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彼と私の9年戦争  作者: 仁香
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何が駒鳥殺したの

最期の一音は美しかった。

オーケストラの全ての楽器が一糸乱れることなくその一音を終えるまさにその直前。

彼女はY字スピンを終えると審査員に背を向け、曲の終わりと寸分の狂いなく右手を横にさし伸ばし演技を終えた。

リンクには彼女ただ一人きりだ。

しかしながらそこに…彼女の手が差し伸ばされた先に、誰もが幸運な踊り相手の幻影を見た。

それほど巧みなタンゴであった。

一瞬の間の後、割れるような歓声が場内に鳴り響く。

それを聞いて彼女は正面へと向き直り、片膝を曲げカーティシーの礼をとる。

後ろを向いてもう一度。右横へ一度、そして最後にもう一方の観客席へ。

そしてようやくあられのように降り注ぐ花やぬいぐるみをよけながら、一つ、二つばかり拾いリンクを後にした。


キスアンドクライへ向かう、途中の通路にさしかかる時。

一人の青年の声が彼女の耳に届いた。

はっとした表情で頭上の観客席を振り仰ぐと、落下防止の緑の網で出来た柵の上から白い花冠が彼女の頭にふわりと落ちてきた。

彼女はまるで少女めいた驚嘆の色を目元に刷くと、左手を恐る恐るその花冠が頭から落ちないように添える。

テレビ局のカメラが観客席を追うが、そこにはもうそれらしき人物はいない。

いや、正確には誰だかわからない。

彼女はどこか困惑した気配がうかがえる微笑みを頬に浮かべ、今度こそ背筋を伸ばしてキスアンドクライへと向かった。


「ねぇ、今からクロエの部屋でカードゲームしましょうよ。皆来るでしょ?」

「それなら私、ダンのところに行って声かけてくるわ。ニーナとスノウはどうする?」

「んー、私とりあえずメイクとネイル落としてからにするわ」

「私もメイク落としてから行くことにする」

「そう?じゃあ先に行ってるわね」

「お先してるわ、じゃ、また後でね!」

早く来ないと酷いわよ、とくすくす笑いながら二人が部屋から軽やかな足取りで出ていく。

それを見送ると、部屋に残った二人は顔を見合わせて照れたように微笑んだ。

「ね、スノウ」

「なぁに?ニーナ」

「あの花冠。そろそろ誰からもらってるのか教えてくれたっていいんじゃない?」

その言葉に彼女はうつむいて両頬に手を添えた。

「その反応!ますます気になるったら。ねぇ、その人って貴女。もしかするともしかするんじゃない?」

「ね、まずメイク落とさない?」

伏し目がちにはにかんで彼女は提案した。

それもそうね、とニーナは肩をすくめて荷物からクレンジングとコットンを取り出す。

その拭取り型クレンジングは実に優秀なのだ。

なんてったて舞台メイクもするりのぽん、なのだから。

ほら、貴女の分よ。と渡されたクレンジング付きのコットンに礼を言うと、それをスノウと呼ばれた彼女はまず瞼に当てる。

その左手の小指には銀色をした指輪が煌いている。

5秒当てて、すっとまつ毛に沿って動かすと、アイシャドウとマスカラがごっそりとコットンに付着した。

そのまま同じ面を反対の瞼に当てる。また、5秒。

「もし…もしもの話よ」

同じようにコットンを瞼に当てながら、ニーナが言う。

「もしも、あの花冠の人が貴女の素敵な人だったらね。私、きっととっても焼きもち妬くわ」

貴女がセリョージャに焼きもち妬いたみたいにね。という冗談めかした調子の言葉に、スノウは少し眉を下げながらそこに一つ折りたたんだコットンを当てる。

横にぐいっと引くと、茶色いアイブロウがコットンに付いた。

次は反対側だ。

「でもね、沢山焼きもち妬いたら、きっと仲良くなれるわ。だって同じ人を好きになったんですもの。だから、きっと上手くやれるわ」

本当よ。

その声音はとても静かで、芯が通っていた。

スノウは頬に当てかけていたコットンを膝の上におろし、少し唇をためらわせるとわずかに口端を上げる。

「あのね、実は…どうということはあるの」

実に婉曲的で要領を得ない、日本人めいた言い回しだった。

「でもね、どうということはあるんだけど…つまり、今はまだ違うことにしなくちゃいけなくて」

貴女にも、知らないってことにしていてほしい。

そういうと、ニーナは目の前の眉根を寄せて困ったように微笑む彼女に視線をやり、甘く視線を蕩かした。

「ねぇ、私の貴女。それってつまり、貴女の秘密を最初に教えてもらう権利は私にあるってことよね?」

そうでしょ?と魚の鱗のようにきらめく爪先が頬の輪郭をなぞる。

薬指と小指の付け根に輝く銀と相まって、それは一種倒錯的な光景に見えた。

スノウはその指の感触に淡く息を漏らすと勿論そうよ、と囁く。

とたん、きゅっと頬をつままれ破顔した。

ニーナは頬を駄々をこねる子供のそれをつまむように優しく指先で挟み、顔を寄せてこつり、と額を合わせて笑う。

「貴女、これでしょうもない男なら承知しないわよ」

「しょうもなくなんてないわ、きっと貴女も好きになっちゃうんだから」

でもそうなったら私、むくれるわ。沢山焼きもち妬くんだからね!とスノウが頬をつねられているからかやや不明瞭な声で言い募ると、ニーナはますます笑顔になってそのまま両手をうなじに回し抱き寄せる。

密やかな藤の香りに彼女は満足気に目を伏せた。

対して、耳裏から漂う黒いちごの香りにスノウは目を潤ませ、ニーナの背に手を回した。

黒いちごとムスク、ほんの少しの柑橘。バニラ。

その香りに鼻先が震え、唇を噛む。

その時だった。

突然おぼえた総毛だつ感覚に背筋を凍らせると、スノウは腕の中の柔らかな肢体を引き離す。

怪訝そうなニーナを尻目にドアの方へ視線を走らせると、逡巡の後折りたたまれてすっかり色の変わったコットンをやおら顔全体に走らせた。

コットンが肌色と桃色にすっかり染まる。

ニーナはそれを怪訝そうな表情で見つめた。

「どうしたの、スノウ」

「今から私はとても変なことを言うけど、真剣に聞いてほしいの」

強張った声音でそういうと、スノウはベッド横のサイドテーブルの上から白い花冠を手に取り、ニーナに渡した。

「これを持って、隠れてほしい。場所はユニットバスでいいわ。それで、今から誰かが部屋に入ってくると思う。絶対に声を出さないようにしてね、絶対よ」

「どうしたの?ねぇ…何を言ってるのか、私」

スノウはベッド横に置いてあった自分のキャリーケースに近寄ると、ポーチの中から銀色の眉切り鋏を取り出した。

一つにくくってある黒髪の一房を切り落とすとそれをくるりと結び、戸惑いを露わにしているニーナに花冠と共に無理に握らせ、手を引いてシャワー室に入れる。

そしてそこに彼女一人を残したままドアを閉めようとして、一瞬ためらい彼女の顔を見つめた。

「貴女は?ねぇ、隠れるなら一緒でいいじゃない、貴女はどうするの?」

「私は…クローゼットに隠れるわ。ほら、大丈夫よ。ちょっと、ドッキリするだけ。すぐに二人とも見つかったらつまらないじゃない」

だから、ね。

そう言ったスノウの顔は、本当に何でもないようだった。

口元にはやや曖昧な笑みが浮かんでおり、視線は静かなものだ。

そのどこかぎこちなさを覚える表情は、二人が出会ったばかりの頃を思い起こさせる。

ニーナは何か言おうとしたが、そのまま口を噤んだ。

それに今度こそ力が抜けたような笑みをちらりと浮かべ、スノウはシャワー室のドアを閉める。

そしてそのドアに外側から指で流れるように滑らかに文様を綴った。

唇の中で何かを口早に呟くとそのままドアに額を当て、縋りつくように指先に力を籠める。

その時間は二秒もなかった。

ドアから後ずさるようにして離れると、部屋のドアに鍵が刺さる音がした。

一歩、二歩更に後ずさる。

ガチャリ、金属のこすれる音と共に銀のドアノブが回される。

スノウはそれを乾いた唇をかみしめてただ見つめていた。



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