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-Bitter sweet salty sweet- New act  作者: サトシアキラ
3/7

act.3

 親父さんに代わってバリスタを務めることもあるだけに、その手際の良さは本職を上回るまでは行かなくとも、決して見劣りはしない。なぜそんなことが言い切れるのかと言えば……俺も親父さんの手並みを見慣れるくらい『エスポワール』に入り浸っているからだ。……もちろん看板娘目当てに。それまで大人連中に混じって仕事をして、手の届かなくなってしまいそうだった央が、実家でアルバイトをしてくれるっていうのは、俺にとってどれだけ安堵の材料となったか。

 看板娘として不特定多数の眼差しに晒されるのではないか、という不安要素はあったものの、大人連中が何をしているのか判らない仕事をされるよりは余程マシだからな……我ながら勝手極まる理屈だが、それくらいの焦燥感が以前には有ったと云うことだ。

 山城のおじさんにとっても、この『エスポワール』は特別な意味を持つ。それまで結構な大企業のエリートサラリーマンとして仕事一筋に生きてきたが、結婚したのち割と時間が経ってから待望の娘が産まれ、娘可愛さのあまり自分に残された時間と娘と一緒に居られる時間を天秤に掛けた挙げ句、思い切りよく脱サラして、知識と興味のあったコーヒーメインの喫茶店を構えることにした……という次第なんだそうだ。仕事一筋の人生の最中、娘に恵まれ、自分の新たな希望となったことから、屋号はフランス語で『希望』を意味する『エスポワール』と名付けたとか。それにしても、よくその脱サラにおばさんが賛同したものだと思ったが、央に因ればもともと仕事中毒の夫の先行きを案じていたようで、むしろ賛同していたと聞いた。つまりこの『エスポワール』は、山城家全員の希望を体現した店であるとも言える。


 程なくして、広いとはお世辞にも云えない店内に、芳醇としか例えようのない、心の奥底まで届きそうな良い香りが満ち、俺の前に一杯のコーヒーが差し出された。この香りももはや俺の日常の一部となり、俺という人間の中に溶け込んでいると言って過言ではない。

「エスポワール特性ブレンドか……いつも良い香りだ」

「お客さぁ~ん、これはマンデリンなんですけど。風邪でも引いて鼻が悪いんじゃなければ、余計なことは言わない方が身のためッスよ」

 ぐっ……そんな目で見ないでくれ。たまには常連さん気分を味わいたかっただけなんだ。親父さんの話に依れば、央は匂いだけでコーヒーの種類が判るという……エスポワールで取り扱ってある、さらに単一銘柄の豆で淹れたコーヒー限定らしいけどそれでもすごいや……ってメニューに目をやると、八種類のおすすめオリジナルブレンドを選択肢から除外したら、マンデリンかトラジャしか残らないじゃねーか!ここは喫茶店だしコーヒーにもこだわりが強いが、偉ぶったコーヒー専門店ってわけでもないから、メニューとしては妥当な範囲なのだろうか……

「紘輝、貴方のその背中の痕は……私が付けたも同じようなものだわ」

 央は、一息ついたあと、さっきイヤミを言ってくれたのとは全く違った……真面目極まりない口調で語り出した。

「やっぱりか……そうじゃないかと思ってたんだ、消去法の問題で」

 多分、俺の方にも真相を知ることに少しだけ気恥ずかしさと動揺があるようだ。自分の知らない記憶なのだから仕方ないと言い訳させてもらおう。そのためにコーヒーを淹れてくれたのだろうから。気を落ち着かせるために優雅に味わいたいところだが……一端話の方が気になり出すと、今度は味の方に集中できない。美味いに決まってはいるのだが、やや後ろめたそうな央の貌が気になる。ま、端的に言ってしまえば、央ぐらいの可愛い子ならどんな貌をしていても似合うのだが。たとえ梅干しの酸っぱさにひょっとこのお面もかくやというほど悶絶していても……流石にそれは微妙か。

「あのキャンプの夕食後、まあお約束なことに肝試しをしようって話になったのよ」

 確かに想定の範囲内のイベントではある。特に子供ならば大好きそうだ。それに、肝試しのスリルそのものよりも、肝試しを体験するという方が本当の意味合いかも知れないし。

「でもキャンプ場は承知の通り薄暗くて、丁度近くにおあつらえ向きの神社があったからそれはいいとして、準備もしていなかったから照明も最小限。でもまさか、大人が付き添っているのに何かが起きるなんて、誰かが想像すると思う?」

 ……央、これってその……背筋が寒くなりそうな、いわゆるユーレイ的な方向に話が進んでいってやしませんかね……?霊魂の存在を頭ごなしに否定するつもりはないけど、自分の身に降りかかったなんてのは後で聞いた話だって御免被りますぜ。

 俺の顔色が青ざめているのに気がついたのか、央はくつくつとわき上がる笑いをこらえていた。しばらくそのままで、ようやく吹き出さないようにして呼吸を整えると、そのツリがちの眦に溜まった涙を、これまた優雅なラインを描く指先でぬぐい去った。

「大丈夫大丈夫、そういう怪談話的なものじゃないから。それとも……紘輝はこの話を思い出した上で、私に気を遣ってくれてるからそういうおどけた感じに振る舞っていてくれてるの?」

「ハハッ、俺がそんな気遣いの出来る男に見えるか?」

「ぜーんぜん」

 即答された!

「でも嬉しいよ。少し気が楽になっちゃった。……問題はここからね。ま、私は紘輝が知ってるようにこんな性格だから……予定されたコースをずんずん外れて、あらぬ方向へと行っちゃったわけ。本当ならお父さんとか紘輝のおじさまとかもコース周辺に潜んで、密かに見張ってくれているはずだったんだけど、私はそのコースを外れて、紘輝の手を引っ張ったまま本当に危険な方へ行っちゃったみたいなの」

 整った口元に浮かぶ後悔。ともすれば見逃しそうになるそれは、非常に小さい変化だが、共に過ごした時間が長かった俺には手に取るように、自信を持って判別できる。さっきのコーヒーの香りのような俄仕込みの知識とは大違いだ。ひょっとすると、俺と央の共通の財産って、直接的にどの期間の間一緒にいたという記憶じゃなくて、こういった事細かなやりとりにこそその真価があるのかも知れない。

「キャンプ場は本来開けたところにあるハズなんだけど、そこから離れちゃって、ちょっとした崖みたいなところにまで脚を踏み込んじゃってたみたいでね……」

 そこで央はふと目を閉じた。最初から全てを打ち明けてくれている腹づもりの筈なのに、そこから先を口に出すことは極めて難しいもののようだった。しかし……

「そこで二人して脚を踏み外して岩場へ落ちたらしく……紘輝が下敷きになって衝撃を吸収してくれたのか、私はかすり傷と青あざを作る程度で済んだんだけど……」

 ……おおっと、ここまで聞いても全く記憶が無いからなのか、ほとんど人ごとのように聞こえるぞ。キャンプに行った記憶はあるのにその結末は記憶にない。半分以上他人の記憶任せじゃあ、確かに人ごとにしか聞こえないだろうが。

「俺は大怪我だった、と」

「うん……」

 すっかり神妙な面持ちの央は、これ以上は俺の顔を見て話すには辛すぎると思ったのだろう、誰も居ないカウンターの奥、厨房を見据えた。央の話が本当だとしたら、確かに自分のせいだと言っているのだから辛いだろう。でもそれを咎めるつもりは無かった。

「そのとき、私は取り乱しちゃって……紘輝が死んじゃうってずーっと叫んでたらしいわ。こればっかりは自分でも覚えてないんだけど……それでも、肝試しのコースから離れたとはいっても所詮は子供の脚だから、お父さん達の居た場所からはそう離れてなかったみたい。だから手遅れにならないうちに救急車で運ばれて……」


 私は自分の身勝手さに呆れ、後悔したんだ、ほんとだよ。


 そう言って振り向いた央は……

 大きな瞳にも、長い上下の睫にも、透明な雫が溢れかえりどんどん零れ落ちてゆく。

 そういえば、央が本気で泣いているのを見るのは初めてだったか。長い付き合いだと思ったけど、まだまだ観たことのないものは沢山あるんだな。でも、綺麗だからちょっとトクをした気分であるのもまた確か、か。

 その当りからだろうか、俺の記憶がかすかに蘇りつつあったのは。央の真摯な涙を目の当たりにしたからなのだろうか。そうだとしたら随分と恩着せがましい記憶である。

「子供だったからっていう言い訳はしたくない。だって……最初っからみんなの言うことに素直に従っていれば、あんなことには絶対にならなかったんだから」

 思い出してきたぞ。

 月の出て明るいはずの夜空も木陰に遮られて薄暗い、鬱蒼とした細道。その中を木々をかき分け小走りに突き抜ける二人の小さな影。一人は懐中電灯の明かりを頼りにもう一人の手を引き駆ける。先を行くのはもちろん央で、手を引かれているのは俺だ。あの時は央の方が少しだけ背が高かった。幼馴染みと言っても半年ほど俺の方が誕生日が遅かったこともあって、積極的にお姉さんぶってたんだよな。お互い一人っ子だから、お互いに姉弟のように思っていて少しだけ嬉しかった覚えもある。だからこのときも、お姉ちゃんに素直に従う、弟を演じて心地よさを味わっていた様な気もする。

 その内に央が木の根っこに躓いて転び、懐中電灯を手から落として壊してしまう。人間の灯りに対する信頼というものは、それを用いることにより動物と人間との差を明確にしたという自負もあるからか、非常に大きいものがある。しかし、いざそれを失ってみると……自然界の中では子供二人なんて、本当に取るに足らないちっぽけな存在に舞い戻ってしまうのもまた確かで、二人してそこら辺の草場にへたり込んでしまった。……と言ったものの、ここは弱肉強食という自然の掟が支配するジャングルでもサバンナでもない、単なる人の手の入ったキャンプ場の周辺なのだが……

 やがて散々歩き回った挙げ句、近くで親たちの俺等を呼ぶ声が聞こえた。これで助かった……と思ったのも束の間、声の聞こえた方へ掛けていこうと思った瞬間……両足から重力が消えた。あっと思ったときには二転三転、気がついたときには体中が痛くて……例の痕は、どこがどうなったものか、傷を負った直接の原因は判らない。でも痕はその直後は痛くも痒くもなく……感覚という感覚が一切消失していた。それが確認するのも恐ろしいほどの状態の証拠だと悟るのは大人も子供も一緒なのか、俺は絶対に痕を見ることもしなかった……それに、怪我がどんなに酷いかは、傍らに居る央の取り乱し様から判ってしまったから。

 やがて意識を失って……そこからは本当に何も覚えていない。人間が生命維持機能をフルに働かせるとき、脳が必要のないファクターを一切遮断してそのリソースを生命維持に回すと聞いたことがあるが、多分俺の意識と記憶もその類いだったのだろう。ま、折角治療してもらっているときに泣き叫ばれても身体の方が面倒だと思ったに違いない。それも麻酔が効くまでの一瞬だろうが……

「それから……面会謝絶になって、私は後悔に後悔を重ねた……けど、紘輝をこんな目に遭わせたのが自分だと言い出すのが怖くて仕方が無かった……折角両親同士仲が良かったのに、その仲がこじれて疎遠になってしまうかも知れない……自分が怒られるのももちろん怖かった……でも紘輝に責任が行くのだけは止めようと思ったのに……卑怯だよね、私。結局自分が可愛いばっかりに」

「央……」

 押し出されるように紡がれる央の言葉を信じるなら、おそらく央が一番言いたかった、打ち明けたい想いだったのだろう。

「でも、意識を失ったり取り戻したりする紘輝は、うわごとのように『僕が悪かったから、央おねえちゃんを責めないで、おねえちゃんはわるくないよ』って繰り返し言って……」

 その話を聞いている俺はというと……正直なところ、幼い自分がそんな殊勝なことを言うものかどうか確信が持てなかったが、こうして全てを吐露している風に見える央が嘘をつくとは思えない。当時の俺はどれだけ央という存在を得難く思っていたのだろうかという、思いの丈であるとも言える。

「結局、私も本当は自分が悪かったってその後に言い出したけど、なんやかんやでうやむやになって、結局二人の責任ってことになっちゃったみたい……子供の言うことがどれだけ信憑性に足るなんて判らないからね。それにお互いの両親もどっちが悪いと言い出すこともなく……お互いに安全確認不足だったと手打ちにして……問題は紘輝が怪我から回復したときにどうするか、だったけど、紘輝はそのことをさっぱり忘れていた。自分がどうして入院してたのかも忘れちゃってたみたいだし、それを聞こうともしなかった。だから私も……それに従った。いつか紘輝がその話に触れるときが来るんじゃないのか、そのときに私は、命の恩人ってだけじゃなくて責任まで被ってくれた人に対してどうすればいいのか、密かに悩みながら……」

 ……そうだ、キャンプ一日目から十月辺りまで記憶がすっぱり抜け落ちている理由がこれでわかったかも知れない。つまり俺も、幼い頭ならではの柔軟性で、それについては触れない方がいいと本能的に悟って、記憶から一時的に除外しようと思ったのだろう。人の記憶というものは、今俺が央の涙によって記憶を取り戻したようにある意味では強固、しかし且つ都合が良いように改竄もされ易い。結果的に家族ぐるみの付き合いが未だに続いているし、俺もこうして後遺症らしい後遺症が出ることもなく生きている。痕は残っちゃあいるが、なあにこの程度、大好きだった人の身代わりになったと思えば……全てが結果オーライ的な発想に因るものではあるが。

「おねえちゃんの身代わり、か」

 ふとそう口に漏らしてしまってから気がついた。央にとって、俺を弟扱いしていた過去は、どちらかというと忘れたい方だったってことを。若気の……ならぬ幼気の至りだったとしても、特に根拠も無くお姉さんぶっていたのは恥ずかしいことだったらしい。

「その……ほら、昔そう呼んでたのを思い出しちゃって……ははは」

 だからてっきり殴られるかと思ったら、央はそれはもう恥ずかしそうにアルミ製のトレーで口元を隠していた。その整った顔じゅうを桃色に染め、潤んだ瞳でちらちらとこちらの顔色を窺う姿は……央に惚れている自分でも、久々に惚れ直してしまうほどの可憐さだった。

「なんか……その呼び方、ちょーなつかしーんですけど」

「俺もちょっと照れくせえ」

 俺まで意識しだしてしまったらキリが無い。二人してしばらく無言で目配せしあったあと、その沈黙に耐えきれなかったのは俺の方だった。

「なんか、こんなの俺たちのガラじゃねえよな。恩人だどうとか、ってさ」

「紘輝は本当に……何とも思ってない?」

「もう済んだことさぁ。家族間も……まあ親同士の含みは多少あるかも知れないけど、それによって今すぐ俺と央の仲がどうなるって程度でもないし、そういうものを殊更言いふらさずに胸にしまっておいた方が、男としてカッコイイだろ?」

「あはは、そう思ってても黙ってないで口に出しちゃうのが紘輝だよね」

 さっきの恥じらい顔はどこへやら、いつもと同じように楽しそうに破顔する。この笑顔を護ることが出来た。俺にとってそれ以上の大事などあり得ない。そう思った瞬間、昔からの募り募った想いが、胸の奥から突き出されるように上に登ってきた。

「なにより……」

 ごくり。

 自分としては、きっちり気持ちを整理するつもりで唾を嚥下したつもりなのだが、思いがけなく言葉が止まってしまった。一言で完結に言い表わすつもりだったし、その心意気もあったが……でも言わなきゃ。きっと、態度をハッキリしないと……いずれ央は俺の元から消えてしまう。きちんと形に、言葉にしなければダメなのだ。女とはそういうものだそうだし、特に央は本来なら俺の考え得るスケールに収まるような人間じゃない。幼い頃から憧れ続け、一端は距離が遠くなった気がして……そして今は俺の目の前に居る央。今が最後のチャンスだ。そう思うと、再び一気に心が楽になった。

「大切な……央が無事ならそれでいいから」

 今度ははっきり言えた。一度すっきりしてしまうと、そのあとの言葉もすんなり喉の奥から運ばれてきた。

「俺の大好きな央が無事なら」

 ……一体自分はどんな表情で想いを伝えているのだろうか。自分としては精一杯真面目な……それこそ、生まれて初めての伝える感情に相応しい、真摯な顔つきであって欲しいのだが……自信はない。ひょっとすると頬が引きつっているかも。ないない尽くし、自信も金もコネもおつむの出来も運動神経も性格も将来性もないない尽くしの俺だが、唯一あるものと言えば……。今この瞬間のような、募り尽くした央への想いだけ。それだけは……誰にも確認出来ない、姿形の無いものだが、それだけは誰にも負けるつもりはなかった。

「……紘輝」

 ふと気がつくと、なんで俺は告白までしちまっているのだろうか。いくら何でも勢いに任せすぎというか、もし断られたらこの先どうやって央と顔をつきあわせればいいのか判らないっていうのに……しかし、自分の記憶を取り戻した安堵から、そのときの央の姿から、ついつい愛しさが募ってきたというか……でもだからといって……ああああ!こういうのは冷静になったら負けだと判っていても、ふと冷水を浴びたかのように、頭の芯の方まで冷気が貫通していく。胸の動悸と共に、悪い方向への予感が膨れあがっていくのも止められなかった。

 恐る恐る央の顔を見上げると……

「紘輝……私……嬉しっ」

 口元を抑えて、なにかをこみ上げながら、歓喜なのか何なのか判らないが身体を小刻みに震わせている。でも……そのセリフから、俺の一世一代の大バクチは成功したと知れた。……ははは、なんとかなるもんだな。個人的には難事業に挑戦し、成し遂げたつもりだが、二人には元々他の人間を選ぶなどという選択肢は存在しなかったのかもしれない……などと自惚れるのは止めておこう。

「それ、幼馴染みから先に進んで良い、付き合って良いって意味で捉えてオーケーなのか?」

「うん……」

 そこまで聞いて、ようやく俺の緊張が解れた。これで俺の勘違いだとかそういう類いのものではないと自覚できたからだ。思わずぶはーっと息を吐いた。胸の動悸はむしろ心地よい方へと運びつつある。

「だってずーっと待ってたんだよ、その言葉」

「ずーっとって……?」

 央は視線を少しだけ外して考えるような素振りをみせ……

「十六年くらい」

「産まれたときからっ!?俺のことどんだけ好きだったの!?」

 なんというか……オドロキの連続だし、モデルをやっていて大人っぽかった央が常に俺の先を進んでいて、もっともっと大人たちとの付き合いがあって、そういう奴に惹かれててもおかしくないと思っていた。それを打ち明けると、

「確かに年上の業界のお兄さんに会って、ちょっと今までとは違う大人の人だな……って感じたことはあるけど、それは単に年上への憧れの域を出ないって判ってたから、勘違いしないようにって自分に言い聞かせてたの」

 央がしっかりとした自覚を持っている子で助かった……これがもう少しノリの軽い子だったらどうなっていたか分ったもんじゃない。

「どうして私が勘違いしなかったかわかる?」

 涙は流れ終り、しかし未だ赤い瞳で洟をすすりながら、央は悪戯っぽく片眼を閉じながら聞いた。

「なんだろうな……モデルの仕事をしてたから、自然に男を見る目が養われたとか?」

「ちがいまーす」

「じゃあ……家庭環境からとか?親父さんが実は女殺しの名人で、しょっちゅうおばさんが泣かされていたから、その反面教師として見つめるうちに」

「ちょっとぉ、『あの』私のお父さんがそんな人だったように見えるぅ!?」

 もちろん見えない。親父さんは、年を取ったらこうありたしというくらいのナイスミドルで、好々爺……と表現したら失礼かも知れないが、笑ったときの顔のシワなど、親父さんが歩んできた人生の深さがそのまま刻み込まれているようで、何より味わい深かった。

「降参だ。正解は?」

 諦めて、文字通りのお手上げ。それを見て、央は再び恥じらうような姿を見せたあげく……

「大好きすぎる人が居たからに決まってるじゃん」

 と上目遣いで、早口に。

 うわぁ、またとてつもなく可愛い姿を見せてくれるなぁ……現在央が着ている制服の大人っぽさと、可憐な……その……俺の彼女とのギャップがありすぎて、頭がクラクラしてどうにかなりそうだった。

 ……それにしても、どうして央はここまで俺を好いていてくれるのだろうか。幼馴染みが自分を好いてくれているというのは、ある種の王道ではあるが、いざ自分の身になってみると、その心当たりがなさ過ぎて情けなくなってくるのもまた確かで……

「その……さ、ちょっと情けないことを聞くようだけど、俺のどこが好きなわけ?やっぱり……怪我のことを」

「ストップ。それを言いふらされなかったのが原因なのか、なんて言ったら怒るからね!」

 俺の口を手で塞いで止められてしまった。ならば何が原因だというのだね。確かに俺には央を好きになった切っ掛けらしい切っ掛けはない、強いて言うなら、それまで積み重ねてきた気の置けない彼女の性格と、日に日に美しくなってゆく央の姿の虜となったと言えなくもないが、女の方もそうであるとは限るまいし、人を好きになる切っ掛けが全てドラマチックである必要もないだろう。むしろそちらの方がレアケースではないのか。

「気がついてたら好きになってた……かな。最初は幼馴染みで、居るのが当たり前みたいになってたけど……なんか何でも話せる間柄っていうか、大人の人とお仕事をしてると、色々気が詰まるようなこともあるけど、紘輝と話してたらなんだか落ち着いて……昔っからムチャしがちな私をそれとなく抑えてくれてもいたのを思い出したりして……それを認識した瞬間、これがその……恋ってもんなんじゃあないのかと、えへへ」

 また可愛く笑って誤魔化そうとしやがって。可愛すぎるから誤魔化されざるを得ないけどね。俺としてはその理由で十分だ。こんなないない尽くしの俺でも彼女の役に立っているというささやかな自信が、また才色兼備の、ほぼ隙のない人間だと思っていた央が、他ならぬ俺を好きだと言ってくれたその身体中に満ちあふれる自信が、なんだかとても心強かった。

「央……」

「えへ、なんか改まって向き合うと、すごく恥ずかしくなってくるよね」

 少し身体をくねらせ、はにかむ央の魅力に、小さい頃から募らせてきた感情が抑えきれなくなってきた。只でさえ今の央は……相当刺激的な服装をしているところだったのだ。その気が無くてもその気になってしまう……これは罪作りな感情だろうか、それともそれくらいは仕方が無いといってくれるだろうか……即物的だと罵られればその通りでしかないのだが……ともかく、俺は柄にもなく照れまくる央に一歩、近づく。

「紘輝?」

「……ごめん、なんか今俺、すごく舞い上がっちゃって……だって、こうして央と両思いになったってのも信じられないのに」

 手を伸ばす。央はなにやら不穏な空気を感じ取ったのか、きゅ、と瞳を閉じた……が、もちろん俺がやりたかったことは彼女が僅かに想像したようなものじゃない。

「あ……」

 俺の手が頬に触れるのを感じ取ったからか、央は少し予想が裏切られたと見え、薄く瞳を開け……そして再び、今度はそっと目を閉じる。俺の手に自分の手を添えて、むしろ軽く押しつけるように。俺の感触を確かめるように。

「紘輝の手、大きくてあったかいんだぁ」

「手の温かい人間は心が冷たいって言うぞ」

「ああ、道理で」

「納得しちゃうのかよ」

「嘘に決まってるでしょ」

 こういうふざけたやりとりも、改めて……その……恋人同士……言葉にするとめっちゃ照れるな……になってからすると、心地が良いモンだな。端から見ると完全にバカップル間違いなしなのがちょいと玉に瑕だが……それも恋する男女にとっては勲章みたいなものか。

 そして見つめ合う。俺の瞳に映る央と、央の瞳に映る俺は、果たして自らが自らを省みるのとどの程度同じでどの程度違うものなのかは判らない。でも、これから徐々にわかり合ってゆくんだ。すれ違いもあるだろうし意気投合することもあるだろう。でもそれによってお互いがお互いを学び、成長して……それが……人と付き合うってことなんだろうから。

 不意に、央が瞳を閉じたまま頤を上げた。この意味がわからんほどウブじゃないし、誤魔化すこともしない。恋人同士になったその直後ではあるが、ずーっとそういう関係になることを夢見て居たのだから。それに今機会を逃しては、いつ誰に奪われてしまうとも知れない。そうなる前に……央の存在を俺で塗り潰してやる。独占欲の強い男と思われても、そんなもんどうでもいい。ただ俺は央のために。

 央の肩に手を掛ける。幼い頃は少しだけ央の方が高かったという印象の背丈は、いつの間にか俺が追い越していた。モデルさんをやっているだけあって央も結構背がある方だけど、幸いなことに俺の方がもう少しだけ高い。そんなことでも、幼馴染みだった二人が恋仲になるほど成長したことを実感した。


 いつの間にか夕暮れ時というのに、客一人来店しない、流行らない喫茶店内で、二つの長い影が一つに重なった。

 いけねぇ、この『エスポワール』を流行らせる算段、ちーっとも捗ってなかったわ。ま、これから央と二人で考えていけばいいや……

 

 重なって一つになった影が再び二つに分かれ、俺と央の唇が乾きかけた頃、店内に闖入者が……って、それが顔中を涙で濡らした央の親父さんだと知れた時は驚いたなぁ。激しい嗚咽でなにを言っているのか判然としなかったけど、断片的なのをつなぎ合わせると……紘輝くん、ふつつか者ですがよしなに……とか、もう後継者には困らない、とか、幸せに、とか……要するに、ここまでの一部始終を聞かれていたって事だ……気を利かせて俺と央の二人きりにしてくれたはいいが、仲が進展しすぎて帰ってくるタイミングが掴めなかったらしい。ま、それはそれでいいんじゃないかな、もう。

 央は、とみると、まるで人ごとのように笑っていた。

 誤魔化しも含めて照れてるんだろうなあ。



 で。

 俺と央が両思いになってからしばらく……今までの、非恋人状態での付き合いが長すぎたせいか、今更恋人同士らしい何かをするまでもなく一週間が過ぎてしまっていた。こういうのはあんまり褒められたもんじゃないと思うんだけど、央と想いが通じ合えたら良いなと普段から願っていたにも関わらず、いざ本当に願いが叶ったら叶ったで、特別それらしいことをしてみたいということも考えつかなかった。

 そこで何とか、ムリヤリ、とでも言おうか、『それっぽい』事として、とりあえず男子の一種の憧れであろう、お弁当を作ってもらうことになった。本人は割と本気で面倒くさがっていたが(これが恋人に成り立ての彼女の振る舞いだろうか)、とにかく一回だけということでワガママを聞いてもらえることになった。

 お弁当……母親がこさえたお弁当、自分で侘びしくも慎ましくこさえたお弁当、美味いことは美味いがどこか心境的に複雑なコンビニ弁当……世の中に弁当と名の付くものは数あれど、『恋人が作ってくれたお弁当』に優る品などこの世には存在しないわけで……異論は認める。央の料理の腕は、発想こそアレだが腕そのものはごく普通だ。卵焼きを作っても黒焦げとか、塩と砂糖を間違って入れてしまうというお約束を心配する必要もない。別に何から何まで健康に配慮し、天然食材を全手作りでやって欲しいなんて事も言わない。ただ冷凍品を解凍するか昼飯の時間に丁度自然解凍するころを見計らって、弁当箱に詰めるだけで良い。それだけで、個人専用の手作り弁当というとてつもない付加価値の逸品がこの世に生み出されるのだ。まさしく料理は愛情!……料理と呼べるほどの料理じゃないというのは置いといて。


 さて、今日はその出来映えを堪能する日である。

 他人に冷やかされぬように、また他人の余計な視線で弁当の愛情成分が薄まらぬよう、予め校庭のすみっこの方に良かろう場所を見繕っておいて、当日は何かしら理由を付けて教室を抜け出そうと画策していたのだが、今日は生憎の天気で、帰宅部である俺には部室で食うアテもなければ、便所飯なんてものをする気も無い。結局いつも顔を突っつき合わせてる男友達連中と弁当を広げることにした。

 まさかその央が桜でんぶでハートマークなどと言うわかりやすい愛妻……ならぬ愛情弁当を投入してくるわけもないだろうから、こちらが何も言わなければ至極普通の、おふくろが作ってくれたいつもの弁当を広げているとしか思われず特別関心を引かないという公算が高い。ちなみに央とは別のクラスである。

 登校する前、央がわざわざ家にまで来て、無言で弁当の入っている巾着を突きだしてきたときの、ちょっとぶっきらぼうな仕草を考えると……また頬が緩んできてしまいそうになるがぐっとこらえる。

 鞄から弁当の入った巾着を取り出す。弁当を取り出してみれば包みは普通の……緑地に白の唐草模様という、普通を通り越して今やギャグの域に達している風呂敷の包み。これが目に飛び込んできたときは時は少しだけ嫌な気分がしたが、中身はそう悪くもあるまい……と達観……楽観……して、いそいそと包みを解く。

 中から姿を顕わしたのは……普通の、アルミに似た質感の、確かアルマイト製って言うんだったかな、弁当箱。安堵してその蓋を開けると、じゃじゃーん!

 中から姿を顕わしたのは……普通の、アルミに似た質感の、確かアルマイト製って言うんだったかな、弁当箱。安堵してその蓋を開けると、じゃじゃーん!

中から姿を顕わしたのは……普通の、アルミに似た質感の、確かアルマイト製って言うんだったかな、弁当箱。安堵してその蓋を開けると、じゃじゃーん!


 嫌がらせかっ!弁当箱の中に弁当箱が入ってる!

 外の弁当箱に収まるように、微妙に内側の箱が小さくなっていってる。ロシアの民芸品・マトリョーシカもビックリだ。これが可能なサイズの弁当箱を選別するだけで一苦労するんじゃないか? この嫌がらせを成立させるための弁当箱選別には労力を厭わない。……どこか労力のかけ方が間違っとりゃせんか。

 とはいったものの、四枚目で飽きたのか労力が尽きたのか、箱の上に

『いい加減飽きたし面倒くさくなったので、もうやめにします』

 という書き置きが……両方だったか。さてその言葉を信じて、いよいよご開帳。嗚呼此の感動たるや、筆舌に尽くしがたい。さて!どんな弁当だ!?


「うわあ」

 自分でも全く情けない声しか出せない。だいたい他にどのような感嘆を示せというのか。 ……弁当日の丸だった。

 日の丸弁当ではない。

 弁当日の丸だった。

 赤い梅干しが弁当箱一面に敷き詰められた上に、申し訳程度の白い米粒が何粒か乗っている。日の丸弁当の逆だから弁当日の丸、もうあの文化祭の喫茶店のメニューのノリである。しかもただ米粒が乗っかっているのではない。ご丁寧に、米の一粒一粒でそれらしくハートマークが象ってあった。

 俺のうめき声とも付かぬ声を不審がった男友達は、弁当の中身を見て絶句するやら腹を抱えて笑い出すやら、でもハートマークのデコレーションだけに、誰が見ても近しい関係の女子が差し入れてくれた弁当以外の何物でも無いのだ。それからしばらく、教室内は、罪人をさらし者にする京の三条河原にも等しい場と化した。彼女の怒りに触れ、尻に敷かれた駄目男としてさらし首に会っているのはもちろん俺である。

 もう二度と央に弁当作りを無理強いしないと心に決めた、幼馴染みと恋人になったばかりの昼下がりは過ぎてゆく。これからの俺は……前途多難なのか順風満帆なのか、それは神のみぞ知る、のか?

 ふと教室の入口を見れば、央がニヤニヤした、腹立たしいくらい『してやったり』という顔でこちらを覗いていて……俺と目が合うと、満足そうにその場を離れる。


 俺はとりあえずその後を追う気にもならず、後で央にどう抗議をしたら良いものかを検討しつつ、膨大な梅干しをどう処理するかを最優先に考えながら、乾くであろう喉を潤すための飲み物を購入しに、喧噪に包まれたままの教室を逃げ出すのだった。


 ほんと、俺はしょっぱい野郎である。


-了-

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