第9話 前編
穏やかな学園生活で、不穏な曇り空が広がってきた。ラティユイシェラの靴箱の中に真っ赤な一輪の花が置かれるようになったのだ。
「今日で5日目……」
「どうしたんだ?その花」
溜息を吐くラティユイシェラの後ろからシンアが覗き見るが、何の花か分からないようだ。
ラティユイシェラは草花に詳しく、この花が一瞬で何の花なのか分かったのだが、それを婚約者に打ち明けれずにいた。
自己主張の強い大きな赤い花弁が特徴的であるレンカソウ。花言葉は『私に気付いて』
最初は単なる冷やかしかと思っていた。しかし、日が重なっていくうちに確固たる目的だという可能性が高くなったのだ。
何日も何日も誰か分からない恐怖感に、身体が休めれない。
「ーーーラティユイシェラ嬢」
重い足取りで教室に向かう途中、アーサーが声を掛けてきた。いつもより深刻そうな面持ちで、優しくラティユイシェラの肩を抱く。
「どうしたんだ、具合でも悪いのか?」
「・・・何でもないの」
特に害がある訳ではないけれど、ラティユイシェラの不安は拭えない。
綺麗な肌も、若干青ざめている。
「何かあれば言ってくれ」
「ありがとう」
優しいアーサーの気遣いに、心配を掛けないよう笑顔で返す。
レンカソウは次の日もその次の日も、ラティユイシェラの靴箱の中に置かれた。
「ラティユイシェラ!顔色が悪いよ…保健室に行った方がいいわ」
また数日が経ち、リリが不安そうに眉を垂らしてラティユイシェラに保健室へ行くように促す。
夜も碌に眠れていないのだろうと分かる足のふらつきは、深刻なものだった。
「ラティユイシェラ嬢、歩けるか?」
アーサーの手を借りて保健室まで辿り着くと、保険医からも休みなさいとベッドに寝かされる。
暖かい空間が癒しとなったのか、ウトウトとし始め目を閉じた。
それほど深くは眠っていない。だからだろうか、すぐ横に人の気配を感じて目が覚めた。
「ひっ…」
細い指先に触れるか触れないかの距離でレンカソウが置いてあったのだ。
ラティユイシェラの悲鳴に気が付いたのか、ガタガタッと走り去る音が保健室のドアの方から聞こえ急いで駆け付けると、一瞬だったが、海よりも深い濃紺色の髪が揺れ動き、よく知る人の手にはレンカソウが握られていた。
「アーサー…様…?」
*
気付かれたかもしれない、と犯人は慌てて廊下を走っていた。
予め摘んでいたレンカソウの赤い花弁がヒラヒラと舞い落ちる。
恐怖に歪む顔、その時だけラティユイシェラは自分のことに気付いてくれてると錯覚し出したのは愛を込めて、花を送ったその日。
このまま送り続けるつもりで、猫背な生徒はニヤリと笑った。
「・・・え?」
笑った次の瞬間、まだ走っている途中だというのに体が宙を舞う。天井と共に現れた底冷えするような紫水晶の瞳とかち合った。
薄暗い燻んだ緑の髪が地べたに抑え込まれ、狂気に染まった顔は何とも言えずシンアの不快感を倍増させただけだ。
ぐしゃりと片足で右手を踏みつけられ、その顔は静かに怒りを表している。
片手で弄ぶペーパーナイフが、いつ落ちてもいいほど不安定なことに相乗して身の危険を感じる犯人は、ラティユイシェラにちょっかいを掛けてきた時点で、もう遅い。
「捕まえるの早いですね、シンア様」
騎士団長の息子であるアーサーも追いつき、手にはレンカソウを握っていた。組み敷かれた犯人の顔を見ると、アーサーの顔は引き攣る。
「この男・・・」
「知ってるのか?駄犬」
「はい・・・って誰が駄犬ですか!俺は駄犬というより血統書付きの賢い犬です」
自分を謙遜しないアーサーに一瞥してから、フンと鼻を鳴らすシンア。
「人の婚約者の周りをウロチョロしているのは臭いが分からない駄犬だ」
乾いた笑いには何の感情も含まれておらず、ゾクリと底冷えする寒さが感じられた。
「お前も知らないなら教えてやろう。ラティユイシェラは私の婚約者だ。レンカソウ、私に気付いて。面白いものを考えたものだ。望み通り気付いてやったぞ?ミドナー男爵子息」
いつものカリスマ性ある声とは程遠く低い声に、名前まで知られていたことによって猫背の生徒…ミドナー男爵子息は背筋が凍りついた。
「あ、あの子は僕に気付いてくれない!コレは僕からの愛のメッセージだ!」
押さえ込まれても熱り散らすその姿に、シンアの怒りは底冷えする程だ。当の本人はバレたのならとラティユイシェラへの想いを気持ち悪いほどぶつけている。
それに溜息で諫めたのはアーサーだった。
「…ラティユイシェラ嬢は気付いていたよ」
アーサーが指差す方にはふらつく足取りで壁を伝い、歩いてくるラティユイシェラが見えた。
後書き
「…シンア様、そのペーパーナイフどこから出したんですか」
シンアはただただ袖を指差して微笑んだ。
「こっわ、俺あんたが少し怖いです。どうせ他にも隠してるんでしょう」
アーサーの見解に、笑って誤魔化すシンアだった。