようでございましょうね」
神が存在しない世界では、死の神に願ってこの世に留まったという、彼女もありえない存在だ。この反応は、無理もないものかもしれない。
「あなたは他にも、ここではない別の世界を生きたことがあるの?」
「いいえ――いえ、わかりませんわ。わたくしに記憶がございますのは、今の生のひとつ前、前世のみですの」
「そう……不思議ね。魂はひとつの世界を巡るものだと思っていたわ。あなたの魂がとても特殊で、いろいろな世界を巡るのかもしれないと思ったのだけど。
別の世界からこちらの世界へ、魂が移ってくるのはきっと珍しいことね。なぜそうなったのか、心当たりはあるかしら」
うう。
心当たりはありますが、つくづく、前世の乙女ゲームがこの世界と一体どういう関係にあったのか、私もあらためて不思議です。
「わたくし、前世の世界で……この世界について、なんと申しましょうか……この世界が描かれている、ものを、見ておりましたの。それゆえに、世界を移ることになったのかもしれませんわ」
「この世界が描かれているもの?その前世の世界では、別の世界をのぞき見るすべがあったということかしら」
「いいえ、そうではございません。ただの、物語のようなものでございました。わたくしは、それが実在する異世界のこととは夢にも思わず、想像上の世界とばかり思って、ただ楽しんでおりましたわ。それでもそこには、皇都でわたくしが通った魔法学園が描かれており、共に学ぶ学友である皇子殿下や、聖の魔力を持つ友人のことが語られておりました。
このユールノヴァ領については、そこでは触れられておりませんでしたが……そう、わたくしどもが玄竜と呼ぶ存在は登場いたしました。そこでは……」
言葉を切って、エカテリーナは少し考える。日本語で思考したことも口に出す時には自然に皇国語(のお嬢様言葉)に自動的に変換される、というか令嬢エカテリーナの語彙の範囲内でしか話すことができない(おかげでクソババアとか口から出ないで済んでいる)ので、前世での言葉をそのまま話すのはかえって難しいのだ。
「……ヴラドフォーレン。魔竜王ヴラドフォーレンという名で語られておりました」
エカテリーナがそう言った途端、セレーネの黒馬が、彼女からすいと離れた。
ブワ、と闇が噴き出して、馬の輪郭が崩れる。夜よりも黒々とした闇が形を変じると、そこには見上げるほど背の高い、一人の男性の姿があった。
「……」
エカテリーナは言葉もない。
馬が人に変じたことに、驚いたのではなかった。
肌は漆黒。身の丈と変わらぬほど長い髪は、きらめくような銀色。瞳も同じ、光る銀色。身につけている古代めいた長衣はすべて黒、わずかに帯に銀色で文様がある。
銀色の目が、こちらを見た。
心臓をぐいと掴まれたようだった。
銀色の髪に月光が輝く、まるで讃えているかのように。
(前世で見た魔竜王も絶世の美形と思ったけど――リアルで見る『絶世』はわけが違う!)
漆黒の、異質な、けれど絶世の美貌。
鳥肌が。
「ヴラドフォーレンと言ったか、ユールノヴァの娘」
低い声は、磁力を帯びているかのように聞く者を惹き付けた。
「それは確かに、北の王の名だ。この地のすべての魔獣を統べる、竜の王。
しかし、人間がその名を知るはずはない……お前はそれを、前世で知ったと言うのか」
エカテリーナは、応えることができない。ぐらりと倒れてしまいそうなのを、必死にこらえている。
なん……なんだろう、この圧。行幸で拝謁した皇帝陛下の威厳でさえ、これとはまるで違った。
ああ、そうだった、死の乙女をこの世に留めているのは。
『冥府へくだるのを拒むなら、この世にあって我がものとなれ』
死の神。
この圧は、神威なのか。
セレーネが死の神に歩み寄り、神は手を伸べて彼女の肩を優しく抱いた。それで圧が少し緩んで、エカテリーナは息をつく。
「は、はい。わたくしはその御名を、前世で知りました」
「……よく答えた。気丈な娘だ」
死の神は、微かに笑う。美貌の笑みは、違う意味で気を遠くさせる威力があった。
「その物語によってこの世界と縁を結んだために、お前の魂はこの世界に移ってきたというのだな。奇妙なことだ……なぜその物語には、別の世界の存在が正確に語られていた?」
「わたくしにも、理由は何もわかりませんの……」
むしろ教えてください。
「では、いまひとつ尋ねよう。お前は、前世の記憶があると言う。今お前の魂がこの世界にない色をしているのは、その別の世界の記憶を残しているためだ。死して忘却の河を渡り、再び生まれてきたなら、一度は忘れたのだろう。記憶は、いつよみがえった」
では、前世の記憶がよみがえるまでは、異世界から移ってきた魂でも他と区別はつかない……?
「前世の記憶は、つい数カ月前に突如よみがえったものですの。さきほど触れた皇都の魔法学園を初めて訪れた折に、突然噴き出すように、前世の自分を思い出したのですわ」
エカテリーナが言うと、死の神はうなずいた。
「さきほど、その魔法学園に、聖の魔力を持つ友人がいると言ったな。創造神が関与しているのやもしれぬ」




