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-Bitter sweet salty sweet- New act  作者: サトシアキラ
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act.7

 凪ちゃんはとあるドアの前で歩みを止めた。見れば、ドアには『NAGI』という分りやすい彫刻が施された木製の札が、金具から垂らされたシルバーのチェーンで吊り下げられている。自分の家なんだから誰も凪ちゃんの部屋である事なんぞ疑いはしないけど、こうして形にすることで、自らが部屋の主だということを自分に再認識させているのかも知れない。そういえば、最近まで央と凪ちゃんは同室だと言っていた気がする。凪ちゃんが中学校に上がるのに合わせて、年頃だからと山城の両親がプライベートな空間を与えてくれたのではないだろうか。山城姉妹が同室だったことについては、妹の体調が急変した際、だれかが側に付いていた方が良かろうという意図もあったと知ったのは、割と後のことだったかな。

「あ!あの……ちょっと、ちょっとだけ待っててくださいませんかお兄ちゃん」

 凪ちゃんは唐突に何かを思い出したように、自室のドアノブを捻ろうとしたところで慌てて後に続いて入室しようとする俺を押し止めた。

「べ、別にいいけど」

「ほんのちょっと、だけですから……」

 申し訳なさそうに一言だけ口にすると、部屋の中へ。ドアが音を立てて閉じ、ネームプレートが所在なさげにぶらぶら揺れる。山城家の廊下に一人残された俺は、凪ちゃんの慌てっぷりの原因を想像してみる。

 ……部屋の中が散らかってているのを忘れたまま俺を招き入れようとし、あらゆるものを押し入れに閉じ込めるために猶予を請うた……

 と言うセンはありえないか、やっぱり。仮にも年頃の女の子である凪ちゃんと、部屋が散らかっているイメージに結びつかない。それでも最近は片付けられない女性も相当数存在するとは聞いているが。

「たいへん長らくお待たせしました、どうぞ」

 手持ち無沙汰ぶりに、しばらく廊下の板材の枚数を確認する作業に没頭していたが、殊勝な口調とともに、凪ちゃんが部屋のドアから顔を出した。

「お邪魔しま~す」

 緊張しているのか挙動がぎこちない凪ちゃんを尻目に、こちらも一応は緊張しているがその素振りは極力見せず、招かれるまま中へ足を踏み入れる。なぜ平静を装ったかと言えば、一応の年長者として落ち着きを見せなければ……という至極つまらない理由だったりする。

 さて部屋の中はというと……凪ちゃんの普段の雰囲気から想像して、いかにも女の子らしい装いかと思ったら……意外とそうでもなかった。確かにサイドボ-ド上の可愛らしいぬいぐるみや姿見、壁紙などは目に付くが、色調がピンクで統一されていたり装飾がフリルだらけだったりということはない。もっとも、女の子の部屋がそうだろうという俺の勝手な願望というか決めつけに過ぎないのではあるけど。

 促されるままに、部屋の中央に据えられたガラステーブルの前に座る。十年近く前に、央の部屋だけでなくこの凪ちゃんの部屋にも入ったことはあるかも知れないが、その際の記憶は一切ない。凪ちゃんが山城家に居るときは常に床に伏せっている状態だったから、部屋に足を踏み入れる機会が稀だった所為かも知れない。

「……それで、どの教科を観て欲しいのかな?」

 俺の対面に凪ちゃんが無言で腰を下ろす。いわゆる女の子座りではなく、横座りだ。まだ教科書も広げていない上にガラステーブルなので、対面からはミニのスカートから零れた二の足がガラス越しに露わになって、ちょっとこう……なんだかおかしな気分になってしまう。……って、何を言っているんだ俺は。彼女は年下で、俺の妹も同然の存在なんだぞ。

 しかし、自分より二歳下だし、病弱もあって背丈は低めだし、肉付きは薄い方だろうとばかり思っていた凪ちゃんの脚に、肉感と共に確かな艶めかしさが湛えられ始めているのに一端気がついてしまったら、もう意識せずには居られない。成長というものは、男女の差というものを否応なく再認識させられるんだなあと思わざるを得なかった。しかもその対象が今まで可愛い妹分としか思っていなかった存在だから、背徳的な意識と、性差を感じてしまった自分への後悔とも合わさって、何が何だか分らなくなってきた。凪ちゃんが特に何も喋らず下を向いたまま、チラチラこちらを見やるだけなのも混乱に拍車を掛ける。

 なんとなく気まずいまま、二人の会話が途切れたまま、時計の長針が数字一つ分進んだころになって、ようやく凪ちゃんが行動を起こした。ただし会話ではなく腰を上げたのではあるが。

「あの、お茶淹れてきますね。今まで気がつかなくてごめんなさい、お兄ちゃん」

 さっきまでエスポワールで茶を飲んでたから、お構いなく……と言うより早く、凪ちゃんは逃げるようにするすると部屋を出て行った。後に残されたのは、呆気に取られた間抜け顔の男一人。いったい女の子の部屋で一人、どうやってしばらく時を過ごせというのだろうか。

 結論から先に言うと、部屋の中をきょろきょろするしかない。例えそれが不作法だとか無遠慮だとか罵られても……本棚を見ると、一応マンガの単行本は入っているけど、ご多分に漏れず少女漫画と思しきものばかりで、俺の興味をそそるものはない。かといって他には……ベッドを見て、そこで凪ちゃんがどのように普段眠っているのか、とか、この勉強机でどんな風に教科書や参考書を開いているのか、とか想像して……止めた。

 まだ凪ちゃんは戻ってきそうにないので、立ち上がってシミ一つない真っ白なカーテンや、所在なげにタンスの上に居る某ネズミや某アヒル等のぬいぐるみに目を移していくと……その奥に、人目を避けるようにして伏せられた写真立てを見つけた。本来写真立ては、言うまでもなく誰かの目に触れるように置かれるものだ。それが伏せられているとなると……普段は目にしたくないが捨てられない写真?それとも……俺にだけ見られたくない写真?

 手持ち無沙汰も後押ししてか、写真立ての中身を確認したい衝動に駆られるが、ここはぐっとぐーーーっと、自らの意思を鋼と信じ、また見られたくないであろう写真を覗き見るのは、失礼且つ自らにも敗れる行為だと言い聞かせ、どうにかこうにか踏みとどまることが出来た。

 しかしやはり一度気になってしまうと、とことん気になってしまうところで……その後も散々俺の中の悪魔がささやきかけるが、ようやくといったところでこの部屋の主がお茶と菓子を満載したトレイを手に帰還してくれた。本当に疚しい気持ちに心を売らずに良かった。何というか、凪ちゃんに対して、良いお兄さんを演じていようという義務感のようなものが生じている。俺には山城姉妹や藤乃という姉弟同然に育った仲の人間は居れど、本当の意味で血を分けた兄弟は居ない。それだけに兄貴分を演じることに対して、やや過剰なくらいに『らしく』振る舞おうという気があると自己分析してみる。それが凪ちゃんにどう思われているかは定かではないが……ウソくさいとかウザイとか思われてたら、お兄ちゃんはもう立ち直れない。

 さてお茶……もといコーヒーを慣れた手つきで淹れてくれる凪ちゃん。ここらへんは流石に喫茶店の娘というところか。お茶の用意をしてくるだけにしては時間が掛かった理由は、湯を沸かしたり下の店から道具とカップ類を持ってきりしたためらしい。確かに普段店で見慣れているカップとソーサーだ。道具類は、店ではそれっぽくサイフォンで淹れているが、あれは手入れに手間が掛かるから家で楽しむにはやや敷居が高い。いま凪ちゃんが用意しているのは、所謂カリタ式というドリップ方式の一種で、手軽且つ湯量の調節をし易く、腕次第で様々な表情を見せる、奥深い味わいのコーヒーになるらしい……とは央からの受け売りである。

 やがて部屋の中に芳醇な香りが満ちる。コーヒーの香りにはリラックス効果等があるらしいが、そう言われたからというプラセボ効果を否定できないにせよ、確かに心が落ち着いてゆく気がする。下階の店舗よりも狭い空間だからか、いつもより余計に香りが濃密な気がした。そういえば、央からも凪ちゃんからもいかにも人工的な……香水だったりデオドラントだったり……の匂いがしない。大体に於いて、豆は臭いを敏感に取り込んでしまうもの。コーヒー豆の近くにニンニクでも置いておこうものなら、短時間で台無しになってしまうところだろう。喫茶店の娘たる年頃の二人が香水の類いに気を遣っているというのは、家業を大事に思っている証拠ではないだろうか。

「どうぞ」

 コーヒーを淹れている間に凪ちゃんも大分落ち着いたらしく、丁寧にソーサーとカップを置く。カップの中にはもちろん琥珀色のコーヒー。そういえば、央の淹れてくれたものはしょっちゅう飲んでいるが、凪ちゃんが淹れてくれたのは初めてだったかな。

「ありがとう、じゃあいただこうかな」

 さっきまで『エスポワール』で堪能してたから、さほど身体が欲するとは思わなかったけど、間近で淹れたての馥郁とした香りを吸い込むと、その懸念はあっさりと解消され、すんなり喉を通った。

「……美味しい」

 コーヒーの淹れ方一つでかなり味わいが変わってしまうのは、店主である山城のおじさんが淹れたものと、まだ一応は修行中の央が淹れてくれたそれと飲み比べてみれば一目……いやこの場合は一舌瞭然とでも言おうか。苦みがあるのは当然のことながら、その質というか……『苦い』のと『苦み』は別物とでも言おうか。そもそも大して肥えてない俺の舌が反応するのだから、やはりプロってのは凄いと思う。

「ほんと?お姉ちゃんの見よう見まねだけど、上手くいって良かった」

 ようやく落ち着いた笑顔を見せる凪ちゃん。さっきの謎の緊張はなんだったのかと訝る暇もなく、今はただ香りを楽しむ。その緊張の解れ方もコーヒーのリラックス効果だと思い込むことにした。

 そういえば店から豆を持ってきたってことは、本来ならお金を払って飲むべきものをタダで頂いてるってことになるな……至極セコい発想だが、だからといってここでコーヒーの料金です、といってサイフから金を出すのも場違いというか空気が読めてないというか。だからここは一つ気づかぬ振りを決め込もう。

 ひとしきり凪ちゃんの天才的(言い過ぎか?)手腕を堪能した後……同じように飲み終えた彼女を見やる。カップから唇が離れる瞬間、弾けた唇が意外に肉感的で、リップでも塗っているのか艶めいていて、とても二つ下の妹分には見えないほど眩しかった。確かに央と姉妹であるだけに似通った雰囲気の顔の作りだが、ややツリ目で視線が鋭く見える央に対して、凪ちゃんはいつも優しげに垂れた眦が印象的だ。どちらが魅力的かという話ではなく、どちらも違ってどちらも良い。

「そういえば、さ」

 一体何を言い出すのかと顔を上げる凪ちゃん。上目遣いもまた魅力的で、仮に身体の問題がなければ、姉と姉妹モデルでも勤まりそうだ。実際、央の仕事仲間の大人を介して、モデルのオファーがあったという話だからな……央がモデルを務められるほどの器量ということは、その同父母の兄弟姉妹にも食指を伸ばして当然か。ま、実際に凪ちゃんを目の当たりにすればそれも頷けようというものだ。先ほど姉妹が仲睦まじくじゃれあっていたが、その絵になることと言ったら……写真にでも残しておいて一生愛でたい気分だ。

「凪ちゃんも結構身体が丈夫になったよね。最近は学校を欠席してないんだっけ?」

「うん……二年生になってからは一度も。なんだかみんなも心なしか驚いて見えるの。そんなに凪が毎日登校するのって珍しいのかな……」

 そんな凪ちゃんはちょっとだけ悲しそうに目を伏せる。長い睫に縁取られた瞳に、僅かに光が湛えられたような気がした。彼女くらいの年齢の子にとって、毎日学校に行って勉強し友達と接するということは、ごく当たり前の権利であると同時に、凪ちゃん個人にとっては何にも代えがたい悦びであるハズだが、それを好奇の目で捉えてしまう周囲の目が少し疎ましい。彼らは他に面白いことがないのか、それとも本当に驚いているだけか。それが原因でいじめられているとかいう話ではないだけマシか……マシなのか?俺は基本的に健康体そのもので、今の今まで医者の世話になるような大病を患ったことはないから、その辺りの気持ちを理解できるはずもない。その健康の代わりというか、背中に身に覚えのない大きな痕があるんだよなあ。

「気にすることはないよ。みんなも凪ちゃんのことが気になって、温かい目で見つめてるだけかも知れないよ?一端悪い方向に思い込んだらキリが無いから、実害が出ない限りは出来るだけポジティヴに受け止めた方がいいんじゃないかな」

 どっちかというと悲観的な物の見方をしがちな凪ちゃん。幼い頃は冗談抜きで明日をも知れぬ命だったという境遇のためか、それを覆すのも生半なまなかには行かないようだ。

「凪ちゃんは可愛いから、それで注目を集めてるのかも知れないしね」

 俺はもう少し彼女に自信を持ってもらいたい意味で言ったのだが……そのすぐ後に、誤解を招きかねない物言いである事にも気がついた。

「私が……可愛い?」

 その証拠に、凪ちゃんの首筋といわず耳朶といわず、露出している肌の一面という一面が桜色に染まる。いけねえ、ちょっと直接的過ぎる表現だったか?でも口下手を自認するレベルの俺が、凪ちゃんに自信を持ってもらえる様な表現を他に知らない。可愛い女の子が国の宝なのは言うまでもない事実。しかも可愛いだけじゃなくて、ちょっと行きすぎたネガティヴな面はあれど、他人に迷惑を掛けない、節度をわきまえた性格は誰にも好かれるはずだ。そんな凪ちゃんが、自分の思い込みで他人との間に壁を作り距離を置きすぎることは不幸だと思う。……本音を言わせてもらえれば、軽薄な男だけにはあんまり近寄って欲しくはないけどね、お兄ちゃん的存在として。

「……めっちゃ可愛いと思うけど?凪ちゃんは内面も外面も」

 かといって今更発言を取り消すのもおかしいので、もう一度、凪ちゃんに諭すように。ひょっとすると自分の可愛さに気がついてないのかな。容姿が優れているのは誰が見ても一目瞭然だけど、性格にも問題がないのを熟知しているのは、幼馴染みの特権みたいなもんだ。だから少しは自信を持って欲しいのだが……彼女の心に届くくらい俺の言葉が足りてると良いんだけどねえ……

「凪ちゃんは小さい頃から頑張ってたもんな。そして上向きになってきた。だからその分、今を楽しく過ごして欲しい」

「それは……お父さんもお母さんも、お姉ちゃんもみんな応援してくれてたから……とっても辛くて、とっても悲しくて、でも……何とかここまで」

 そこまで言葉を紡ぐと、凪ちゃんは口をつぐんだ。

 その表情は、あまりに喪った物の大きさからか、またこれからの自分の体調への半信半疑もあるのだろうか、笑顔と言うにはあまりにも曖昧すぎて、観ているこちらが切なくなる。

「諦めずにいてくれてよかったよ、ほんと」

 実を言うと、俺が凪ちゃんの体調を気遣っていたのは、より親しい存在だった央の沈んだ顔を見たくなかったからだ。実の妹の体調が芳しくないとすれば、表情が暗くなるのも当然だ。央が妹を溺愛しているのは、なにも今に始まった話じゃないらしいからな。当の央本人は、小っ恥ずかしいらしくてなかなか本心を話してくれないから、あくまで想像の範囲内と言うことになるのだけど……

「……諦めなかったのは家族の応援があってこそだけど、それだけじゃなかったの。お兄ちゃんの言葉があったから……」

 ほほう、家族以外の人間も貢献してた、ということか。逆に言えば、家族の支えだけでは、ともすれば気持ちが切れかねない状況でもあったわけだな……その状態を救うなんて、当時の俺は大したことを言ったもんだ。

「ともすれば諦めそうになる凪を励ましてくれたの。それも恩着せがましかったり押しつけがましかったりするんじゃなくて、ごく自然に……凪が自然に頑張ろうって考えられるように、前向きになれるように……」

 はは、そいつは随分とポジティヴだなあ、と他人事のように受け止める俺。だってそんなに前の自分なんて、はっきり憶えてなければほとんど他人も同じようなもんだ。

「お兄ちゃんがね、お友達と川で遊んだって話をしてくれて、私も川がどんなものなのかよく知らなかったから、どうしても見たくて仕方がなくなっちゃって……」

 よせば良いのに、土産話のつもりで、男友達の親に山奥の渓流へ連れていってもらい、水遊びした件を凪ちゃんに聞かせたのは、ほんの微かに記憶にはある。

「でも、当然外に出る、ましてや炎天下の外出なんて許可が出るわけないでしょ?だからあんまりにも辛かったし、自分の思い通りにならない身体が悲しくて、そもそも明日が来るかどうか分らないのが怖くて……ある日、とうとうヤケを起こして、ちょっと調子の良かった日に自分はもう大丈夫だって言い張って……病院からこっそり抜け出したことがあって」

「ああ、そんなこともあった気がする」

 確かそれは七年くらい前のことかな。凪ちゃんと遊び始めた頃だったかも知れない。その当時の彼女は、今からすると考えられないくらいもろくて儚くて……まだ十歳にも満たない俺の目からでさえ、何かの箍が外れれば、即この世から消え去る事を選択してしまいそうな、危うい雰囲気があった。さっきも言ったとおり、俺はそんな凪ちゃんを、純粋に彼女のために心配したのではない。央のため、ひいては自分のためだ。

「でもそれはもちろんただの空元気で、そのうち力尽きて、河原で倒れて……」

「そうそう、パジャマのままでね。もしあの時、パジャマの柄を覚えてなければ、見過ごすところだったかも知れない」

 凪ちゃんが当日着ていたのは、白地に青の水玉模様も鮮やかな新品のパジャマだった。当時から交流の深かった俺の両親が、山城家に差し入れたものだ。ちなみに柄は俺が見繕ったものだった気がする。暑い季節だったから、せめて気分だけでも涼しげなものを……という配慮のつもりだったが、ともすればそれは押しつけがましい厭味にもなりかねないことを、当時の俺は想像出来なかった。

 俺と央が病室を見舞った後、凪ちゃんの姿が消えたと山城の両親から連絡があったときは、子供心に大変なことになったと思った。だから居ても経っても居られずに、手分けして病院の周囲を探す輪に加わったのだ。

「お兄ちゃんはどうして凪を見つけられたの?」

「まずパジャマの柄を覚えてたし、なにより幸運だった……というのが一番だけど、その他にも……その日、俺が楽しそうに川縁で遊んだ話をしたからじゃないかと思ったんだろうな、きっと当時」

 だからといってその話が発端で川の近く、しかも清流とは口が裂けても言えない近所の川に行くんじゃないかと確信したわけではなかったと思う。何しろまだ九歳の発想と記憶力だしね。でもそれが結局は奏功したわけなのだが。

「それで、川縁の遊歩道から見えるか見えないかの茂みの近くに、さっき見た可愛らしいパジャマを見つけたってわけだ。近寄ってみたら倒れてる凪ちゃんだったと。もう夕暮れどきだったし、もう少し暗くなってたらと思うと……うーん、幸運以外の何物でもないよう気がしてきたぞ」

「それでも……凪は助かったことに変わりはないし、お兄ちゃんは私の命の恩人の一人にもなったから……感謝せずには居られないんだよ?」

 あと少し発見が遅かったらどうなっていたか分らなかった……いや、分りすぎるくらい分る。水遊びをしたくらいだからかなり暑い日だったし、その中を歩いたそもそも病弱な凪ちゃんの体力の消耗の激しさは如何ばかりだったか。

「ま、それは結果オーライってことで……今だから言えるけど、自分でも本当に見つけられるかなんて自信がなかったからなぁ……」

 前述の理由もあって、自分は積極的に凪ちゃんの感謝を受け入れるに足る立場ではない。もしそんなことをしたら、その感謝目当てに人助けをしたと自分で錯覚してしまいかねないからだ。俺の貢献など些細なもの、単なるきっかけ。それくらいの捉え方で十分だろう。

「ううん……後からお姉ちゃんに聞いたんだよ。凪を背負って家まで帰るとき、お兄ちゃんは汗びっしょりの埃塗れで、いったいどれだけ駆けずり回ったんだろうって」

 そうだったかな?とにかく凪ちゃんを見つけようと必死で冷静さを失ってたもんだから、そんな心辺りがあるんだったら最初っから川縁を探しとけって話だよな。でも川縁っていっても捜索範囲は広いから、とりあえずそこにたどり着くまで探しまくったんだよな。

「それに、凪を送り届けてくれたあと、お兄ちゃんまで脱水症状とかで倒れちゃったって聞いた」

 ま、炎天下で方々を駆けずり回ればそうなるか。下手すりゃ二重遭難だったな。水分補給の重要性は言うまでもないが、九歳がどれだけ認識しているかとなると疑問符がつく。どうしてせめて自転車に乗らなかったのかと思ったけど、当時の俺はまだ自転車に乗れなかったんだった……

「それこそ大したことじゃないよ。凪ちゃんの命に代えられるほどのもんじゃないさ」

「そんなこと!……そんなこと」

 さっきも言っているとおり、凪ちゃんが気に病む必要など一切ない。悪いのは……いくら子供の頃の話とはいえ、無神経に相手の欲望を刺激するようなことを言った俺の方だ。俺としては何気ないつもりで言ったし、現在の凪ちゃんがどう思っていようが、結果がそうなってしまったのだから。

「でもね……凪、病院を抜け出して少しだけ良かったと思ってることがあるの。もちろんいろんな人に迷惑と心配を掛けちゃった上でのことだから、少し心苦しいけど……」

 俺は静かに首を振った。遊びたい盛りの子供に、一切病室から出るな、一切外の世界に興味を持つな、などと残酷なことを誰が言えるだろうか。自分の非を認めた上で話を切り出すのだから、このことが一番凪ちゃんの言いたかったことなんだろう。

「病院から河原まで、どのくらいの距離か分らなかったけど、近くに川があったのは知ってるからあんまり離れてないと思ったの。方向はある程度分ってるし、そっちに向かえば何とかなると思って」

 確かにそう離れてはいないが、それは今の感覚での話。高校生になってから小学校に行ってみると、想像以上にあらゆるものが小さく見えるのと同じで、子供にはあらゆるスケールが……物理的にというだけではなく、論理的にも世界は広く見えるものだ。距離的には凪ちゃんの入院していた市民病院から近所の、さほど綺麗とは言えない川までほんの数百メートル……多めに見積もっても一キロメートルといったところだろうが、子供の、ましてや病身での徒歩では、万里に匹敵する距離感であったに違いない。そういえば、よく子供が一人で出歩いて、周りの人間に保護なり通報なりされなかったと思うが、炎天下で人手が少なかった可能性があるし、もともと体調が良かった日だというし、それ故歩調が確かなら、あまり不審がられなかったのだろう。体力を消耗してからはどうだったか分らないが。また、昨今の情勢から、例え不審に思っている大人がいても、あらぬ嫌疑を持たれぬよう声掛けが憚られた可能性もある。

「でね、もう最後の最後は本当に疲れ果てて……でもようやくそれらしいところにたどり着いた時……夕日がね、水面できらきら反射してて、とっても綺麗だった……どんな病室の、どんな寝床から観る景色よりも、金色に輝いててすっごく、すっごく……」

 凪ちゃんは遠い目をしていた。こちらがある種の不安に囚われそうになるくらいの、儚い、脆い、危うい瞳。それを観るにつけ、当時の彼女が如何に過酷な状況に置かれていたかが分る。

「でもね、それを観て凪はどう考えたと思う?……またこの夕日を観るために頑張ろうって思ったんじゃなくて、ああ、もうこれで思い残すことはない、って思ったんだ」

 何かの箍が外れたように、堰を切ったように、溢れ出す生々しい、背筋が凍るような……本当にその死線をくぐり抜けた人間でないと紡ぎ出せない、言葉。

「本当だったらそこで凪のやる気は尽きてたのかも知れない。でもその後……その後のお兄ちゃんの言葉があって、頑張れた……ベッドに横たわる凪の手を握りながら『元気になったら、川だけじゃなくて、海だって山だって、どこにでも行けるよ!僕、凪ちゃんといっしょに見に行きたいな』っていう言葉が……」

 うわぁ……彼女の気持ちなんてつゆ知らず、そんな無神経な言葉を吐いてしまう自分に頭を抱えたくなってしまう。得てして子供の頃の言動という物は、ある程度の時間が経って、分別が出来るようになってから思い出すと、いっそのこと自らの頭を殴って記憶を消してしまいたくなるような類いであることが多い。子供であるが故の無邪気さ・世間知らずさを差し引いたとしても、だ。

「がんばれとか、あきらめるな、とかって押しつけがましい言葉じゃなかった。お兄ちゃんが凪をあくまで等身大に扱ってくれた、凪を誘ってくれたその何気ない言葉が本当に嬉しくて……凪ね、このとき始めて自発的に頑張ろうって思った。だから……お兄ちゃんは、その意味も含めて凪の命の恩人なの」

 そういう凪ちゃんは、さっきの全てを諦めきったような顔から一転、とても晴れやかな、実に生き生きとした笑顔を見せてくれた。俺の言葉でそれだけ思い直してくれるなんて、本当に子供の頃の俺はナイスガイだ。今の煮え切らない自分に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい……子供の頃の爪切りくずが部屋の片隅にでも落ちてないだろうか。

「凪ちゃんをそれだけ元気にしたんなら、俺も少しは……」

 少しは何だ?今の俺とは大分違う俺のお陰なのに、自信を持って良いのかどうか。今の中途半端な自分と、過去のナイスガイだった紘輝くんが断絶しているように思えてならない。

「お兄ちゃん、今改めて言わせてもらうね……」

 まじまじと俺の瞳を見つめる。その凪ちゃんは、今までの俺の知る、どっちかといえば大人しい、人見知りしがちな、己の主張をあまり行わない彼女ではなかった。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 凪ちゃんの大きな瞳に、炎が宿った気がした。俺よりも二歳も下の子の筈なのに、やけに艶めかしく瑞々しい唇、潤んだ瞳が印象に残る。……なんだろうこの雰囲気は。

 その瞳に抗えない。しかし、過去の自分が彼女の役に立ったという自覚と自惚れは、現在の自分の全否定によって容易に押し止めらることが可能だった。


「お茶でもいかーっすかー」

 その瞬間、ドアを蹴破らんばかりにお茶の盆を持った央が乱入してきた。急ぎ凪ちゃんが俺の側から離れる。……いつのまにか距離を詰められていた。可愛い女の子が可愛い貌をすると、彼我に引力でも発生するのか。これは新発見だ。って、そんなことを言ってる場合じゃない。

「おんやァ?お二人とも、そんなに近づいてどうしたんです?」

 ニヤニヤと、まるで何もかもお見通しと言わんばかりの央の目つきが俺と凪ちゃんを絡め取る。

「まさかお客さん、ウチの大事な妹にコナ掛けようとしてたんじゃぁありませんよねえ?えェ??」

 まるでどこかの美人局がお仕事を始めたかのような口調で俺を舐め付けるようにいびる。ハッキリ言って怖い。大人の世界を肌で知っている央にとって、このくらいのいざこざも経験済みと言うことなのだろうか?

「お、お姉ちゃん、違うの!凪の目に虫が入っちゃったから、お兄ちゃんに観てもらってただけなの!」

「凪、それは悪い虫って言ってね……貴女のその向かいに座っている男の事よ!つまり最初から貴女の目には悪い虫が入っていたってことなのよ!だからはやく悪い虫を排除しないと!」

 そう言うが早いか、央は俺の反論にも凪ちゃんの弁護にも一切耳を貸さず、俺を強引に立ち上がらせ、後ろから肩を押して部屋を追い出しに掛かる。手を伸ばしかける凪ちゃんを尻目に、ドアを後ろ手に閉めた。

「な、なにすんだよ央!凪ちゃんも言ってるとおり、本当にそんなんじゃないんだってば!」

 部屋からしばらく離れたところを見計らって、央に向き直る。すると央は……

「分ってるわよ、そんなこと」

 さっきまでの不気味な視線はどこへやら、どこか寂しげな、哀しげな色の瞳を伏せて言った。とすると、さっきの言葉は本心ではないということか……央に悪い虫呼ばわりされて結構ショックだったんだぞ!俺も勢いに、場の雰囲気に飲まれかけたという負い目はあるにせよ、軽薄なマネである事は確かだった。そういうのはきちんとお互いの気持ちを確かめ合ってからだな……いや、そういう問題か?想い人が居るというのに、自分がこんなに気の移ろいやすい人間だとは思わなかった。多分だが、俺は他人から好意を真っ向からぶつけられると、それを否定できない質なんじゃないのか?いや、もし後にそういう状況に陥って抗えなかった際の予防線を張っているわけではない。本当だぞ。

「そうじゃなくて……あの子、当時の事を詳細に思い出そうとすると、なんだか感情的になっちゃう気がしない?今だってそうだったでしょ?」

 ということは、さっきからそっと俺たちの話に聞き耳立ててたってことだな。今は状況が状況だけに不問に処すことにしよう。それにしても趣味が悪い……こともないか。大事な妹と『悪い虫』が二人きりになってるんだからな……実は根に持ってるのか俺は。

「感情的にと言っても、自分が周囲に迷惑を掛けた、散々時間とお金を使わせた、っていう自責の念……なのかしらね、多分。私も両親もそんなことは当たり前だから気にするなって言ってるのに、凪自身はそう考えてないみたい。自分は悪い子だ、自分はいつかみんなの役に立ちたいのに、今でもまだそれには届かないっていうもどかしさも焦りもあるみたいで……私、今までのあの子の事を観ているから、不憫でしょうがなくって……」

 そう考えているあたり、央も妹思いのお姉さんであることは間違いない。確かに央の妹の溺愛っぷりと来たら相当なもんだが、その妥当性の判断を下すのに、俺は二人と親しすぎて、客観的な立場では見づらい。

「よく分かるとは口が裂けても言えないけど、凪ちゃんが自分を責めすぎるきらいがあるのは間違いないな……いつかその強迫観念みたいなもんを取っ払うことができるとするなら、それは……俺じゃなくて家族である央かも知れない。俺は凪ちゃんを元気づけてあげることは結果的に出来たけど、その根幹を取り除くことはできなかったから……やっぱりそういうのは、余計なバイアスが掛かっちまう俺という存在よりも、もっと親しい人間の方が適任だと思う」

 そう言うと央は心なしか安堵したように見える。彼女も少なからず不安を抱えていて、悩んでいることが分って、不謹慎ながらもそれが俺をも安心させてくれた。いつも央は付けいる隙がないと思っていたのだが、俺にも彼女の役に立てる余地がある、力になることが出来るという、ともすれば消極的で受け身な性質のものかもしれないけど、言い方を変えればそれにすがれる余地があって、今はそれだけが央を自分と近しい立場にしているという安堵をも俺は覚えていた。

 それと同時に、他人をダシにしてしか己の存在価値を見いだせないことに、大きな疎外感を覚えることもまた確かなのだった。 

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