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彼と私の9年戦争  作者: 仁香
10/11

ポマード!ポマード!ポマード!

どん…ぱっ、どん…ぱっ。

空気を震わせる重たい音の後に一瞬だけ視界が仄明るくなる。

かっこ、かっこ、からりんこ。

その合間合間に軽やかな音が足元から響く。

花火に背を向けて歩きながら人の隙間を縫うようにして、あちらこちらにある出店を窺い蕎麦屋を探すがさっぱり見当たらない。

「…蕎麦屋、見当たりませんね。どこか御心当たりなどは…」

「……特にない。見つからぬようなので、礼は良い。俺はもう帰ることにする」

さて困った。

青年はこう言っているが、鶴木個人の考えとしては礼は是非ともしたいのだ。

何故って、他人に借りを残しておくのは非常に恐ろしいことだからだ。

残念なことに、世の中に「見返りを求めない親切」を行使出来る人はそういないものだし…仮にこの青年がその「稀な人」だったとしても、周囲もそうだとは限らない。

つまり、青年が「礼はいらん」と言ったとしても、周りのお節介がやんややんやとケチをつけてくる可能性だってあるのだ。

礼をあの時しなかったんだから、これをしろあれをしろ!などと言われては作次郎にも迷惑がかかることだろう。

ほら、借金の保証人とか詐欺とかこちらでもあるだろうし。

何なら宗教勧誘なんかもあるかもしれない。

自分一人で生活していかれているなら一人で勝手に用心していればよいのだが、作次郎に世話になっている現状を考えるとやはり礼をしておいた方がいい気がした。

形として一度礼をしておけば、後から何かがあっても礼なら既にしただろうと言えるというもの。

あそこの店の人間が助けてもらったのに礼の一つもしなかったんだってよ…などと風聞が立つのも避けられる。

なんて素晴らしい一石二鳥。

やっぱりこういったことはしっかりせねばなるまい。

と、鶴木の頭にぽんと一つの記憶が浮かび上がってきた。

行きがけに見た、行燈の灯の消えた二八蕎麦。

「あっ、そういえばありました。蕎麦屋の屋台、あちらの方で見ました」

行きましょう、と鶴木は青年を見上げる。

青年は眉を寄せて黙りこくった。

よほど、礼をされるのが嫌な様子だ。

しかしまあ、こちらの心の平穏のためにも一つ礼をされてくれなければなるまい。

鶴木はその青年の表情に気づかぬ素振りを決め込んで道を先導した。


しばらく無言で道を歩くと、前方に鶴木が行きに見かけた二八蕎麦の屋台が見えた。

ぼて振りではなく、立ち売り形式の所謂「仮設店舗」「移動しない屋台」という奴だ。

ちなみにぼて振りとは、天秤棒の両端に笊や籠、木桶などをぶら下げたのを人間が肩に担いで行うこの時代特有の「移動式屋台」である。

「よかった、ありましたよ!」

「…いや、俺には見えんが」

「こう暗くては仕方ありませんよ、近くに行けば見えるのでは?」

青年の言葉に内心不思議に思ったが、ここまで歩けば周りに屋台も出店もそうそう無く、光源がほとんどない。

そのため夜目が利かないのだろうとそう言葉を返すも、青年は怪訝そうに眼を眇めている。

「ほら、あそこです。行燈の灯は消えていますけれど、屋台がここにあるという事は店主が近くにいるのでしょう」

そう言って屋台を指さすと、青年はその指先を視線で辿り…そこではたとそこにある存在に気が付いたようだった。

「…確かにあるが、よく気が付いたな」

「行きに見かけたのです。まだ今よりも明るい時間でしたから、きっとそれで気が付いたのでしょう」

「そうか…」

「こんばんは、誰かいらっしゃいませんか?」

そう話しているうちに屋台のすぐ目の前まで辿り着く。

鶴木はそう声をかけながら暖簾を手で持ち上げてくぐった。

「あい、あい…なんだい。客かい…今日ァ川開きだってェから休みだよぅ」

どうせみんな向こうに出払っちまうと思ったのによぅ、と屋台の下の方から声がする。

ひょいと覗き込むと、なんと作業スペースのところの地面に作務衣を着た男が一人寝転がっていた。

まあご丁寧に茣蓙を敷いて、寝冷え防止のためか腹に何か布までかけている。

頭に白い手拭いを巻いたその狸顔の男は、ううんと背伸びをするとぼりぼりと腹を掻いた。

「こいつァ驚いた。お客人じゃあないですかい」

と、青年を見て男は言う。

「何ぞ、食べにいらしたんで?」

素っ頓狂なことを聞く男に、青年は呆れたような目つきで「ここは蕎麦の屋台だと思ったが違うのか」と問う。

すると男は相好を崩すように笑って「勿論ここァ蕎麦屋でさァ」と言って立ち上がった。

「さて、さて、さて……」

男はひょいと屋台の行燈に灯を燈す。その手つきは実に不思議なもので、火打石の音は聞こえなかったように思った。

しかしこちらにライターなんかはないのだし、マッチもどうかな。少なくとも屋台の主が気軽に使えるものとは思えない。

だから、きっと聞き落したのだろう。

鶴木は不思議なものを見るような気持ちで行燈を見つめたが、店主の「それで、お客人。何作りやしょう」という声で視線を前に向けた。

「あ、ええと…何があるんですか?」

「そうですねェ、かけ蕎麦におろし蕎麦。ぶっかけ蕎麦に、とろろ蕎麦、きつねと若芽もございやす。」

「じゃあ、私とろろ蕎麦…そちらは?」

「…では、おろし蕎麦を」

「とろろとおろしですね、かしこまり!蕎麦は挽きぐるみと更科、どちらになさいます」

「二種類用意してあるのか?」

青年が思わずそう聞き返す。鶴木も目を見張った。

男はへへへと笑いながら鼻の下をこする。

「いやァ、うちに来る客はみんなああだこうだとうるせェもんで。麺も挽きぐるみだの更科だの、山芋混ぜた田舎蕎麦だのとごちゃごちゃ言いやがるんで揃えることにしてンでさ」

「そうか…店主、俺は挽きぐるみだ」

「私は更科でお願いします」

「あいよ、おろしは挽きぐるみ、とろろは更科で」

男はそう愛想よく頷くと、まず鍋に湯を沸かし始めた。

店主が動いているのを何となしに見つめながら、二人は黙りこくった。

先ほどからちっとも会話の糸口がつかめないのだ。

鶴木は元来人と積極的に交流を図るタチではなかったし、それはこの青年も同じようだった。

ちろり、鶴木は横目で青年をこっそり盗み見る。

身長、およそ百七十センチ代。体重…何キロだろうか。この時代にしては大柄でしっかりした体格に見える。

では現代はというと、作次郎やこの青年位の体格はきっと探せばいることだろう。

ただ、残念なことに男性と「貴方体重何キロ?」なんて話はしたことがないのでやっぱりそこは判然としない。

何はともあれ、背筋のぴんと伸ばされた姿勢の良い男だった。

顔立ちはというと、眉の形がすっきりとしていて瞳は切れ長の奥二重。

鼻筋が通っていて口元もきりりとしている。

顎先から伸びた喉元のでっぱりは性をよく感じさせ、しかしながらそれが威圧的に感じられることも色気が垣間見えることもない。

実に清潔感のある青年だった。

その凛とした風情に千草色の着物がよく似合っている。

着物の肘や膝のあたりに皺がついていることもなく、丁寧に伸ばされていて着付けも襟元が崩れることなくかっちりとなされていた。

これは良いところの出できっちり躾けられているか、もしくは神経質なタチか。

内心そう検討をつけると、鶴木はそっと青年に話しかけた。

「あの…まだ失礼なことにお名前も伺っておりませんでした」

青年はその言葉に表情の色の見えない視線を彼女に寄越す。

それも一瞬のことで、すぐに店主の仕事ぶりに目線を戻すと言葉少なに「俺は山口という」と返してくる。

「山口さんと仰るのですね。先ほどは、本当にありがとうございました」

「いや、大したことはしておらぬ故」

そこで一旦会話が途切れ、ふつふつと湯が沸く音と大根をすりおろす音だけが場に満ちる。

少しその音に耳を傾けていると、山口という名の青年は「あんたは…鶴木と言ったか」と問いかけてくる。

「はい、」とそれに言葉を返すとまたもやそこで会話が途切れた。

どうしよう、会話が続かない。ていうか、会話ってどうやって繋げばいいんだっけ?

作次郎とはあまり余計な会話をしないし、作次郎以外にこちらで会話らしい会話をしたのはおすぎくらいなものだ。

向こうでは、会話のネタなら沢山あった。それこそ競技の話、シーズン休みに行ったバカンスの話、テレビや映画、音楽の話…そんな会話をすれば時間が経つのはあっという間。

しかしながら、こちらではそういった話題は勿論出来ない。

二人の間に共通の知人もいなければ、そもそも鶴木はこちらの事情に疎いため、うかつな事を言っては怪しまれないかとどうしても話題を切り出すのに慎重になってしまう。

困り果てて店主の手元を見つめていると、山口はぽつりと爆弾発言をした。

「頬の傷は治ったようだな」

どきり。心臓が嫌な跳ね方をする。

鶴木は煩く鳴る鼓動を精神でもって押さえつけ、極めて平然とした口調で聞き返した。

「頬の傷ですか?」

山口は視線をこちらに寄越すこともなく淡々と述べる。

「五月の頭だ。あんたは洋装をしていた」

往来に立ち尽くしていて、俺とぶつかっただろう。その後路地に走り去った。

その言葉に鶴木は思わず青年の腰を見た。

彼女は常に山口の右側にいた為気がつくのが遅れたが、左腰に日本刀がひっそりと差されている。それなりに長さがあるので、町人が差すような脇差ではなさそうだ。

日本刀、頭上で一つに纏められた長い髪。背中に感じた自分以外のぬくもり。

様々な情報が確かな既視感をもってして頭の中にちかちか瞬く。もしや。

「あの時の…お侍様でしたか」

重ね重ね失礼を、と鶴木は居心地の悪い心持で呟いた。

鼻先には出汁のいい香りが漂っている。

本当なら腹の虫をなだめながらときめきと共に食事を待ちわびるはずなのに、まるで砂を噛んだような気持ちだった。

「あんた、何故洋装をしていたのだ?この時勢故町を異人が歩かぬこともないが、この国の人間が洋装をしているのは珍しい」

ずぱん、まるで黒羽織の男を投げ飛ばした時のような電光石火っぷりで山口が尋ねてくる。

特段、詰問するような口調ではない。

どこか淡々としていて、それでいて無味乾燥な興味の薄さは窺えない。

不思議な口調の質問だった。

興味は確かに持っているのだろうが、下世話な調子でもなければ世相に合った「攘夷論」をぶってきそうな感じでもない。

この問いはどんな意図の上になりたっているのかすら図りかねて鶴木は絶句した。

「どうした、答えられぬのか」

山口は冷やりとした視線でもって鶴木を突き刺してくる。

何か言わなくては…ええい、ままよ。鶴木は一つ博打をうつことに決めた。

「ええと…私、実は海外生活が長くて」

久しぶりに、訳あってこちらに戻ってきたのです。

そう、踊りをしていて…向こうの様式の。それで、そのために向こうにいたのですけれど。

すると、勿論生活様式もあちらのそれに倣わなくてはなりません。なので私は、洋装をしていたのです。

あちらから戻ってきたばかりでしたから…着物の用意がなくて。

そう曖昧に笑ってやり過ごそうとするも、山口は納得しない様子だった。

「洋行するには藩の許しなど、様々な手続きが必要なはずだが…」

「わ、私ちょっと良いところの出なので…」

「確かに話し口からするとそのようにも思われるが……藩はどこだ?」

「こ、こことは遠くです。わりと…遠くの方」

「何故濁すのだ。もしや後ろ暗いところでもあるのか」

「い、一応今は身の上を隠しているので!藩が知れるとそこから身元が割れるかもしれませんから」

「身の上を…?」

山口は怪訝そうな顔をした。しかしややあってから一つ頷き、「其れ故夏虫屋という所で働いているのか」

異国暮らしが長かったのならば、語学に不自由はしないだろう。

通詞になる道もあったのにそうしなかったとは、それ相応の理由があるという事か。

と何やら一転納得した様子を見せる。

どうして戻ってきたのか、何故身の上を隠す事になったのか。

肝心なところを一切話さなかったのに、一体どんな理由を想像して納得したのかは気になったが…藪をつついて蛇を出してはまずい。

鶴木は実に日本人らしい笑みを浮かべてその場をやり過ごすことにした。

「よう、やっとるかポン吉。小豆持ってきたぞ小豆。わしゃ小豆飯が食いてぇ」

唐突に後ろから一人の老人が暖簾をくぐってくる。

小脇には木桶を抱えて、その中には小豆がざらざらと入っている。

「……!」

老人は鶴木の右横に居住地を定めた様子で、自然と彼女は左横の山口に寄る形になる。

「なんだぃ、おじじも来たのかい」

「なんでぇ、来ちゃ悪いのかよう」

「だってよぅ、今日ァ川開きじゃねェかい。てっきりあっしァみんなそっちン行くもんかとばかりよぅ」

「ばっかでぇ、おめえ。仕事までにまだ時間があるじゃねぇか」

「そう言ったって、祭ン時ァまぎれこんでたりもするじゃねェかい」

「そらァそうだが、わしみてぇなのはやっぱり音を肴に小豆飯食らうのが一番さね」

ほれ、他のも来たようだ。

老人がそう言うと、とてちてとてちてと軽い足音が近づいてくる。

ちゃぷちゃぷと小さな水音もするのは、これは一体なんだ?

鶴木と山口はちらりと後ろの暖簾の向こう側に視線をやった。

「あれま、こんな時間に豆腐配達かい」

珍しいこともあるもんだよぅ、店主が呑気な声をあげる。

ややあって足音が屋台の前でぴたりと止まる。

その足音の持ち主はぴょこりと暖簾を潜ってきた。

「こんな時間に…童か」

山口が少し驚いた風に呟く。

その子供は鶴木の胸元までの背丈で、にこにことした笑顔でぐいぐいと木桶を差し出してくる。

思わず鶴木はその桶を受け取った。

ちゃぷり、音がする。

木桶の中には水と、豆腐。一丁が随分と大きい。大きさの分だけずしりと腕に重みがかかった。

「ああ、その豆腐ァこっちに寄越してもらっていいですかい」

ほら、と店主がわざわざ屋台の表に回ってきて手を差し伸べる。

カウンター越しに受け渡しをしようにも、作業場と客席との間には火にかけられた鍋があって、湯気がすでにたっているのだ。

確かにこれはこうして渡した方がよさそうだ。湯気の火傷は恐ろしい。

「はい、どうぞ」

「どうもどうも。お前もご苦労だったじゃねェか白助」

片手で桶を抱えて店主はぐりぐりと子供の頭を撫でる。

子供は何も言わないが、ただ頬を押さえて嬉し気な顔をした。

そしてぴゃっと暖簾をくぐって走り去ってしまう。

「どうです、お客人。旨い豆腐が届きましたんで、酒でも一献」

店主はへらりと笑ってそう言った。


刻まれた小口ネギが乗せられた少し黄色い冷奴。

漂白技術なんかない時代のこと、この僅かな黄色みはおそらく大豆の色だろう。

たらりと醤油をかけて箸で切り分け口に運ぶ。

ぱくり、口の中に濃厚な味が広がる。

豆腐の味が濃い!まるで、自家製の豆乳を口にした時のような感覚に鶴木は目元を緩めた。

豆腐っていいな、カロリーを気にしなくって食べれるんだもの。

こんなに美味しくってローカロリー。もはやカロリーは美味いなんて言ってる場合じゃない。

そうしみじみと考える鶴木を余所に、山口は冷奴をアテにして濁り酒を呑んでいる。

「あんたは呑まぬのか」

「私、お酒は苦手で…」

「そうか」

実際のところカクテルや梅酒等の甘いものなら呑めるのだが、こちらではそうそう手に入るものではないだろうから無難にそう言っておく。

また沈黙が落ちた。

「へい、お待ち。おろし蕎麦ととろろ蕎麦だよぅ」

どん、どん。目の前に置かれた熱々の丼。

その中身はそれぞれに質感の違う白で覆われている。

「わ、美味しそう」

「へへ、味も中々のもんでさァ」

そう言って店主が箸を二揃い差し出してくるので、二人は礼を言って箸を受け取り蕎麦に箸を差し入れた。

「おいポン吉、わしの小豆飯ぁまだかい」

「あい、あい…飯炊くにァ時間がかかるんでさ。年寄りは気が短くっていけねぇよぅ」

その会話を尻目に、二人は丼の中に箸を入れた。

ずっ、ずずっ。山口がおろし蕎麦をすする音が屋台に響く。

鶴木は黙々と箸で蕎麦をたぐり、口の中に収める作業に専心した。

口の中に更科の少しあっさりとした麺の風味と、とろろの少し土臭い風味が広がる。

出汁は鰹と昆布の合わせだ。

更科の風味に合うよう、少し塩気は控えめ。その代わりに出汁がよく利いている。

彼女は丼を持ち上げて一口汁をすすった。

出汁ととろろが口の中に混ざって広がる。

ごくりと飲み込み、ほうと息をついた。

「美味しい…久しぶりに食べたお蕎麦がこれでよかった」

「そいつァ嬉しいこって!さあさ、正直者のお客にゃちょいとおまけしますよぅ」

店主がひょいと鶴木の蕎麦の上に菜箸でお揚げをのせてくる。

彼女は思わず微笑んだ。

「いいんですか?私お揚げも大好き。ありがとうございます」

「キツネ野郎は美味しくいただくに限りまさァな」

すまして店主がそう言うので、彼女は遠慮なしにお揚げに歯をたてた。

ぶつり、キツネ色のお揚げが白い歯で食いちぎられ断面を見せる。

甘く煮つけられたそのお揚げは大層美味しく、鶴木の腹をくちくさせるのに大いに役立った。

「ところで店主、この屋台はいつもここにあるのか?」

山口の問いに店主は頬をぺちりと押さえた。

「あい、どこにだってありますよぅ。いつだってどこにでもありやす」

「ならばまた来よう。………この蕎麦は美味い、豆腐もだ」

「あれま、お客人。うまいこと言いなすって!そいじゃ、こっちのお客人にゃお銚子一本つけときやす」

「かたじけない」


「それじゃ、ここで失礼します」

「ああ……今度は夜盗に襲われぬよう用心すると良い」

「はい…気をつけます」

会計を鶴木が済ますと、二人はそこでそれぞれの帰路についた。

かっこ、かっこ、からりんこん。

夜も遅いので少し控えめに下駄の音が足元から響く。

鶴木は少し軽くなった懐と、それに見合わぬほどの充足感を得て夜道を歩いた。

顔は少し上向き加減で、今にも鼻歌を歌いたいような気分だ。

久しぶりに仕事以外の人と話した日だった。

その意識が元々希薄だった危機的意識を鈍くした。

彼女はふらりと路地に入る。

少し、ショートカットして行こう。もう遅い時間だ。

木戸はこの時期もうあまり役割を果たしていないため、時間が遅くなったから町に入れないなどといった事態にはならないが。

明日も朝が早いのだ。だから早く帰ってさっさと寝よう。

その時、目の前にぼうっと白い顔が浮かび上がった。

いや、「顔」と言うのは全く筋違いなようにも思われる。

「……っ!」

鶴木は思わず上げそうになった悲鳴を唇を両手で押さえつけることによって噛み殺した。

その「顔」らしきものにはあるべきパーツが一切合切欠けていた。

つるりとした美しい白肌。

そこに欠落した目、鼻、口、眉……あらゆる常識的な「部品」

その「顔」はにたりと嗤う気配を漂わせ。

どこにも見当たらない唇でこう言った。

「あたし、綺麗……?」

「えっ」

ひゅるり、路地裏に一陣の風が吹き抜けた。


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