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彼と私の9年戦争  作者: 仁香
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錦鯉の女とあるペンギンの問答

その「顔」はにたりと嗤って言った。

「あたし、綺麗…?」

「えっ」

何処かで聞いたことのあるフレーズに鶴木は思わず驚愕の声を上げた。

夕暮れ時。

顔の大半を覆う白いマスク。

女が問いかけてくる、「私、綺麗?」

ぱっぱっと頭の中でイメージが生まれては過ぎ去っていく。

あれは確か、口裂け女の決まり文句だ。

でもこの「顔」には「口」が無い。

とすると、答えても口を裂かれる事にはならないのかしら?

口裂け女の問いに「まあまあですね」以外の答えを返せば、確か口を裂かれてしまうのだそうだ。

それ以外ではポマード、ポマード、ポマードと唱えるか、鼈甲飴を投げるかすれば逃げられるという。

しかしこの時代にポマードは通じないだろうし、鼈甲飴の持ち合わせも無い。

そもそも口裂け女って近現代の妖怪じゃなかったっけ?

確かそうよね、歯医者がヤブで口を裂かれてしまったのが無念で妖怪になったのでしょう。

ほら、あのキィンて音を鳴らす治療器具はこの時代には絶対ないわ。

ぐるぐると思考を巡らせては混乱に陥り、鶴木はとち狂った答えを返した。

「え、ええと…肌が白くて綺麗だから、美人なのではないかと…。のっぺらぼう界の基準は、ちょっとわからないけど」

そう答えると、目の前の「顔」は途端ちぇっ、と舌打ちしそうな雰囲気を出した。

「なんだい、透子の奴嘘つきやがって。これであたしみたいなのはイチコロよって言ってたくせしてさ」

得体のしれない空気は呆気なく霧散した。

腸が浮くような感覚も、それと共に一応の落ち着きを見せる。

知らず知らずのうちにたっていた鳥肌をさすって落ち着かせながら、鶴木はそののっぺらぼうに問いかけた。

「あの…さっきの。あたし、綺麗?って。透子さんという方に聞いた文句なの?」

そう聞くとのっぺらぼうはにんまりと笑う気配を見せると両手を広げてみせた。

ぱっ、と夜目に鮮やかな錦鯉が映る。

大層艶やかな着物だ。

着物によく似合う夜の香り漂う口ぶりで女は言う。

「そうさ、透子があたしに言ったんだ。あたしみたいなのにもし会ったら、こう言えば肝潰しておっかながるから試したらいいわ…ってね」

「あたしみたいなのに、もし会ったら…?」

その言いまわしに鶴木は喉に骨が引っかかるような感覚を持った。

その違和感を確かなものにするべく、鶴木は慎重に再度問いを重ねる。

「ねぇ、透子さんというのはどんな方なの?」

「透子かい?あいつぁ迷子さ。厄介な迷子。家に帰れば食い散らかされ、ここにいてもやるせない。けど、それでも帰りたくてたまらない…なのに帰り方もわからない」

あんたもそうだろ?一目でわかったよ。

とのっぺらぼうが蓮っ葉な口調で問いかけてくる。

黒橡の地色に錦鯉の一つ模様が描かれた着物と相まって、目鼻立ちすらさっぱりわからぬ「顔」であるのに、花街に君臨する太夫とはこのような風格かと思わせる。

鶴木はその確かな存在感に怖気付かないよう、背筋をぴんと伸ばしてもう一つ問いかけた。

「透子さんは人間なのですか?」

「そうさ、人間だ。人間にしちゃぁなかなか度胸のある奴だったよ。あたしらみたいなのにおっかながることも無くってね」

「透子さんの出身は何処か聞いたことが?」

目の前の女はますます笑みの気配を濃くした。

睦言めいた艶やかさでもって、「あいつはね、福島の出だよ」と囁く。

福島。

その地名に鶴木は頭を横殴りにされたような衝撃をうけた。

「福島って…東北の、」

絞り出した声は震えていた。

福島という地名。口裂け女の決まり文句。

時代にそぐわぬ「透子」という名前。

もしこの福島が東北の県名だとしたら、透子という人はもしや。

「そうさ、あいつは北の出だよ」

「じゃ、じゃあ…透子さんと私は同郷ということ?私以外にも、時を越えた人が居たっていうこと…?」

「さあね、透子とあんたが同じところから来たのかなんてわからないよ。そもそも、ほんとに時を越えただけかもわからない。けど、まあ。あんたと透子はよく似た業を背負ってるみたいに見えるけどねぇ」

ひっそりとのっぺらぼうが笑う。

鶴木は状況をうまく飲み込めずに狼狽えた。

のっぺらぼうは次々と言葉を突きつけてくる。

「あんた、作次郎のとこん世話んなってるンだろ」

「は、はい…」

「透子もね、そこにいたのさ」

あいつぁイイ男だろ、けど透子んだ。

あんた、惚れんじゃないよ。

ぴしゃりとそう女が釘をさす。

鶴木は狼狽えたそのままに、何度も頷いた。

「も…勿論そのようなことにはなりません、なりませんとも。私…私は、故郷に人を置いてきたんです。だから、あの人に申し訳なくって…とてもじゃないけど、」

のっぺらぼうはあらぁ!と華やいだ声を上げる。

華やかな声が路地裏にぱん、と弾けた。

鶴木は思わずぎょっとする。

「あんた、イイ人がいるのかい!どんな奴だい、作次郎よかイイ奴なんだろうね」

「あ、ええと…」

子犬のような仕草の笑い顔が脳裏にぱっと浮かぶ。

大きな口と、肉付きの薄い頬。

鶴木はすぐさまその記憶をかき消した。

そのかわりに瞳を蕩かせだ熱情の視線を思い浮かべる。

頬をなぞる、あのきらめく爪を。

「私の好い人は、ロシア人で。夫がいるの」

髪は蒸し栗に似た色をして、瞳は榛色。肌は白くて、頬がふくふくとしているりんごほっぺ。

背は私より少し高い。

快活で人懐っこいけど、警戒心は強い。

特に不埒な考えの人間には。

そう訥々と語ると、のっぺらぼうは豆鉄砲をくらったような顔をした。

顔といっても、パーツがないのであくまでそういった雰囲気ではあるが。

「向こうに夫がいるって…あんた、女だろ。でも向こうも女だってのかい?」

鶴木はまたまたぎょっとした。

こちらに来てからというもの、性別を看破されたことなどなかったというのに。

どこだ、どこがおかしかった?

口調がか、それとも仕草か。

鶴木は不安な気持ちをなるべく押し殺して尋ねた。

「どうして…女だと?」

「だって、あんた。あたしらはこんな顔だろ、でもちゃあんとどんな着物着てたって男か女かわかるんだ。そんなら、あんたら人間の顔見て間違える訳ないだろ」

したり顔の口調でのっぺらぼうは言う。

鶴木は不覚にも納得してしまった。

確かに、のっぺらぼうの女が男物の着物を着てたら、人間は勘違いをするだろう。

少なくとも鶴木は間違える自信がある。

体格なんてあてにならない。

少しひょろい男は女と同じような身幅だったりするし、恰幅の良い女は案外男と相違なかったりするものだ。

結局顔立ちや仕草、声に着ているものが判断の基準となったりする。

けれど、同族ならば間違えないこともあるかもしれない。

のっぺらぼうは一つ判断基準がない状態で同族の性別を常に判断しているのだから。

顔のパーツがないのにそれなら、パーツがある種族が相手ならより一層間違えないのかも。

「そんで、あんた。女が好きなの?」

ストレートにのっぺらぼうは聞いてくる。

鶴木はうーんと首を傾げた。

「向こうに恋をしてる訳ではないと思います。だから、女がそういう意味で好きという訳ではないと思う。でも、私が世界に二番目に大切に思っているのは彼女だし、向こうも同じように思ってくれてる。心の奥は彼女に席をあけているの」

それって、恋より凄いことよ。

私はきっと、彼女と同じくらい好きにならないと恋が出来ない。

作次郎さんにはきっと、私は恋をしないから安心して。

そう言うと、のっぺらぼうは首を傾げながらもうん、と頷いた。

「まぁ、透子のもんを取らないってんならいいさ。あんた、もう良い時間だよ。夏虫屋の朝は早いんだから、帰って寝たら」

「あ、はい……良い夜を」

「あんたも」

ふらりとのっぺらぼうは踵を返すとすうっと宵闇に溶けていった。

帯の苔色が最後まで残るも、それすらふいと消える。

鶴木はまじまじとそれを見つめたが、やがてまた歩き出した。

この季節の夜は短い。




ふあ、手で押さえた口からだらしのない空気が漏れる。

少しずつ湿り気を帯びている空気の中、作次郎と鶴木は市場で買い付けをしていた。

「その蛸とむき身、あさりは殻ごとくれ」

「まいどあり!」

「梅ァまだ良いのがねェのか」

「今年ぁまだだよ、六月の頭んなるかもね。粒のいいのが中々揃わないんだよ、紫蘇はもうすっかり出回ってるのにねぇ」

「良いのが出たらうちにまわしてくれや、いつもと同じ量だ」

「あいよ」

「らっきょうは今年ァどんなだ」

「よくぞ聞いてくれました!昨日入ったばっかしのがね、丸々としてて美味いんだよぉ。漬物にしても良いが、塩焼きにして食ってもまたこたえられねぇよ」

昨日買ってった串焼き屋が言ったんだ、間違いねぇよ。

と八百屋の助造が言うので、作次郎はじろじろと示されたらっきょうを検分した。

土付きのらっきょうは丸々と太っていて、ちらちらと見える地肌の白が目に鮮やかだ。

作次郎は一つ頷いた。

「そんなら、これを二貫文分貰おうか」

「まいどあり!他のは良いのかい?」

「そろそろ味噌漬けてェんだよな…大豆のいいのを選って寄こしてくれるか」

「大豆と麹と塩がありゃあいいかい?」

「あァ、こっちァそう急がねェ」

「あいよ、そんじゃあいいのを選っとくよ」

「頼まァ」

魚屋に八百屋、店をどんどん梯子して買い付けていく。

鶴木はこっそりその合間に作次郎に話しかけた。

「漬物はどんなのをいつも漬けてらしてるんですか?沢庵を漬けてるのは知ってるんですけど」

鶴木が世話になり始めてからというもの、夏虫屋の膳にあがる漬物といったらもっぱら沢庵だ。

「この時期にゃあまずらっきょうと梅仕事だな。べったら漬けも毎年やってるが、作ったハナから売り切れやがる。まァ、青首大根で作るのが一番美味いかンな。これからしばらくは作らねェだろ………お前、梅仕事が出来るってったな」

「は、はい。毎年やっています」

おすぎとの会話を聞いていたのかしら?

あの時、随分とタイミングよく割って入ってくれたけど。

こういう仕事をしていると、自然と耳がよくなるのかしら。

そう考えながら彼女はこくこく頷く。

「梅干と、梅酒。後紫蘇の…甘い飲み物は毎年作っていました」

ジュースってこの時代なんて言えば通じるんだろう?

鶴木はちょっと考えたが、まあこれは冷蔵庫がない現状を考えると、作ることもないだろう。

ガラス瓶が手に入って空気抜きをして保存が出来るというなら話は別だが、この時代それはとても高いはずだ。

そうすると酒や塩に漬けていないものの保存は、ちょっと危険である。

なんといってもこれからの季節は梅雨。

梅雨が明けたら今度は夏なのだ。

作ったはいいものの飲む前にカビまみれになりました、なんて冗談じゃない。

作次郎はじろりと鶴木を見下ろした。

「今日はお前、漬物をする日だ。……梅仕事が出来るンなら、らっきょうも漬けれるだろ」

「はい」

どうやら今年のは任せて貰えるらしい。

鶴木は素直に一つ頷いた。


かっこ、かっこ、からりんこん。

市場から夏虫屋へと歩く最中、視界に二八蕎麦の屋台が入ってきた。

あれはきっと昨日入った屋台だ。行灯に張られた障子紙に描かれた梅模様。

あれには覚えがある。

「あっ、あそこ」

鶴木は思わず声を上げる。

作次郎はじろりと鶴木を見下ろした。

「ほら、あの屋台。昨日あそこでお蕎麦を食べたのです。実は、巾着をスられてしまって。親切な方が助けてくださって、巾着は返ってきたのですけれど」

それで、お礼にお蕎麦をご馳走したのです。

それがね、とても美味しかったのです。

麺が挽きぐるみと更科の二種類あって、私は更科を食べたんですけど、あんまり美味しかったから驚きました。

麺が二種類揃っているのもそうだし、屋台のお蕎麦があんなに美味しいなんて。

ね、作次郎さん。作次郎さんはあの屋台に行ったことありますか?

そう珍しく口数多く話しかけると、作次郎は胡乱な目つきで屋台の方を見た。

「…いいや。俺ァ行ったことねェな」

「お蕎麦が嫌いでなければ、一度行かれてみてください。ほんとに美味しいのです」

「………そうか」

少し沈黙が落ちる。ややあってから作次郎はぼつりと言葉を鶴木の頭上に落っことした。

「スリ捕まえてくれたってェのは、どんな奴だ」

その言葉に鶴木は視線を宙に浮かせた。

「千草色の着物を着ていらした年若い男性で、刀を腰に差していました。刀は少し長めだったので、お侍様だと思います。そうお聞きしたら、特に否定はなさいませんでしたので」

「そうか、髷ァどんなだ。顔つきや背丈は」

「髷は…ええと、頭の高いところで一つ結びをなさっていて。背丈は作次郎さんと同じくらいです。顔つきは…」

そこまで言って鶴木は口元に手を添えた。

はて、一体どのようにあの青年の顔つきを表したものか。

「端正な顔つきの方でした。目は切れ長で」

とりあえずそれだけを口にする。

作次郎は視線を前方に戻した。

「そうか」

端的な返事の後、また沈黙。

この沈黙は、不思議と厭なものではなかった。

雑踏の騒めきに二人紛れて、ただ下駄の音を響かせる。

視線が交わることは少なく、肩を並べて歩いている。

その距離感は、氷の世界でペンギンが群れている様に少し似ていた。

鶴木は「透子」について聞かない。

作次郎もまた、語らない。

曖昧な距離のペンギン達は、雑踏の中をからから音を立てて歩いていく。

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