プロローグ:霧の海
「……僕もね──人を殺したことがあるんだよ」
業火に焚殺れる森の中、その人物はそう言った。
「……それも、実の家族を殺したんだ。……自分の望みを、まかり通す為に……」
予想外であろう告白に、もう一人の影法師は言葉を失う。
「君よりも、僕の方がよっぽど化け物、かもね……」
その人物は煤で黒ずんだ唇を震わせ、自嘲するように微笑んだ──
※
青白い霧に呑まれた通りの中を、一人の少年が彷徨っていた。
(……参ったな、遅刻しちゃった上に“霧海”に遭うなんて。この辺って、シェルターどこだっけ……?)
非常に中性的な顔貌の彼──半袖の白いシャツとカーキ色のズボンと言う出で立ちでなければ、「女の子」にしか見えない──は、ブロック塀伝いに、ヘッピリ腰で歩く。
するとほどなく、濃密な白乳色のヴェールの向こう側に、何かが浮かび上がった。
──それはなんと、お祭りの屋台などで売られているような、おもちゃのお面。
謂わゆる「魔法少女」であろうか。ピンク色の髪のキャラクターを象った製品が、唐突に霧の中から──それも何故か二メートル近い高さに──、顔を出したのだ。
少年は、ギョッとした表情で足を止めた。
「あ、あれって──確か、有名なアニメの……」
彼が呟いた時、道の先に佇む何者かは徐に、
「『……ルララ〜マジカル〜、マジカル〜、魔法のパワーで何でも解決〜』」
何やら子供向けアニメのテーマソングらしき物を、口ずさみ始めた。
──刹那、何かがビュンッとしなるような音と共に、巨大な虫の節足が振り下ろされ、深々とアスファルトに突き刺さる。
粉砕される「止まれ」の三文字。
衝撃で破片と砂煙が舞う中、彼は尻餅を突いた。アスファルトの欠片が掠めて行った左頬から、赤い血がネットリと滲み出す。
しかし、そんなことには気付かぬ様子で、少年は悠々と引き抜かれた節足の行方を、呆然と目で追った。
「『ルララ〜愛と正義の〜、魔法ぉ少女〜』」
──やがて朧げに見え始めた彼女のシルエットは、明らかに人間のそれではなかった。何か巨大な虫のような物──蜘蛛であれば頭に当たる部分──から、女の上半身が生えているのだ。
しかも、その人体の部分は、ピンク色を基調としたテラテラの衣装を着ているらしく、いかにも「魔法少女」と言った格好だった。派手なコスプレ衣装の安っぽさと、アラクネの如き姿との不調和が、コラージュ画のような異常さを醸す。
(……な、何、これ……なんでこんな怪物が、霧海の中に⁉︎)
異形の者を見上げるその顔に、明確な恐怖と絶望が広がって行く。冷汗がその輪郭を伝い流れ、カチカチと奥歯が打ち鳴らされた。
「『マジカル〜、マジカル〜、魔法のパワーで〜、ヤリチン共を去勢しちゃうぞっ☆』」
そこで再び、前節足が振り上げられる気配がした。
しかも、今度は二本同時に。
イッパイに見開かれた彼の瞳は、直後、頭上から迫り来る鋭利そうな節足の先を映し出す。
(こ、今度こそ死──て言うか、ヤリチンじゃないし!)
が、最後までそれを見ていられなかったようで、彼はギュッと瞼を閉ざし、顔を背けた。
そして、今まさにそれが少年の体を貫き、二つの風穴を穿つかと思われた、その時。
──ケタタマシイ悲鳴が、霧の海に響き渡った。
と、同時に、何か燃えない物を無理矢理焼くような異臭が、辺りに立ち込める。
目を瞑っていた彼は、長い睫毛に縁取られた瞼を恐る恐る開き、自分が生きているとも死んでいるとも知れない様子で、顔を上げた。
──そして、喫驚の為か、再び目を見開く。
振り上げられた二本の節足には火焔が纏わり付いており、怪物はそれを揉み消そうと必死に足踏みをしていた。笑みを浮かべたお面の向こうから、オゾマシイ苦悶の叫びを上げながら。
これだけでも十分に異常な光景だったのだが、彼はすぐにもう一つ、予想だにしなかったであろう物を目の当たりにする。
いつの間にか彼の前に、ピンク色をした何か大きな物が、背を向けて佇んでいたのだ。
よく見れば、それは耳の長い犬あるいは狐に似た生き物──もとい着ぐるみではないか。
(……あ、あれは──駅前の薬局のキャラクター⁉︎)
唖然とした少年が下から順にその姿を見上げていると、
「……初日から遅刻だなんて、いい度胸──と言いたいところだけど、私もバイトが長引いていたから、大目に見てあげる」
抑揚の乏しい、若い女の声が降って来た。
その言葉を聞いた少年は、何かしらハッとした様子だった。
「も、もしかして……」と彼が言いかけたところで、怪物がヒステリックにガナリ立てる。
「糞! 糞! 糞! 糞ぉぉ! どいつもこいつも私の邪魔しやがってぇぇぇ! あの腐れチンカス野郎の前に、まずはお前をマジカル☆殺してやらぁぁぁ!」
お面の下から唾を飛ばして怒り狂った怪物は、攻撃対象を薬局のマスコットへと転じたらしい。ステッキを握った手をメチャクチャに振り回しながら、左右四本ずつの節足を恐ろしい速さで蠢かせた。
異形の存在が猛突進して来るにもかかわらず、彼女は実に悠然としていた。そして、やけに年季の入ったオイルライターを握った右手を横に伸ばし、着ぐるみの指で器用に蓋を開ける。
「……ソウデスカ。……なら、私は焼き斬ってあげましょう……あなたを蝕む、その『蟲』を」
言い終えると共に、彼女はピンク色の指でホイールを回し、小さな穴の空いた口で火花が爆ぜた。
──直後、オイルライターから猛烈な火柱が噴き上がる。細長く伸びた火焔は先端で対流しながら燃え滾り、まさしく炎の刃を作り出した。
(火が……刀になった……⁉︎)
再三驚愕の表情を浮かべた彼の目の前で、女は炎の剣を振り上げ、振り下ろす。
燃え狂う刃は、怪物の攻撃を真っ向から受け止めた。炎に照らし出された「魔法少女」の半身は、やはり巨大な蜘蛛──奇抜な縞模様を持つ、女郎蜘蛛であった。
暫時鍔迫り合いを演じた末、女は両手で握り締めたライターの火焔で、相手を押し返す。後方に着地した蜘蛛の化け物に、マスコットは作り物の目を向けながら、
「……取り敢えず、どこかに隠れてて。……すぐ終わらせるから」
「え──あ、は、はい!」
少年は、そこでようやく弾かれるように立ち上がった。
一方、「魔法少女」は右手のステッキを逆手に持ち替えており、
「『マジカルぅ! フラぁぁッシュぅぅ!』」
技名と思しき物を叫ぶと共に、癇癪を起こした幼児のように投げ付けてきた。
しかし、マスコットは首を軽く動かして、これを躱す。ステッキは、着ぐるみの頬をわずかに掠めただけに終わった。
──のだが。
「ふがっ⁉︎」と言う妙な声を上げ、少年は前のめりに倒れ込んでしまう。踵を返して逃げようとした矢先、彼の後頭部にステッキが直撃したのだ。
「……あ、シマッタ」この時初めて振り返った彼女は、全く感情の籠っていない口調で呟く。「……どうしよう……死んだ?」
突っ伏したまま微動だにしない少年と、その傍に転がったおもちゃを見下ろしつつ、ピンクの狐は首を傾げた。それだけ見れば、まるで着ぐるみショーの一幕のようだ。
その間にも、怪物はこの機を逃すまいとばかりに、すぐ背後で節足を振り上げる。
「……さすがにそれは、あの姉妹に怒られる」
「死ねぇぇぇぇ!」
怪物は半ば勝利を確信したかのような雄叫びを上げた。
──次の瞬間、強烈な打突が、絶妙に可愛くないマスコットの顔の真ん中を貫いていた。
円だが生気のない双眸の間が破れ、傷口から肉片のように綿が飛び散った。位置が位置なだけに、当然「中身」も無事ではないだろう。
──にもかかわらず。
首から下は、まだ動いていた。
それも、怪物の攻撃に勝るほどの超高速で。
目にも留まらぬ神速さで斬り払われた「魔法少女」の体は、傷口から這い広がる業火に包まれる。その拍子に、節足の先から抜けた着ぐるみの頭部が弧を描きながら、体の目の前へ落ちて来た。
路面に膝を着いた彼女は、それには見向きもせずに、振り抜いた腕を下ろす。悠々と立ち上がったその左手には、いつの間にかシルバーの携帯電話──若者には珍しいガラケー──が、握られていた。
「……マジカル☆フラッシュは、テレビアニメ『マジカル☆ヒミコちゃん』第十一話に登場した、幻の必殺技……。子供が真似しておもちゃを投げると危ないからと言う理由で、それ以降使われなくなった。
……そして、その回の敵役である“アラクネガティヴ”は、恋人に浮気され、裏切られた女性が魔改造されたモノ。──ナルホド、わかりやすい動機デスネ」
携帯電話の画面を見下ろしていた彼女は、そこまで言うと、横目だけを後ろに向けた。
その視線の先で、「魔法少女」はもがき苦しみながら、
「ぐっ、お前ぇ! 何者だ!」
「……私は至って普通の探偵」
言いながら、頭に白いタオルを巻いて髪を収納した女は、ようやく振り返る。
「……あなたを狩る存在です」
悶絶する怪物に向けられた鳶色の瞳は、冷徹たく思えるほど、澄み渡っていた……。
──季節は夏。八月の蝉の音が、イントロダクションのように加速する。




