act.6
その後、特になにをするでもなく、央と学校の話をしたりして、人もまばらな店内の雰囲気を……本当はまばらじゃいけないんだけどな……楽しみ、そろそろ店の中に夕焼けが差し込んでこようという頃、央が店内の日除けを展開していると、パーカーとミニスカートの私服に着替えた凪ちゃんが一階に再び顔を見せた。
「凪、どうしたの?お姉ちゃんの顔が見たくなっちゃった?」
彼女の元気そうな表情を確認した瞬間、それまでの穏やかだった央の顔が、一気にほころんだ。安心したんだな、凪ちゃんは少し疲れたから休んだだけだというのに、そんな心配をしなければいけないほどの境遇というわけだ。
「うん……それもあるけど、紘輝お兄ちゃんにお願いしたいことがあって……」
凪ちゃんは、ノートっぽいものの筆記用具を手に抱え、もじもじして言った。今の今まで蕩けきっていた央の表情が、驚愕というか信じられない物を見聞きして放心したかのような……とにかく、モデルを務めているような子が絶対にしてはならないような感じに……とりあえず央さん、俺に対して疑念をぶつけるのだけはやめてくださいね。
「何かな?金の相談と恋愛相談は受け付けないけどねっ、ハハ、は……」
軽口のつもりだったが、山城姉妹のどんよりとした冷たい視線が俺に突き刺さる……俺、なにか不味いことでも言ったかな……?いや、口にしなくても判るような寒いネタだから、かな。この国には言霊という概念があって、口から音にして出した言葉には霊力が宿る、つまり本当になるというし……他にも口は災いの元、とかね。とにかく滅多なことを特に考えもせず口から漏らしてしまうのは、もう少し治した方が良いか。好きこのんで波風立てたいわけでもないしなあ。
「あら凪、お姉ちゃんの顔が見たくなっちゃった?」
うおっ、俺の発言を無かったことにしやがった!
「うん、それもあるけど、お兄ちゃんにお願いしたいことがあって……」
凪ちゃんまでそれに乗っかった!お兄ちゃんは悲しいぞ!つまり俺のさっきの発言は、二人にとって抹消されるべきものだったってわけだ……
「紘輝にお願い事って……紘輝にお願いしてなにか得になるようなものってあったかしら」
酷い物言いだなオイ!……まあ概ね間違ってないところが何というかとにかく情けない。人に頼りにされるものなんて俺には何もないから当然だ……自分で言ってて泣けてくるな。
「あの……勉強を教えてもらいたくって」
「へ!?勉強……」
実を言えば、凪ちゃんのお願いの意図がよく理解出来なかった。自慢ではないが、俺と央の学力差は悲しくなるほどで、よくもまあ同じ学校に滑り込めたものだと自分でも妙な感心をしてしまうレベルだ。入試の成績でも、央は上位十指に入ることは間違いなし(本人から実際の結果を聞いたわけではないが、入学後の成績を鑑みるに……ね)。対する俺と来たら……学校側が希望者には入試の点数を公開するというので、奇跡的な合格に浮かれちまったそのオツムで、ふらふら結果を聞きにいってしまって……ほとんどブービー合格で肝を冷やしたというオチがつく。そしてムリして進学校に入ったツケは大きく、ヒイヒイ言いながら予習復習の嵐で、しかもそれで日々の授業に付いていくのがやっとという体たらく。授業なんて基本的なことしか教えないのにこの状態。ああ、つくづく人間は高望みするもんじゃないと思ったね。もちろんそういう無理難題に挑戦してこそ成長するという可能性もあるけれど。
「凪、こう言っちゃなんだけど……紘輝はその……ええと……成績的によろしくないというか……」
央は俺をちらちらと見やりながら、口にするべき言葉を探している。央も、中学時代の俺との成績の差は十分に承知していたから、同じ高校を受験すると知れたときは散々思いとどまるように説得してくれたっけ。央は真摯に言ってくれてるのは分ってたが、『はいさようでございます。志望校を変えます』と引き下がるわけにも行かないのが思春期の思い込みというか馬鹿力というか男のプライドというか。
そんなわけで、同じ高校に通っているという閉じられた狭い世界の中でも、学力的に天と地ほどの差があるってわけだ。それを踏まえた上で、央なりに言葉を選んでくれているに違いない。央はそのくらいの気遣いはしてくれる子のはずだ。
「まあぶっちゃけ紘輝はバカなんだから」
ちっとも気遣ってくれる子じゃなかった。
「あっ、ごめんなさい!言い方が悪かったわ……」
判ってくれたか。やっぱりお前は気遣いの出来る優しい子だと思ってたよ。
「紘輝はおバカさんなんだから」
前言撤回だ!丁寧に言い直しただけじゃねーかっ!
「……これも違うわね」
もうマシな言葉は期待するだけ無駄だろう。
「紘輝は勉強が出来ないだけなの」
そりゃあ遠回しにバカって言ってるのと一緒だ!傷つくなあもう。そりゃあ勉強の出来ないのと、頭の回らないという意味のバカが同意ではないのは分っているし、俺が勉強の出来ないという意味のバカであることは自覚してる。死んでも頭が回らない方だと思われたくはないが。本来ならそういうのも含めてバカだと認めてしまえば楽なんだろうが、やっぱりくだらんプライドが邪魔するんだよなあ。
「勉強ができないだけで、他に良いところは沢山有るのよ?ほんとに色々、沢山。うん、いっぱい」
具体的に良いところを挙げてくれないのもまた不安になる要素だが、沢山有ると言われれば悪い気はしない。俺ってひょっとして単純なのか?
「紘輝お兄ちゃんって……おバカさんなの?」
央の与太を素直極まりない凪ちゃんが信じてしまいそうになる……折角良いところもあると言われたばかりなのにもう挫けそうだ。
「凪には……お兄ちゃんがおバカさんだなんて思えない」
でもそこはやはり凪ちゃんだ。お姉ちゃんとは比較にならないほどの純真さ、そしてその純真さ故に見えてくる世界の真実!
「お兄ちゃんはそういう人を演じてるだけなんだと思う。だって……昔から色々私たちのことを気に掛けてくれてるし、気配りだって……本当に鈍い人だったら、そういうことにすら気がつかないと思うから……」
凪ちゃん……お姉ちゃんのフォローをするとはほんまにええ子に育ってくれた!お兄ちゃん嬉しいっ!
「こんなこと……こんなことあるはずがないわっ!紘輝が……紘輝が、私の凪をこんな風に籠絡してしまうだなんて!なんてことなの!凪ったら天性の男殺しね!やるぅ!」
「籠絡なんてされてねーよ!凪ちゃんに変なことを吹き込むんじゃあない!それに実の妹に対してなんて言いぐさだよ!何が『やるぅ!』だ!」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、『ローラク』って……何?」
ほら、余計なことを言うから凪ちゃんもそれを気にしちゃったじゃないか!頼むから彼女を世俗の垢塗れにしないでくれ。
「籠絡っていうのはね……」
「教えなくていいからっ!」
ちぇっ、とばかりに、しかし一応は引いた央。まったく……自分の妹が可愛いばかりなのは分るが、溺愛してるんだか自分の都合の良いように振り回してるんだか分らなくなってきたぞ。
「まあいいや……それで凪ちゃん、君の勉強を見るのは、俺は全く構わないよ。……ただし、勉学に不安がある俺が教えることが本当に凪ちゃんのためになるんだったら、の話なんだよねえ……いったい全体、何の教科を観るべきなのかな?」
さっきも言ったが、俺の成績は下から数えた方が早い。進学校でこれは正直に言ってちょっと先行きが不安になってくるというか……このままでは卒業どころか進級すら危ういという……だいたい央と同じ学校に入りたいという不純な動機だけで進学校に潜り込んだから、さらなる高みを目指して大学へ、さらにその上へ……という明確な向学心にも欠けるんだよね……こうやって改めて考えてみると、俺ってかなり情けない奴なのでは……惚れた女のためにあれこれ努力するというのは、若さの特権だろうし結果的にこうしてレベルの高い学校に入ったという結果があるから非難される謂われはないけど、その結果がこれじゃあねえ。俺ももう少し身の振り方を考えなければいけないのかもなあ。
「そうよ凪、紘輝が得意な教科なんて体育しかないに決まってるわ!しかもそれも晩年普通の中の普通、五段階評価で三!十段階評価だったら六!ザッツ平凡!ディスイズ平凡!なんだから!」
「どういう決めつけだよ!しかも力説してるし!俺に対してどういう固定観念をもってるんだろうね!」
「じゃああたしの言葉を否定できる?」
「一切できません!」
悲しいが央の指摘はだいたい合っている。中三で勉強に専念するためにバスケ部を引退してからは特別身体を動かしてはいないが、それでも地の体力的には、根っからの文化部系よりは優れている……つもりだ。
「ほらね?凪。本人もああ言ってるとおりだし、勉強ならあたしが教えたげる。お姉ちゃんもたまに友達と勉強会をするけど、教え方が上手いねって褒められることもあるんだから」
「うん……本当なら凪もお姉ちゃんに教えてもらいたいけど、お姉ちゃんは色々忙しそうだから……その邪魔をしたら悪いかなって……あ、あっ、だからといって、紘輝お兄ちゃんが暇そうって意味じゃなくて、あくまで相対的にって……」
自分の発言が俺を傷つけかねないと気がついた凪ちゃんは、あたふたしながら弁解する。その様子もなかなかに微笑ましい。
「いいんだよ凪ちゃん、確かに俺は央に比べたらずーっと時間的に余裕があるのは間違いないから」
自分では予習復習にも時間を割き猛勉強しているつもりでも、それはあくまで常識の範囲内での話で、進学校の中では全く足りていない可能性すらある……こうして暇を見つけては、『エスポワール』に通っていることこそその証明だろう。
「凪の言い方が悪かったの……本当にごめんなさい」
こういう気配りが出来るのもまた凪ちゃんの良いところだよなあ。俺が気にしないって言ってるのに。おそらく彼女の性分なのだろう。幼い頃から床に伏しがちという生い立ちからの由来でもあるのかもしれない。
「でも凪、本当に紘輝にはこれといって得意な科目はないのよ?……これ、冗談でも厭味でも悪口でもなんでもなくて、当人も認める本当の話なんだから。そもそも、学年が上の人が下の人の勉強を必ず見てあげられる程の学力を有するって確証はどこにも無いわ」
央はそこまで言うと俺の方をちらっと見やって、
「紘輝をけなしているように聞こえるかも知れないけど、私の方が教え方に自信があるから言ってるんだからね?だってそんなの、姉である私が付き添ってあげるのが当然じゃない。凪に勉強を教えるためだったら、いくらでも時間を取るわ!いいえ取らせてください!勉強を教えさせてください!」
なんだか央が壊れてきた気がするぞ。いっつも妹のことになると熱心だが、今回ばかりは尋常ではない。これ、俺の学力だけを問題にしているわけじゃないよなあ。
「俺も教えてあげたいのはやまやまだけど、残念なことに央の言うことの方が正しいんだよね……」
本当は体育の他にも一つだけ得意科目があるんだからな!それは歴史っ!テストでは平均点を取るのがやっとって意味の、他の科目の成績から見た相対的な得意ってだけなのですが。……それにしても、歴史は良い!何よりこの国の成り立ちを知ることで愛着が生まれるし、過去の出来事が現代にまで繋がる根の深い問題だったということもある。これこそまさしく温故知新!で合ってるのか??
また、勉強のしやすさという面から鑑みても、誤解や反論を恐れずにシンプルに言わせてもらえれば、とにかく記憶すれば良いだけ。記憶することのコツ……つまり年号の語呂合わせだとか、当時の社会情勢を踏まえた上で組み合わせて覚えるとか……はあれど、基本は反復練習すればなんとかなる。そう、俺のような勉強に不向きなオツムでも!……それでも一応得意科目には変わりないやい!……なんだけど、央の成績を知ってしまっている身の上としては、相対的にでも得意科目などと宣う事自体が憚られる。本来なら勉強の出来の成績なんて人間の出来不出来に直結しないと胸を張って言いたいところだけど、学ぶことが第一義である、また一心不乱に学ぶことだけを世間から許容されている学生という身の上では、トップアスリートや学生起業家など、現時点で『結果』を出しているごく一部の層を除き、成績のみで人間としての優劣を決められても仕方が無いと思っている。『テストの点数だけで俺の価値を決められるなんて我慢できねぇ!』なんて甘っちょろい言葉を聞いてもらえるのは、それ相応の成績を修めている人間だけの特権だ。そうでなければ、成績不良者の見苦しい捨て台詞でしかないってわけだ。
「ね?紘輝もああ言ってることだし」
「それでも……お兄ちゃんにお願いしたいです」
凪ちゃんの決意は固かった。一体彼女の何がそこまで頑なにさせるのか。第一、こんなに意思表示をはっきりした凪ちゃんを見たのは久しぶりのような気がする。いや、ひょっとすると初めてかも知れない。
央は腑に落ちない表情をしていたが……やがて何かに思い至ったらしい。はあ、と一つ大きなため息をついた。
「凪がそこまで言うんだったら、私もこれ以上の反対はしないわ。ただ……それならそれでしっかりと結果を残してもらわなければ……ね?紘輝先生。もし効果が上がらないと判定されたら、私の独断で一方的に紘輝先生をクビに、私という最高の教師役が代役に就き、凪が立派な成績を収めるように仕立て上げます。いいですわね、凪さん?」
「はいっ、わかりました先生!」
凪ちゃんも、央が折れたことに安堵したのか、おどけた口調だ。
「結構ですわ、凪さん。それでは頑張りなさいな」
央は掛けてもいない眼鏡をくいっと上げる仕草をした。多分教育熱心な親を演じているんだろう。いつの時代の……をイメージしているのかは知らないが。
それにしても話の内容の割にはノリが良い。この辺りが、央の親しみやすさの原因だろうか。中学生時代はバリバリの読モだったというのは周知の事実だし、お勉強も運動も性格も(少なくとも学校生活内に於いては)完璧なのに、校内の男どもから話を聞くに、意外にも高嶺の花という印象は持たれておらず、どちらかというと親しみがあって話しやすい、まさしく理想的な存在として認識されているようだ。かといって粉掛けてくるような身の程知らずも居ないようだが。
「それじゃあそろそろ行こうか」
「はいっ」
それからしばらく雑談を交わした後、凪ちゃんはやけに嬉しそうに席を立つ。一体なにがそんなに嬉しかったのかは知る由もないが、代わりに俺が嫌というほど理解したのは……
あれ?俺に凄いプレッシャー掛かってない???
ってことだな。でも自分で引き受けたんだし、そこまで頼られればやる気にはなるし、体調次第では勉強が滞りがちになるという凪ちゃんのために一肌脱ぐのも悪くないだろうか、という前向きな姿勢になっていたのもまた確かだった。お勉強で余計な苦労をしてしまった俺だけに、ね。この経験が何かの役に立てばいいかもな、という利己的な理由も否定できないけど。ま、お互いの利益になればってことで。
凪ちゃんに導かれるがままにエスポワールの二階へ……その前に、店の通用口をまたげばそこはもう喫茶店ではなく山城家か。幼い頃から勝手知ったる家とはいえど、幼馴染みの家ではなく、『女の子』の自宅に足を踏み入れているという要素の方が今は勝ちぎみだ。特にそれが想いを寄せている女の子の家とあっては……ね。その点、凪ちゃんの部屋なら安心……ではないけど、いくらか気が楽だ。二階に上がる前、凪ちゃんに先導される俺を何故だか不安げな瞳で見つめる央の真意が気になったが、よもや央も、凪ちゃんになにか良からぬ事をするかもという俺への心配ではあるまい。多分。一端は折れたとはいえ、やはり俺の教えっぷりに甚だ不安を覚えているのだろう……うん、自分の事ながら、いや自分のことだからこそその不安はよく分かる。
山城家の二階は、ベージュの壁紙とブラウンの板張りで統一された、シックで落ち着いた色合いだ。階段の手すりなどは、これは……あまり芸術には詳しくないが、多分アールヌーヴォ-だかなんだか風の、こう……わしゃわしゃっとした装飾が、シックな統一感の中にアクセントを添えている……と思う。あまりきょろきょろするのもおかしいので、前を歩く凪ちゃんを見つめる……のもまた変だが、どうしても視線を奪われてしまうなあ。歩みがきちんとしているというか、とにかく姿勢が良い。背筋を伸ばして、手をきちんと前に揃えて歩く様なぞは、彼女の長く滑らかな黒髪と、山城家の雰囲気とも合わさって、大正時代の若旦那が若い女中……いや洋館だからメイドか……に前を歩かせ、後ろ姿を鑑賞している気分が軽く味わえる……って何を考えているんだ俺は。そんな若旦那がメイドを鑑賞したら、後やる事と言えば……いやいやいや、と激しい自己嫌悪に陥る俺の気持ちなぞもちろん知りはしない凪ちゃん。ごめんね、お兄ちゃんは歳相応にアホでバカでえっちなお兄ちゃんなんだ。反省してます。