act.2
「ってなことがあっただろう、だから奇をてらわずに、きちんと親父さんと相談して研究をしてだなあ……」
「それも原価の管理とかどこから安定して仕入れるとかで、言うほど簡単じゃないんだけど……ま、飲食店を経営してるんだから、そこらへんの悩みは当たり前よね。あーあ、結局素人である私たちが考えるだけ損なんじゃないの?」
「そうとも限らないと思うが……得てして素人の思いつきが新商品開発のヒントなるなんてこともよくある話だし……具体例はよく知らんが」
央のように、インパクトというかウケ狙いで考えている内はそうそう当りは引けそうにないのだけは間違いない。
「紘輝、あなたはそもそも私を料理の素人と断じているけど、私の腕前をどれだけ知ってるっての?」
央はさも不服とばかりに、腰に手を当てて仁王立ちになった。またそんな格好をすると、エナメルのシャツの上からでも立派な何かがつまびらかになるんですけど……もちろん何が、とは直接的には言いませんけどね。
「知ってるもなにも……中学二年生の時だったかな、体育祭の時に俺とお前んち、二家族分弁当を作ってきてくれたことがあるじゃないか」
「じゃあそれ、不味かった?美味しかった?」
「そりゃあ……美味かったよ」
基本的に大人数向けの簡便な、お握りを握って冷凍食品を暖め詰めるだけの弁当だから失敗する要素は皆無とはいえ、それを素直に美味いと口に出してしまうのも癪だが、否定しても嘘をつく事になる。例えばこれが……央が俺のために……中身は同じようなありふれたものでも……作ってくれたのだったら最高だったんだけど。
「そーでしょーそーでしょー。私、やれば出来るんだよねー。そう、何でもやれば出来る精神でここまで来ちゃったんだから、ひょっとして天才?」
……そして少し褒められただけでこの有様である。ポジティブシンキングも結構だが、もう少し自重する塩梅を身につけても悪くはないと思うが……央なら何でも出来る、そう思わせる何かが、彼女の全身から溢れているのもまた確かだった。本当に羨ましいと思う。
ここら辺りが、央に対して抱く複雑な心境の一端だ。央は現役モデルの才女、それに引き替えこちらは何の取り柄もない平凡極まりない高校生。唯一平凡でないところがあるとすれば……こんな可愛い幼馴染みが居たことくらい、か。
ともすれば卑屈になってしまうような状況でも俺がやってこられたのは、ひとえに彼女の性格の賜だった。央の性格がそう言っているのだ、私が好きだったら理屈は要らない、力ずくでも振り向かせてみなさい、と。でも、今の自分では、央に相応しいように男を磨くと言っても限界がある。いったい、誰がどうやって頭脳明晰容姿端麗性格闊達、ほとんど漢字で言い表せる彼女に比肩出来うる功績を挙げれば良いだろうか。近い将来的には、せめて国立大への進学?それともスポーツで新聞の一面を飾れるくらいの活躍?どっちにしたって今からじゃ遅い。勉強だけは必死に頑張って央と同じ、県内でも有数のレベルの学校に滑り込んだが、運もそこまで。央は学年でも相変わらずのトップクラス、俺と来ては下から数えた方が早いという体たらく。ひょっとするとその遅いという諦めが一番の敵という気もするが。……いずれにせよ、この様にうだうだ悩んでいる人間になど、央は振り向いてくれそうにない。
「央って、昔からそうだったよな」
「えっ?」
本当に、何の気なしに口を突いて出てしまった。昔から太陽のように眩しかった幼馴染み。彼女があまりにも眩しすぎて、直視できるものではないと自分が認識し始めたと同時くらいに、央への憧れも始まったようなものだ。
小中高と奇跡的に同じところに通えた事実に満足しているだけで、大した努力をしたこともない自分が彼女を羨むのもお門違いだし、央も仕事で忙しかったはずなのに常にトップクラスの成績を維持、それは仕事の合間を縫って猛勉強していたからだということも知ってるし、また食えない大人連中を相手にここまでモデルの仕事をバリバリこなしていた、その精神的逞しさも知ってる。でも……ほんのちょっとでも彼女を羨んではいけないなんてこと、ないだろう?少しはそれくらいのことがあっても……許されるはず……やっぱ、許されないか。口を出てきそうになる、長い間に積もった鬱屈した気持ちを、ムリヤリに飲み込む。せめてこんなところでも彼女に相応しい人間になりたい、彼女にやりどころのない不満をぶつけ、ささやかな慰みを得るような人間になりたくない。ほら、女の子の前でカッコ付けたいなんて、悠久の昔から男の本能的な願望みたいなもんだからな。一時の感情に任せて、他人に誇れる僅かな箇所を、危うく自ら投げ捨てるところだった。
「そうだったって……何よ」
「いやさ、ほら、昔っから無鉄砲で、俺たちの周りをひっかきまわして」
「え?えへへ、そうだった……かな?小さい頃のことはあんまり覚えてないんだよね~」
いつからだろう、たまにお互いの昔のことに言及すると、なんとなくはぐらかされてしまうようになったのは。俺だって幼馴染みと昔話をしたいときくらい、ある。でも、不思議と央はそれを拒否したがるのだ。
「覚えてないって……少しくらいは覚えてるだろ?ほら、みんなでキャンプしに行ったことはいくらなんでも、さあ」
「んふふ~」
央は苦笑いともつかない貌で首を傾げるばかりだ。央ほどの頭脳の持ち主が、こんな昔のイベントを覚えていないはずはない。まず、俺たち両方の家族全員が一様に顔を合わせるなんて機会は、いかに長い間家族ぐるみの付き合いをしていたといえどもそうそうあるわけではない。それに加えて、ただ世間話をしにキャンプ場に行ったってわけでもなく、テントを買って、央の親父さんにそれらしい車をレンタルしてもらい、飯盒炊爨のための準備もし、二泊三日の『いかにも』なアウトドアを企図した催し物だったからだ。あのとき、なにか特別なことが起こったわけでもないけど、忘れようとして忘れられるほど陳腐なものでもなかったはずだ。となれば……央はそれをあまり思い出したくない、ということである。いったい何が原因なのか。
本来なら、央自身が煙に巻こうとするならそれでいいとも思ったけど、俺と央の数少ない、他の人間の知らない央を……言わば独り占めできる極めて限定的な思い出なのだ。忘れる……忘れるフリをされる方が面白くない。あの時はごく普通にキャンプをしただけだと思ったが、なにかあったっけ?央がその話題に触れたくないことが……
「央、正直に言うと……あのキャンプのことを忘れたと言われるのは納得がいかない。お前にそう惚けるだけの何かがあったってことだけは確かだけど、この目の前に居る幼馴染みにはそれが分らないんだ……ひょっとしたら俺が何か粗相をしたのかも知れない。もしそうだったら……今からじゃあ遅いかも知れないけど……謝るから、きちんと言ってくれないか」
顔を背けようとする央に正面から向き合い、真摯に訴えた。ここで俺の方が照れたり遠回しにしてはいけない。きちんと俺が本気であると彼女に知らしめなければ駄目なんだ。央は割とそういうところの理解が苦手なフシがある。だからこそここまで自分の意見と直感を信じて積極的になれるのかも知れないが。
「……」
俺の本気度合いが伝わったのか、央はさっきまでのような、おどけた態度を改め、急に視線をあちこち彷徨わせた。
「紘輝」
「何だ?」
「手、痛い」
気がつけば、俺の両手が央の両肩を強く掴んでいた。まるで央をどこにも逃がさないぞ、と言わんばかりの力で。
「あ、ご、ごめん」
慌てて手を引っ込めると、央は両肩をさする。心なしか、顔が赤い。少し驚かせてしまったようだ。
「悪い……ちょっと力が入っちまった。別に乱暴するつもりじゃなかったんだ」
「……分ってる。紘輝はそういうことしない子」
……子って言い方がちょっと引っかかったが、特に怒ってはいないらしい……良かった。俺という人間も、少しくらい自分に都合の悪い解釈をされたくらいでアツくなりかけるなんて……ちょっと反省すべき点だな。
それから……しばらくの間、やや気まずい空気が二人の間を支配した。俺がこの店に現れると、買い物をしてくると言ったまま、入れ替わるように……それこそ俺を避けるように店を外した央の親父さんも、未だ姿を見せない。俺のオヤジじゃあるまいし、いったいどこでなにをしているのやら。親父さんが帰ってくることでこの沈黙を破ってくれるのならそれでいいが、このまま、それほど広いとは言えないこの店内で二人きりというのもそう悪くない……そうだ、今俺たちって確かに二人きりなんだよな。そんな当たり前のことに考えが至った瞬間、俺の胸の鼓動の間隔がとたんに早くなり始めた。普段、結果的に二人きりになることはあっても、こうして改めて意識しないとそう思わないということは、いかに俺が央の存在を当たり前のように受け取ってしまっていると言うことなのか。これは喜ぶべきなのか、それとも本当は心の内で央を『そう思ってない』という証左でもあるのか。
「……認める、あのときのキャンプはもちろん覚えてる」
非常に申し訳なさそうに、まるで一生ものの秘密を打ち明けるように、……幼子がひた隠しにしていたものを両親に打ち明けるように……しかしそれはむろん、両親からみたらバレバレの嘘の類いではあるのだけど。
「じゃあどうして嘘なんてついたんだ」
なるべく問い詰める形にならないように、出来るだけ優しく言ったつもりだったのだが……やはり央はそれ以上のことを言いにくそうにしていた。
「……そういう紘輝こそ、あのとき何があったのか覚えてないの?」
「こっちが訊いてるんだけどなあ……そう言われてみると……ごく普通のキャンプだった、としか」
央がなかなか打ち明けないのに業を煮やしかけるが、まだ急かすつもりはなかった。
自信に満ちあふれていた央の性格というものは、あの時っから既に形成されていたようなものだった。親父さんがわざわざレンタルしてくれたRV車で、二家族六人をキャンプ場に運ぶ道すがら、車内であれこれ喋りまくる姿もさることながら、キャンプ場に到着してからあれこれ俺を引っ張り回すのも、今までの姿とそう変わらない。
「そういえば、あの飯盒炊爨の時でもとんでもないマネをしかけたよな!どっから得た情報だか知恵袋だか知らないけど、『ご飯はお焦げが美味しいの!』とかいって、わざわざ綺麗に炊きあがったご飯にたき火の燃えかすを近づけて焦がそうとしたり」
「とんでもないこと……じゃなくて、幼いなりにより良い食事にするために無い知恵を振り絞ったんじゃない」
「だいたい、火を扱ったりするああいうのは、年長者の言うとおりにしてればいいのにさ。余計なことをするとかえって悪くなるという良い見本が当時っから……あれ?」
そこで、俺の胸底に違和感が潜んでいるのに気がついた。今の今までキャンプは、さっき行ったとおりの央のアクシデント以外なにも起こらなかった、とばかり思っていた俺には、そのとき抱いた違和感の正体に気がつかなかった。
「なんだろう……なにか大事な事を忘れている……様な気がする」
とてもとても大事な、しかし今の今まで忘れていてしまっていた事。大事だけど忘れてしまったその矛盾こそが秘密なのではないか。
「あの時から私は……紘輝に頭が上がらなくなったんだよ」
央をしてそう言わせる事柄……央が俺に頭が上がらないというのなら、その事件がなかったら今頃二人の関係はどうなっていたんだろうか……少々恐ろしくもある。
「頭が上がらない……って大げさだなぁ、俺が央に対して貢献できたことなんて、今まで一度も……」
「やっぱり紘輝の方が忘れちゃってたんだね」
さっきまでの苦笑いを含んだ表情とは違う、真摯な面持ち。今度は俺が緊張する番だ。いったい央に俺が何をしたというのか。身に覚えがないだけに、不用意なことを言ってはいけないと思うが……正直なところどう対処したらよいものか。
「あのときのキャンプ、たったの二泊三日だったけど、どんな日程だったか覚えてる?」
央は、さっきまで組んでいた綺麗な脚を組み替えた。相変わらず見えそうで見えない。いや、べつに観たいわけだが。見せてくれるのなら観ても構わないだろう……一体何を言っているんだ俺は。
「あれは……そう、そもそもは央が小学校の林間学校に触発されて、俺の家と山城家を巻き込んで、キャンプ行きたい病に罹患したのが事の発端だったんだ。本当にひどい病気だったな……それまではどっちかっつーとインドアな気がした央が、あれだけキャンプに行きたいと連呼してたのは、言っちゃ悪いがオツムがどうにかなっちまったのかと思ったぞ……」
「ちょっとお……失礼な言い方しないでよね。あの時は他の大人と仕事をすることは多くあれ、同年代の人たちと、お世辞にも文明的とは言えない生活のフリをして、自然のありがたみを噛みしめる……フリをして、人間の自然に生きる部分と文明に対する慣れをわきまえて生きているフリ……をするなんて初めてで舞い上がっちゃってたんだから」
「それもアウトドア愛好家には随分失礼な言いようだと思うけど……微妙な問題になりそうだからスルーしておくとして、舞い上がってたのか……道理でいつもよりさらに危なっかしいテンションだったはずだ……」
「それこそ失礼だと思うなぁ!?普段の私、どれだけあやふやな印象なの!」
頬を膨らませて肩を怒らせる。……が、全く怖くはない。もともと怒りの感情とは縁遠い性格だからか、どこが触れてはいけない逆鱗なのかが少しだけ判りにくいのが央の特長でもあった。あまりに調子に乗って踏み込みすぎるとうっかり虎の尾を踏んでいた……ということがしょっちゅうで、幼い頃はちょくちょくひっぱたかれていたっけ。その感覚を掴み始めたのが……多分このキャンプにいったあたりから……だった気がする。
あの時の日程を考えると、普通に皆がにこやかにキャンプしていたのが確実なのは……多分一日目だ。キャンプ当日の早朝、午前四時に目覚ましを掛けていたにも関わらず、それが鳴るよりも早く俺の部屋に踏み入って来た央は、俺の意識が覚醒するのももどかしいとばかりに、タオルケットは引きはがされパジャマを強引に剥ぎ取られ……ぼちぼち性差に因る羞恥心の意識が出始めていた俺は、自分で起きるからと慌てて央を部屋から追い出したんだ。
「それにしても肝をつぶしたぞ……人がすやすや寝入ってるってのに、いきなりドアを蹴破らん勢いではいってくるんだから」
ちょうど央も同じ場面を思い出したらしく、すこし頬を染めてうつむきがちに
「あ、あの時は本当に一分一秒が待ち遠しかったんだから仕方が無かったでしょ?別に一分一秒遅れたってキャンプ場は逃げないけど、小さいときはそれすら我慢出来なかったんだから……子供ってそういうとこあるじゃない」
自分にも心当たりがないことはないので、お互いの意思を尊重して回想に意識を集中すると……
まあ自動車に乗っている最中が極めてやかましかったのはさっき思い出したとおりで、それにしてもうちの両親や央の親父さん達はよくも我慢してたなあ。ま、子供が大人しいのなんて病気の時だけと相場は決まっている。あれもまた子供ならではの元気さ可愛さと解釈されていると見て良いだろう。それにしても子供って存在は気楽というかなんというか。それを許容できなければ人の親になる資格などないのだろうか。たとえ他の人の子供が鬱陶しく思えても、自分に子供が出来ればその見方は百八十度変わるのかと思いきや、聞いた話では、可愛いのは自分の子供だけで他人の子供はやっぱり傍迷惑に変わりは無いのだそうだが……きっと迷惑な存在というところから許容できるという程度に変わるだけなんだろう。とりあえず俺たちは、子供への虐待がまるで季節の風物詩か何かのように報道されるこのご時世、実の親に可愛がられ、まっとうに育てられただけでも俺感謝しなければいけないのは間違いあるまい。
「で、それからキャンプ場に着いたのが午後二時頃。そっからしばらく一息ついた後、さっそく飯盒炊爨が始まって……危うく黒焦げススまみれの飯を食わされそうになったわけだ」
「……マジごめんなさい」
別に今更責めてるワケじゃない……とうそぶきながら、ふと気がつくとその後……二日目から……いや、正確に言うと一日目の夕飯後から、自分の記憶がすっぽりと抜け落ちているのに気がついた。
「あれ……?それから無難にカレーライスの夕食が終わって……それから……それから……」
それはあまりにも不自然な欠落で、まるでその箇所だけがフィルムのように切り取られ、前後でつなぎ治されたかのように、夕飯の後から十月過ぎあたりの方までいっぺんに季節が進んでいた。
「おかしいぞ、なんでそのあと記憶がなくなってるんだ?キャンプはまだ二日もあるハズなのに、その後のことをこれっぽっちも覚えてないなんておかしすぎる……」
自分の記憶が信じられず、思わず口に出す事によってでも確認する。この違和感の正体について何か知らないかと央に目をやると……
「気がついた、みたいね」
複雑な……少なくとも央と俺だけが知っている共有の秘密に思い至ってくれた、という風ではない……貌でこちらを見やった。
「気がついた……って、央は最初から知ってたのか?」
「最初から知ってたというか、みんなが知ってることを紘輝が忘れちゃったというか、そっちの方が正しいかな」
なんだよそれ……疎外感を味わうどころの話じゃなくて、ちょっと薄気味悪くなってきたぞ。宇宙人にアブダクションされて記憶を弄り回されたとか、まさかそんな荒唐無稽な話じゃないよな?むしろそっちの方が気が楽だ。
「教えてくれ、央。そのとき一体何があって、何が理由で俺が記憶を失ってしまったのか。それを知らずに今の央と話を合わせることはできない」
俺の知らない俺の記憶を握っている央。それがどれだけお互いの負い目になっているというのか。しかも今の今まで、誰も積極的には教えてくれようとしなかった事件があったのだ。それはつまりどういうものか。
「それは、実際には俺にとって……央だけじゃなくて、武藤家と山城家全員の負い目でしかない?」
自分の記憶に無いものが自分の重荷になる。これほど恐ろしく、且つ対処不能なものはない。一見仲の良さそうに見える幼馴染み、また彼女の両親とウチの両親共にもなにか引け目を感じなければならなかった何かが。
「……負い目、っていうもんでもないんだ。どっちかというとむしろ覚えていて欲しかった……そういう類い」
「なんだか判然としないというか……もう少し考えてみるか」
央の方の記憶違いという可能性はないのだろうか。それにしても央の方から積極的に教えてくれないということはどういった意味を持つのか。俺が自主的に思い出す事が重要って事なのか?
「正直に言って、これ以上俺の記憶に頼っても無駄ってもんだろうなあ……本当に、何があったのか、それとも特筆すべきことが無かったから覚えてなかったのか、全く確証が持てないんだから。そもそも俺は記憶力に自信がある方じゃないしなあ、あは、は……」
おどけてそう言うと、央はたいそう不機嫌な形相におなりあそばした。……普段は美しいとしか言いようのない、少しツリがちの眦がさらにつり上がって……言いようのない凄味を感じる。
「なにか間違ったことを……いや、何でも無い。真面目な話をしてるのに悪かった」
ついつい重い空気に耐えきれなくなっておどけてしまうが……もうそれが許される雰囲気じゃないな。自重しよう。
「じゃあ大きなヒントね。紘輝の身体に、何か大きな痕が残ってない?」
「痕!?」
それなら確かに存在する。風呂に入るたびに目にすることになるから、気にせずとも嫌でも認識はしている。自分の身体にある痕。背中側、肩胛骨の下辺りから脇腹の前辺りまでに、裂け目が塞がったような大きなものが一つ。
「しかしこれ、かなり古いもんだって話なんだよな……それこそ、キャンプに行ったころよりもっと昔の。コレについてオヤジに訊いてみたら、俺が物心つく前の話だから覚えてなくて当然だって」
キャンプはおおよそ八年前、ちょうど小学校二年生の夏休みの話だから……それより前にこれだけ大きな痕が付くような怪我というと、その年齢の体力から鑑みて、一歩間違えば……いや、一歩間違えずとも確実に命の危険性を脅かされるようなものなのでは!?そう考えると、一体俺の身に何が起こったのか、背筋が寒くなってきた。
「それが間違いなく事件の痕跡よ。文字通りの、ね」
どういうことだ……と訪ねようと口を動かそうとした瞬間、央はおもむろにスツールから立ち上がり、タイトなミニスカートに浮き出る絶妙なヒップラインを見せつけながらカウンターの中に入っていった。それが話を一端遮る意思表示だと気がついたから、俺もそれ以上急くことはしない。さて央が何をするのかと見てみれば、慣れた手つきでコーヒーサイフォンを準備し、てきぱきとコーヒーを淹れるのだった。