act.4
※このact.4からact.6までは、act.1~3までの間にあった話となっております。
なにやら煮え切らない央の態度に一端違和感を覚えると、その理由をどうしても知りたくて仕方がなくなってしまうのもまた人間の性みたいなもので、いよいよのこと、自分の胸のモヤモヤにかけて真相を追究しようと思ったところ……
「話は聞かせてもらったわっ!」
突然、入口のカウベルが闖入者によってけたたましくかき鳴らされた。いったい何事かと訝しみ、そこからやってきた人間の顔を確認するに付け……うんざりとして追究する気もいっぺんで失せてしまった。
「あ~いも変わらず閑古鳥が鳴いてるわねっ、ここは!あたしの店とは大違い!ちなみに閑古鳥ってあの『カッコウ』の事なんだって、知ってた?そう言われてみると、静かな湖畔でカッコウが鳴くって歌、ほんとにこの店の静寂を連想させるわねっ!」
その静寂を有り難くも自ら打ち破って現れた少女は、ちょっと派手目な色の、しかし地毛のセミロングヘアを頭の両脇で所謂ツインテールに纏め、大きな瑠璃色の瞳に抜けるようなという陳腐な表現こそが似合う白い肌、低めの身体に相応しいとある一部分、全体的に非常に整った顔立ちと、要するに美少女と言い切って差し支えない。……非常にやかましい物言いにさえ目を瞑れば、の条件付きではあるが。央は彼女の顔を見るなり大きくため息をついて、今までいじくっていたコーヒーカップを手元に置いた。
「誰が来たのかと思ったら、変幻自在の臨機応変、機を見るに敏といえば聞こえは良いが、その実は流行に乗っかってばかりで主体性を持たない、儲け第一主義にして拝金主義、必要とあらば札束で人様の頬を往復ビンタ、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、見捨てた人間は両手の指でも足りないくらいの闇経営喫茶店の一人娘の……えーと誰だったかしら」
「随分な人聞きの悪さですらすら罵倒した割に、人の名前でわざとつまずくの止めてくれない!?」
「ごめんなさいね、私は他に覚えなきゃいけないことが沢山あるから……えーと貴女は……柏原スリジャヤワルダナプラコッテさんだったかしら」
「それはスリランカの首都の名前でしょ!一応幼馴染みなんだから、もう少しマシなボケのしようって気にはならないわけ!?」
「二人ともよくその名前を知ってるねえ」
とまあ、全体的なスペックの高さでは央の方が上ということを薄々感づいている割に、だからこそとでも言おうか、自分の家の喫茶店の繁盛っぷりを常に自慢してくるこの子こそ、商店街内に於ける我らが『エスポワール』の一応同業、現在メイド喫茶を絶賛営業中である柏原家の一人娘、藤乃である。自分で言っているとおり、彼女もまた俺と央の幼馴染みだ。小中高と一緒の学校の腐れ縁と言えば言えるが、央も藤乃も学校の成績的には大変優秀で、無理なく現在の進学系高校に合格したが、ぎりぎり滑り込んだような俺はその腐れ縁に半ばムリヤリ突っ込んだようなもんだ。幼馴染みが三人仲良く同じ学校に通っている……といえば微笑ましいかも知れないが、何故だか藤乃は央にあれこれ突っかかってくるところがある。現在のこの手のやりとりも俺たちの周囲だけでは収まらず、学校でも名物の一つとなっていて、しかし央がほぼ一方的に遣り込めていることからか大した諍いと見られて居らず、可愛い女の子同士の微笑ましいスキンシップ、というところで一般的な生徒の間では処理されているようだ。まあ確かに、こうして端から見ているだけなら頬が緩むような光景だからなあ……そこで交わされているやりとりの低レベルさに気がつかないフリをしていれば、の話だけど。央も、おもしろがって藤乃の程度に合わせてやっているフシすらある。
「ところで藤乃お嬢さん、話は聞かせてもらったと言った様だけど、具体的に私たちのどんなお話を聞いたのか教えてもらえるかしら?」
「え、え?それは、その……」
央はとっくに気がついている、藤乃のそれは挨拶に続く今日のお天気の話題のようなもので、特別意味もないし突っ込まれるとも思っても居ないのに口に出してしまう類いのものだ。
「あ、あれよ、最近の為替の値動きに対応するべく情報収集を……そして円高時と円安時が潮の満ち引きに与える影響と、民衆の購買意欲との差を……えっとえっと……」
そんな話はした記憶が無いなあ……これからする予定もないけど。
困るくらいなら最初から話に乗らなければ良いのに、適当なことで央に弱みを見せるのが悔しいものだから、どんどん央のペースに乗せられて自滅する、それがいつもの二人ののやりとりの末路でもあった。
「で、藤乃。しょっちゅうここに来て口にすることといえば自分の店の繁盛ばかり。あなたの家のお店とエスポワール、そもそも客層が違うんだから自慢したってしょうがないんじゃない?うちは客単価を重視し、尚且つお客様にまるで我が家のようなお寛ぎの空間と……静寂を提供しているのよ……そうだ、この静寂も売り物なの。おわかり?」
「なるほど、確かにどの喫茶店にも有線の音楽は付きものだものね、たまにはそんなBGMを廃し、自然な環境音の風情をアピールするようなを店があっても……って、あんた今、ものすごくポジティヴな解釈で自分の店が流行ってないって認めなかった?しかも今考えたかのように!うっかり聞き逃すところだったわ!」
いや……むしろ自虐の度合いが痛々しいくらいだった……
「で、でも、それでも流行ってる方がいいに決まってるじゃない!このお店が山城のおじさまにとってかけがいのない場所であることは承知しているけど、それも経営が続いているからこその物種でしょうに」
そのご指摘ももっともだ。さっき二人であれこれ思案していたように、どんなに正当化しようとも、客が店内に居ない事実はどんな虚飾よりも残酷な現実として突きつけられる。
「だからって、自らの信念を持たず安易に流行と売れ筋に迎合してまで儲けようとするのは……ある意味では純粋で立派かも知れないわ。……でもどうなんでしょうね?真っ当なことだけを真っ当に生業にして儲けようというのは割と難しいけど、その理屈で行くと……貴女の店は裏でどんな……」
「人聞きの悪いこと言わないで!ウチで働いてる子にだって失礼じゃない!ウチは明朗会計、ごく一般的なシステムのメイド喫茶よ!それにメイド喫茶を売れ筋だって言うけど、今はもう淘汰が進んで、本当に質の高い店しか残ってないくらいお客さんの目は肥えてるんだからね!その中でウチは流行に乗っかったとは客観的に観ても言えないくらい客足が途絶えないんだから。きちんと理解と区別をしておいてもらいたいわね」
ははは、藤乃はほとんど涙目にならんばかりに力説してる。自分の店を誇りに思っているいるんだなあ。少し見直した。そういえば確かに、全盛期には駅前にも二店ばかし同時に開業してたが、片方は風俗紛いのトラブル続き、片方は店としてのクオリティが低くてすぐに消え去って行ったっけ。その際のマイナスイメージが強かったから、柏原のおじさんが新しい商売を始めたと聞いても、不安しか出てこなかった覚えがある。
「それよりも……藤乃、貴女の店も今は営業時間中でしょ?……判った、言わなくても判っているわ。接客態度が悪くて、貴女が必要とされていないんでしょ?だから勝手にお店を抜け出しても仕事仲間に怒られない、むしろ大歓迎っていう感じの」
「休憩中とか勤務時間が終わったから来てるとかっていう発想はないの!?一応言っておくと休憩の時間にわざわざ寄ってやってるのよ!」
律儀に答えてる。藤乃はメイド喫茶の衣装を着てるんだから、普通に解釈すれば休憩中かなんかだと知れるが、基本的には真面目な人間なんだよなあ。自分が万が一にもサボっていたり仕事が出来ないと思われるのが我慢出来ないと見える。
「どうしても言いたいことがあったからよ。この店……はっきりいって赤字よね?……まさか働いているあんたが気づいてないわけないわよね?」
確かにそうだ。いくら央の弁で誤魔化されそうになるとはいえ、『エスポワール』がさほど流行ってない事実は曲げようもない。だがそれをわざわざ他人に指摘されると、流石の央も面白くないのだ。だが『エスポワール』は、元はと言えば山城の親父さんが、産まれたばかりの央と出来るだけ近くにいるために脱サラまでして開業した大切な店。そこで看板娘をやっていて、店内の盛況にはほど遠い客席をいつも見ている以上、経営が芳しくないことは自分のアイデンティティに関わる部分ということも出来る。だからこそのさっきの相談ということなのかもしれない。
「くやしいけど……藤乃の言う通りよ。さっきも紘輝とこの店を盛り上げるに足る、独創的なメニューを開発しようと画策していたところ」
「でもその様子だと……ロクな案は出なかったんじゃない?」
「……それもお見通しか」
「あったりまえじゃない!あんたの開発力なんて、中学校の文化祭の惨状を見てれば自ずと知れるってものよ。あれ、あんた達が一枚噛んでるって話だったわよね?隣のクラスだったあたしにもその悪評は聞こえてきてるわ」
「悪評なんて人聞きの悪い……きちんと食べられるものを出してたでしょう」
「食べられるものイコール悪評が立たないなんて図式がそもそも成り立たないのよ!飲食店を経営するなら目標は一つ、お客様に愛される、ひたすらに美味しい食事を求めるべきだったのよ!その点あんたたちの店はひっっじょおおおおおおに一人よがりで、お客さんを楽しませずに自分たちの独りよがりなメニューを出していた!お客さんを愚弄するにもほどがある!あんた達のクラスは文化祭の模擬店を自分たちのオモチャ、私物化してたと言うも同じよ!」
お、おお、藤乃が自慢話以外のまともなことを言うのは久しぶりに聞こえるが……家業が家業だけにプロ意識も高いのだろう。
「そもそもこの店みたいな純喫茶ってのが今の時代に合ってないのよ!純喫茶で流行っていないのだから、どんな信念があろうとも、どんなことを言われようとも、足掻き続けるべきよ!例え元の形態が気に入ってた客がいたとしても、そんな客は少数派!新規客を多数引きつけられるなら切り捨てたって良い!」
さも自分の言葉がこの世の唯一の真理である、とばかりにこちらに人差し指を突きつける。どうでもいいけど、人を軽々しく指差してはいけないと教わらなかったのだろうか。
「謝れ……」
「えっ?」
「謝れ!全国の純喫茶の経営者と、愛好家に謝って頂戴!」
央が恐ろしい形相で藤乃に謝罪を要求した。だがそこまで央がキレる理由が分らん。店そのものを馬鹿にされたのならいざ知らず……いや、この純喫茶形態も山城の親父さんのこだわりだから、結局は同じ事か。
「全国の純喫茶経営者ならびに愛好家の皆さん、ごめんなさい!確かに静かな純喫茶でコーヒーを味わうっていうのもとっても良いですね!」
藤乃はあっさり素直に、涙目で謝った。央の謝罪を求める顔が極めて真剣だからというのもあるだろう。触れてはいけない逆鱗に触れてしまったようだ。央としてもこの店の成り立ちを、親父さんのこだわりをコケにされたようなもんだからなあ。なにしろ、今回の件だって新規メニューの開発の相談で、店の売り方そのものを変えようとは言ってなかったわけだし。
「……謝ってもらってなんだけど、藤乃の言うことも一理あるわね」
「あたしの謝り損じゃない!」
「そこはこだわりじゃなかったのかよ!感心して損したよ!」
二人から突っ込みを受けた央だが、どこ吹く風といった様子だ。
……仮に個性的なメニューを開発出来、それが人気になったとして、それでも純喫茶を名乗っていられるのかどうか割と疑わしいな、そういや。
「損じゃないわ、藤乃の冷静かつ誠実な謝罪があったからこそ、私の方も冷静に状況を見つめ直すことが出来たんだから……感謝するわ。今までの貸しを一つ返してもらったってことで、残りあと六百ポイントくらい貸しがあるわね」
「なにそれ!?そんなシステムがあったなんて聞いてないんですけど!それに六百ポイントも勝手に貯められてる!……ちなみに一ポイントの貸しっていうのはどのくらいの価値なの?一応聞いておいてあげる」
「藤乃をブン殴りたくなったけど一回我慢したときに付与されるわ」
「あたしそんなに憎まれてるの!?そもそもあたしって、あんたにそんなに貸し作ってたの!?」
「自覚がなかったのね?安心しなさい、あとで出血大サービスで大幅に割り引いて払ってもらうから」
「そんな恩着せがましい出血大サービスは要らないわよ!」
「そこのフォローもばっちりよ。出血大サービスにもれなく止血大サービスも付いてくるから」
「あたしは物理的に出血大サービスさせられるの!?」
「ご不満なら輸血大サービスもお付けするわ、それも出血大サービス価格でね」
「ヤミ金融からの借金も真っ青のループよ!どんだけ血を見たいのよあんたは!」
……そういえば、幼い頃は二人はここまでいがみ合っては居らず、普通に幼馴染みとして仲が良かったはず。端から見たらじゃれあっているように見えなくもないが……かく言う俺もそうとしか見えない……とにかく藤乃の主張は、お互いの店の経営方針と繁盛っぷりについてである。看板娘同士の人格を攻撃するまでは至らないところが、結局のところ俺たちの腐れ縁的な距離と、諍いがそこまで深刻ではないことを物語っているのだろう。だって、幼い頃から顔を突き合わせている連中が、それこそ人格から家庭からあらゆることに罵声を浴びせ、心の底からいがみ合う事態になったとしたら……想像するだけで気分が落ち込む。この商店街に年齢の近い人間が少ない事もあって、俺たちは家族のようなものなんだ。それだけに、藤乃の最近の突っかかり様の理由は、少なくとも俺には見つけられない。
「とまあそういうわけでさっきも言ったとおり、わが『エスポワール』がどんな看板メニューで売り上げを伸ばしたらいいか考えていた訳なのよ。三人寄れば文殊の知恵って言うでしょ?」
「いつからあたしをその人数の勘定に入れてたのよ……言っておくけど、あたしはライバル店に知恵なんて絶対を貸してやらないんだから。そういうのはあんた達でなんとかするもんでしょ?それに第一……どうして基本的には部外者の紘輝まで巻き込んでるってのよ」
藤乃の指摘に、俺と央はどちらからともなく顔を見合わせた。
「いやあねえ藤乃、紘輝は部外者なんかじゃないわ。ただの道連れよ」
「俺の扱いが部外者よりも酷い気がするんですけどっ!?てっきりただのアドバイザーだとでも言われると思ったよ!」
「ちょっと紘輝、あなたはこの可愛い幼馴染みの実家が落ちぶれてもいいっていうの!?この私と一心同体にも等しい、この素晴らしいお店を!」
「そりゃあこの店は央のためにあるようなもんだし、素晴らしいことは俺だって認めるけど……山城のおじさんには悪いけど、正直なところ経営努力が……って気は薄々してたんだよなあ……」
「じゃあ紘輝は、儲けるためなら純喫茶のこだわりを捨て魂を売って、先行きどうなるかも判らないメイド喫茶にでも鞍替えしろっていうのね!?」
「なんかあたしの家がまた遠回しに非難されてるような……」
「央……それは極端すぎると思うぞ。それに少しは今日の自分の服装を顧みてから言った方が良いんじゃないかな……」
そう、知らない人から見たら、央の服装こそ特殊な客層向けの店員と間違えられてしまいかねない。非常によく似合っているのだが、それとこれとは別問題だ。また、『エスポワール』は本来そういう特殊なギミックが必要のない、また必要とされていない店の営業形態であることもまた確かで、難しいところだ。
その点……
「な、何よ」
藤乃が現在着用している衣装は、誰がどっから観ても立派な……おそらく最近でもそれなりに世間に浸透してきた『メイド喫茶』の衣装と言えばこうなるだろう的な、一般的にイメージされた種類とかけ離れることはないだろうフリフリのフリルを沢山あしらった、扇情的になりすぎず、かといって本格的に禁欲的なメイドの衣装とは一線を画した、記号として、若しくはそれこそメイド喫茶で働くメイドさんと即座に判りうる、とてもキャッチーな衣装だ。スカートは膝上数十㎝といった丈で、動き回るには二重の意味で不便そうなものだが、下に何かしらアンダースコートか見せパンとでも言うのか、そのようなものを履いているのが、特別意識しないでも窺えるくらいのスカート丈。靴下はもはやお約束の、縁にフリル付きの白いオーバーニーソックスとヒールが高めのストラップシューズ。まあわ分かり易いことこの上ないが、それを着ている藤乃の容姿との相乗効果を産み出している結果になっているから、結局とってもよく似合ってるってことだな、うん。
……どうしてこんな回りくどい表現をするのかというと……央の時も思ったが、たとえ見せるための制服といえども、それを着ると女の子という存在はとても……可愛いはずなのに同時に大人っぽさ……要するに働く女性という、今の自分にとってはも眩しさすら感じさせる存在として認識されるという不思議な作用が働くのだ。だが世間で言う思春期真っ直中の俺にとって、そのことを認めるのは負けた気分になるというかなんというか……
「紘輝、そーんなに藤乃の衣装の方がお気に入りなんだ」
気がつくと、央がとっても冷たい視線で俺を見つめていた。それはそれでとっても刺激的ではあるが……
「いやいや違うって、なんかこう……例え有り物のアイディアに乗っかったとはいえ、こうして突き詰めた衣装だと、結構映えるもんだねえ……とか思っちゃったり……はは……」
弁解するたびに央の視線が冷たく鋭く厳しくなってゆく……俺のことを幼馴染み以上として認識してくれているのかどうか知る由もないが、それでも自信の塊である央にとって、他の女の子に幼馴染みの視線が奪われるというのは面白くないんだろう。
「あ、あら……そういうことなら、少しは鑑賞する時間を与えてあげてもいいわ。このあたしに目を奪われるのも仕方のないことだしね……本当ならお金を貰わないといけないのよ?ほら、どう?」
藤乃はどこをどう勘違いしたものか、金色のツインテールを片方の手で、形だけ艶っぽくかき上げ、身体をくねらすが……本人の顔が真っ赤になっているのと、拙くくねらせすぎて場末の下手なダンサーにしか見えないので結局艶消しだ。一応客商売に就いてはいるが、取り立てて人の目に触れるのが得意というわけでもないようだ。店で働いているときの様に、仕事として割り切っているならともかく、今のように一人からしげしげと見つめられるは不慣れなんだろうなあ。……その割に褒められる事自体は満更でもなさそうなところが女の子らしいというか……まあ女の子は全員が生まれながらの女優という例え話もあるようだし、それは央を観ててもうなずける。ファッション雑誌の紙面上で様々な衣装を着て、にこやかに、あるいは人懐っこく、時には物憂げ……と多彩な表情でフレームに収まる央の被写体としての姿は、その説を後押ししているとしか思えない。
場がなんとなく微妙な空気になったことを察した藤乃は、ふと思い出したかのように咳払いしながら衣装を直した。その拍子に胸元から細くて綺麗な喉元と鎖骨の陰影が覗き、その気がないのに意識してしまったことに少しだけ罪悪感を覚える。
「で……藤乃、貴女のところのお店、何て言ったっけ……カフェ・ド・ラ・グリセリンだったかしら、それともカフェ・ド・ラ・ワセリン?」
「あんたわざと言ってるでしょ!なんで喫茶店にわざわざヌルヌルするような名前を付けなきゃ行けないの!?」
「ほら、様々に営業形態を変えるから、掴み所のないって意味で……」
「それだったらいっそのこと『うなぎのすみか』とでも名前を付けるわよ、最初っから!」
もしそうだとしたら思い切りが良すぎるだろう。てっきりウナギを食わせる店かと勘違いしちまうぞ。
「そうそう思い出したわ、カフェ・ド・ラ・コンドロイチンね。あ、カフェ・ド・ラ・グルコサミンだったかしら」
「そんな膝軟骨に良さそうな名前でもないっ!」
「あらごめんなさい、貴女、たまに脚を引きずるように歩いてるから、膝軟骨がすり減ってるのかと思って」
「それはただ新しい靴をおろしたてで、マメが出来て歩きにくかっただけの話よっ!ウチの名前はグリシン!カフェ・ド・ラ・グリシン!」
央も、カフェ・ド・ラ・グリシンの名前の由来を知っててわざと言ってるのだ。グリシンとは日本語で『藤』のこと。つまり、『エスポワール』が央の存在により名付けられたように、カフェ・ド・ラ・グリシン……略してグリシンは藤乃のために付けられた名前だ。伝え聞いたところによれば、藤乃が人と沢山接して、明るい人間になって欲しいという願いから、コーヒーの卸売からコーヒーを淹れて出す方へ業種替えしたということだ。その過程で藤乃と央の親同士の交流もあったらしい。
藤乃の親御さんは、喫茶店の運営方針というか『売り』、即ち特色を散々宗旨替えしていることは述べたが、屋号というか店名は最初からグリシン一筋だ。このことからも、藤乃が親御さんから溺愛されていることがよく分かる。結局のところ、央と藤乃は同い年で境遇も似たもの同士、この二人の反目は、良く言われる近親憎悪の様なものなのかも知れないし違うかも知れない。そもそも幼馴染みとはいえ二人の心の奥底まで判るはずもないし、仮に判ると思ったらそれは思い上がりか、さもなくば妄想とでもいうべきものだ。
「ふ、ふん、あんたがどう思おうと、私の店がこの界隈で一番流行っている喫茶店という事実に変わりはないけどね。せいぜい負け惜しみだと思っておくわ」
俺と央は再び顔を見合わせる。だからそれをいちいち宣言してどうしようというのだろう。確かにこの店は流行ってないし潰れてしまったら困るけど、だからといって一番稼ぎのある店に憧れているわけではない。
「話は戻るけど、あたしは貴方たちに提案することなんか皆無なの。確かに同業種間での競争は大事だけど、だからといってあたしがあんたたちに協力してあげる理由なんてこれっぽっちもない、それはわかるわね?」
「そんな……私たち、幼馴染みじゃない!それに同業種と言っても私たちのお店はスタイルも違えば客単価と客層も大違い、少しくらい店の売り上げが上向くような助言をしてくれても、食い合うようなことはないと思うから……」
央はいつもより少しだけ頼りなさげな、儚い雰囲気をたっぷり込めて上目遣いで言う。上目遣いと言っても、身長は央の方が二十センチ近く高いため、無理矢理に身を屈め、藤乃の顔をのぞき込むような上目遣いだ。だがもともとが黒髪の美少女と言うこともあって、こういう演技をするととても良く映える。……そう、俺程度が簡単に見破れる程度の演技なのだ。しかし……
「央……あんたって子は……そんなにまであたしを頼りに……これが藁にもすがるってやつなのね」
「そうそう!藁のように繊細で華奢な藤乃にすがりたいの」
うん、藤乃は藁にもすがるって本当の意味、知らないんじゃないかな。央もそれを分った上で乗っかっている。他人が居たらさぞかし残念な二人に見えたことだろう。
それにしても、あんな見え透いた演技で真に受けてしまう人が居るもんだなあ、これが。数々の詐欺事件が減らないわけだ。俺だって、仮に央とは全くの他人だったとして、初対面で美少女にこんな懇願をされたら簡単に参ってしまうかも知れない。だが央は他人に対して、本気で、尚且つ安易に同情を誘ったり媚びを売ったりする人間ではないことは判ってるつもりだ。つまりこの央の物言いは、ほとんど冗談の範疇なんだ。……このもう一人の幼馴染みの受け止め方がそれで済まないのは、何と残念なと言わざるを得ない……
「とまあ冗談はこれくらいにして」
「冗談だったの!?今までの話全部!?」
藤乃は目を白黒させてひっくり返りそうになった。央の大胆すぎる話題の転換は、こればかりはいつまで経ってもどんなに付き合いが長くても慣れそうにない。