王養蜜
「皆、退がるがよい」
食事が済んだのち、フォルリがそう言って騎士たちと御者を天幕から去らせた。
給仕をしてくれた森の民の女性たちも、一礼して去る。エカテリーナが美味しい食事の礼を言うと、礼儀だけではなさそうな、嬉しそうな笑顔を返していった。
ミナは残っている。いつも通りの無表情ながら、エカテリーナから離れるつもりは毛頭ない、という空気をゴゴゴと発していて、フォルリもひとつうなずいた。彼女を退がらせるつもりはないらしい。
「お嬢様、こちらをどうぞ」
微笑んで、アウローラが薄焼きクッキーのようなものを載せた皿を差し出した。
「大王蜂の王養蜜を塗った菓子です。本来は大王蜂の女王蜂だけが食べるもの、ごく少量しか作られませんので、人間に分けてくれることは稀にしかありません。皇帝陛下でさえ、これを召し上がることはお出来にならないでしょう。私ども森の民にできる、唯一の贅沢なおもてなしです」
「まあ、そのような。いただいた夕餉は、どれをとっても素敵で美味しゅうございましたわ」
とはいえやはり、そんな貴重なものと思うとわくわくする。
エカテリーナが口にしてみると、サク、といい歯ざわりだった。甘みは強くなく、ほんのりしている。
(あっ⁉︎)
ひと呼吸おいてから来た感覚に、エカテリーナは目を見開く。
なんだろう、魔力が。燃料を投げ込まれたかのように、ぱっと漲った。単眼熊を掃討したり畑の土起こしをしたりして消耗した分が、一気にチャージされた感じ。
「お嬢様のように魔力の強い方には、効果が強く現れまする」
ふっふ、とフォルリが笑う。
「大王蜂の王養蜜は、普通の人間が食べても非常に身体によく、病や傷の治りが驚くほど早くなる効能がござりますが、魔力を持つ者が口にすると、魔力を高めてくれまする」
「まあ……なんと素晴らしい」
「五代公爵ヴァシーリー公は、王養蜜を『森の秘宝』とお呼びになったそうにございまする」
前世のゲームとかでよく出てきた、回復薬みたい。すごい。ここが乙女ゲームじゃなくて冒険系ゲームの世界だったら、ゲットしようと冒険者が殺到してきただろうな。よかった、この世界に冒険者いなくて。
……ここが乙女ゲームの世界だってこと、しばらく忘れてたわ……公爵領へ来てから乙女ゲームのシナリオと無縁の日々だから。乙女ゲームのシナリオとかイベントとかの内容を、忘れ果ててしまいそうで怖い。
「大王蜂の女王蜂は高い知性を持ち、この地を治めるのがユールノヴァ公爵であるという人間界の理を理解しているように思われまする。公爵家の方が森の民の居住地を訪れる時、王養蜜を分けてくれることが多いのでござります。己れの価値を知らしめているように思えまする」
だとしたら本当に知能高いな女王蜂。人間のニーズを把握して売り込みって、ある意味マーケターやってのけてるぞ。
そしてしっかり功を奏したね。ヴァシーリー公が大王蜂の森を保護したのは、この王養蜜を確保するためもあったんだろう。個人の魔力が絶大なアドバンテージになり得るこの世界、魔力を高めてくれるアイテムなんて、この上ないお宝。病気や怪我にも効くなら、医療がまだそれほど発達していないのだし、それはもう秘宝にして至宝。
「……お兄様に食べていただきとうございますわ」
ぽろりと言葉が口から転がり出た。
お兄様、今どうしてるだろう。私がいないからって、遅くまで働いたりしてないだろうか。ちゃんと食事してくれたかなあ。
この王養蜜を食べてくれたら、過労死フラグも折れるかも。食べずに持って帰ればよかった。
あ、でも、回復できるからって仕事時間を増やしてしまう恐れが。いけません、回復薬飲んで二十四時間働けますか、なんて昭和のキャッチコピーです過去の遺物です……って、この時代から見るとあれは未来?いやどうでもええわ。
うわーん、お兄様がいなくて寂しいよう。
うるっとしそうになったエカテリーナの気をそらすように、アウローラが言う。
「お嬢様、私ども森の民が伝えてきた、ヴァシーリー公ゆかりの品をご覧になりますか」
「まあ。ぜひ、お願いいたしますわ」
いかんいかん、ブラコン発揮していいタイミングじゃないぞ自分。
アウローラは天幕の隅から、抱えるくらいの大きさの木箱を持ってきた。使い込まれてつややかな、表面に細かな彫刻が施された美しいものだ。木箱の前面のみ、碁盤の目状に九つに区切られて、九つそれぞれに異なる植物が彫られている。
アウローラが上部の蓋を開いて何かを動かすと、カタリと音がして前面の九つに分かれた板のひとつが外れた。アウローラはさらに、パズルのように残る八つの板をずらしていく。
これ、からくり箱なんだ。日本では箱根の寄木細工が有名だけど、皇国にも似たようなものは存在する。森の民はこういう物まで作れるんだなあ。
最後に薄い引き出しが現れて、そこから取り出した古めかしい書状をアウローラが渡してくれた。
「もしや、祝宴でお兄様がおっしゃった、勅許状では」
「ええ、そうです」
手触りは普通の紙とあまり変わらないけれど、約三百年も前の書状のはずなのにインクが変色していないところからして、おそらく羊皮紙。こちらの世界での、アレクセイの執務室へ出入りするようになってからの知識では、皇国の建国期にはもう紙が普及していたけれど、重要文書には長らく羊皮紙が使われていたのだそうだ。一般的に紙より羊皮紙の方が、長期保管に耐えるとされているから。
これが羊皮紙なら、ヴァシーリー公は森の民を守ること、この大王蜂の森を守ることを、後々まで伝えるべき重要事項と考えていたんだろう。
書状を開いて読んでみる。
古風な書体だけど、力強い手蹟。さすが、ユールノヴァ歴代公爵の中でも賢君と名高いヴァシーリー公、意志の強さが感じ取れる。文体も古典的だけれど、正式文書は今もこういう書き方をするから、執務室で文書に接していたおかげでなんとか読める。
内容は簡潔で、要点は四つ。
森の民がユールノヴァ領に居住することの許可。
森の民がユールノヴァ領内のどこなりと例外なく通行することの許可。
森の民が住まう森を伐採・開墾することの禁止。
上記の特権を与える代償として、発明家ジョヴァンニ・ディ・サンティにあらゆる便宜を図り、身の安全を守り、求めるものを提供すること。そして、公爵家に忠誠を尽くすこと。
最後に一行、異なる筆跡で添え書きが加えられている。この書状は今も有効であるとして、日付と署名が書かれていた。執務室で見たことのある、祖父セルゲイの手蹟。
……この内容だと、森の民はこの書状を見せれば、ユールノヴァ城にさえ入って来ることができるな。むしろそれができるように書いたものかも。王養蜜が必要になった時、届けてもらうことができるように。
しかしこれだけの厚遇の代償が、発明家ジョヴァンニ・ディ・サンティへの便宜か……なんかヴァシーリー公、発明家に関してはやたら尽くしているような。いや本題は公爵家への忠誠で、王養蜜を得るための隠れ蓑なんだろうけど。これ以外にも、皇国に特許制度というものを創設したのがヴァシーリー公で、それはディ・サンティの権利を守ることで彼が祖国へ帰るのを思いとどまらせるためだったというしねえ……隠れ蓑だけとは思えないのよ、なんか。
「お嬢様、こちらもご覧ください。ヴァシーリー公と発明家の肖像画です」
「まあ!発明家の肖像画が残っておりますの?」
全然見たことなかったわ。発明家ディ・サンティって、業績は有名だけど、本人の人となりとか容姿とか、そういえば全然知らないなあ。
手鏡くらいの大きさの細密画を受け取って一目見て、エカテリーナはうっかり笑いそうになってしまった。
「意外に……お若く見える方でしたのね」
アウローラが白珠虫の籠をテーブルの上に置いてくれたので、その灯りでじっくり見る。ヴァシーリー公と並んでかしこまって座っている発明家は、かなりの童顔、というか可愛い顔立ちだった。赤毛というには淡いサーモンピンクの髪に、レモンのように鮮やかな黄色の瞳、ぱっちりした大きな目がチャームポイント。その顔に口髭を生やしているのだが、素晴らしく似合っていない。
前世のバラエティ番組で、なぜかたまに女子アイドルが髭ダンスっていうのをやってたけど、あれのつけ髭くらい取ってつけた感満載。いやー、発明家ってことで、勝手にすっかりレオナルド・ダ・ヴィンチと重ねてたわ。有名な自画像の渋いおじいさんを予想してたら、まさかの髭アイドル。なんという意外性。
また隣のヴァシーリー公が、ユールノヴァ公爵らしい長身に、鍛えていることが見て取れる立派な体格だから、落差が華厳の滝。ブルーグレーの髪と瞳がちょっと厳しそうだけどイケメン、たぶん三十前後のヴァシーリー公と、童顔可愛い系のたぶん二十代のディ・サンティ――前世の友達でBL好きだった子が見たら、即妄想に入るな。ご先祖様どうもすみません。
「お嬢様、次はこちらを」
アウローラがもう一枚の細密画を渡してくれて、今度は童顔髭男子を予想しながらそれを見た。
髭はなかった。
というか、服がドレスだ。
森の民が着ているものに似た古風な、ゆったりしたもの。髪は短いけれど、花の飾りをつけていて、それが可愛い顔立ちによく似合っている。ヴァシーリー公に手を取られ、公の長身に包み込まれるように寄り添われていて……。
えーと……。
はっと思いついて、エカテリーナは細密画の裏を見た。
そこには、ヴァシーリー公の筆跡でこう書かれていた。
『ジョヴァンナ・ディ・サンティ
我が伴侶』
ジョヴァンナって、じょ、女性ーっ⁉︎
そして伴侶ー‼︎