83.保留
アリナが話している間ずっと、ヘンリーはぴくりとも動かなかった。
カヨウがいたらところどころで茶々を入れてきたかもしれないが、ここにいるのはカイロウ。彼もまた黙ってアリナの昔話を見守っていた。
「…だから、あなたは、ジルベルトとアンリの、本当の子孫なはずなんです」
「……」
「…分かって、くれますか?あたしは、アルンの国とは何の関係もない。ここの王様になることはないし、あなたと結婚することもない。そうする意味もない。だから、もうあたしのことは放っておいてください」
語り終えて、アリナは深い息を吐く。
これで、納得してもらえるといいが。
平穏無事に終われば、この後は、トンタにキリカの手紙を届けて、アルンの国を出て、ヴァースアック領地に帰る。そうしたら、また平和な時間が流れることだろう。
まずはレイシンに報告しよう。これで婚約者の偽装をする必要も無くなったと。彼は任務達成したアリナを慰労してくれるに違いない。
キリカにも伝えよう。トンタの様子がどうであったか。場合によってはトンタから返事の手紙を書いてもらうのもいいだろう。
ミカゲツとヒソラも、アリナの無事の帰還を喜んでくれるだろう。お土産を渡して、夕食の席で思い出話に花を咲かせれば、きっと和やかなひと時が過ごせるに違いない。
「…嘘だ」
ぽつりとヘンリーが呟いた。
「嘘じゃありません」
「じゃあ私が今までしてきたことはなんだったんだ。何のために幾人の娘を手にかけてきたと思ってるんだ」
「そ、それは知りませんけど…」
エジットの部下が「ヘンリーの性癖は赤髪緑目」と吹聴していたのを聞いたことがある身としては、それは本当に気持ち悪いとしか思えないが。
ヘンリーは放心状態だったがやがてアリナに背を向け、背後の姿見に喋りかけた。
「嘘でしょう?」
鏡は答えない。そこに、人の姿はない。
「アリナ様は嘘をついている。私と結婚したくないから、でたらめのお伽話を創作したんだ。そうでしょう?貴女の知識が間違っているはずがない。そうでしょう!?何故…!何故答えてくれないのです!!」
いつの間にか、カイロウがアリナの先に進み出た。
その手は腰の剣の柄頭に据えられている。
「それはおそらく悪魔だろう」
「えっ…」
「ヴァースアックの土地にも似たものが住んでいる。奴らは人間を欺き、己にとって都合の良いことしか話さず、自身の欲望のためならばどんな手段も厭わない」
カイロウの口調に苦々しさが満ちているのを聞いて、アリナは複雑な気持ちになる。
かつてのカイロウは、ここまで悪魔を忌避することはなかった。むしろあの変身男には助けられることもあった。悪魔にカイロウの姿に変身してもらい、カイロウ本人は街に遊びに行ったこともあったというのに。
しかし、目の前のカイロウは無表情で悪魔の害悪さを説き続ける。
「これがアルンに住まう悪魔の形代だというなら、私が破壊してくれよう」
「―――それは困るな」
唐突に、別の声が響いた。
鏡に波紋が広がり、歪みが治る頃には女の姿が映っていた。長い栗色の髪を一つに束ね、まるで研究者のような白衣を着て、色の薄い金の大きな瞳で、カイロウとヘンリーを見つめている。
ヘンリーが目を見開き跪いて鏡に縋った。
「ああ、やっと来てくれた…!さあ、言ってやってください。アリナ様に、それは偽りなのだと、我らが伝えてきたことこそが真実なのだと、言って」
「先に謝らせてもらうよ、ヘンリー。ぼくが間違っていた」
「…は」
「ぼくはね、確かに物知りだよ。色んなことを知っている。でも、全知全能というわけではないんだ。だから間違っていることもある。アリナの件については、ぼくが間違っていた。彼女はアンリの子孫じゃない。勘違いしてたんだよ、ごめんね」
「な…な、で、ですが、貴女は」
「申し訳ないと思っているよ。迷惑をかけたね。アリナ、ぼくの間違いを正してくれてありがとう」
平然と、女は感謝を口にする。その顔は笑みを浮かべているが、カイロウと同じく、表情が固定されそこから全く変化しない。
ヘンリーは愕然と首を振り、鏡の縁を両手で掴み、ガクガクと揺らし始める。
「で、ですが!ア、アリナ様が真の英雄の血筋でない、人違いだった、というのは、まだしも。私が、この私が…私たちが!ジルベルトとアンリの子孫であるか否かは、勘違いでは済まされない情報ではないですか!」
「いいや?さっき彼女が話してくれたのを聞いていただろう?侍女が赤子を入れ替えようと画策していたのは事実。そこだけを見てうっかりぼくは、入れ替えが成功して、そのまま続いてきたのだと勘違いしてしまったんだよ」
「そ、そんな、馬鹿な…」
「ぼくの勘違いで君達を余計に悩ませてしまったことは、すまないと思っているよ。けれど良かったじゃないか。これで真相は明らかになった。君は何も気にすることなく、真の英雄の末裔として堂々と国を導いていけばいいのさ。そうだろう?」
なんてことないように女は言い募る。蹲るヘンリーが唇を振るわせるその隣で、カイロウは剣を引き抜いた。
「切って捨てる。文句はあるか、ヘンリー」
「カイロウ…だが…」
「やめてほしいな、カイロウ。この鏡は母がぼくのために特別に用意してくれたものなんだよ。言うなれば形見だ。傷をつけてほしくない」
「悪魔に母親がいるのか。面白い冗談だ」
淡々としたカイロウの態度に、女は緩く首を振って否定する。
「冗談ではないよ。ぼくは、マリアという女性の感情から生まれた。この姿は彼女を真似たものだ。君だって分かっているはずだよ。悪魔という呼称は、君達が勝手につけたものに他ならない。ぼく達は自らを生み出した感情の赴くままに動いているだけ。ぼくで言えば知識欲。ヴァースアックのところの彼で言えば、愛、だね」
「…なんだと」
カイロウが言葉を乱した。それを見逃さず、女は矢継ぎ早に情報を開示し続ける。
「分かるかい?彼は、マリアと、ある男の間に育まれた愛という感情から生まれた存在だ。だからこそ彼は君のご先祖…スイ、と言ったかな。彼女に出会い、愛を知り、自分の力の本当の使い方を学んだんだ。そうでなければ君達ヴァースアックがここまで悪名を轟かせることはできなかったはずだよ」
「何が言いたい」
「つまりは、ぼく達は純粋なものだということだ。ぼくは知識欲を満たすためならどんな手段も厭わないし、彼は愛に殉ずるだろう。スイに顔が似ているだけの君に対する彼の献身を思い出せば分かるはずさ。そこに悪意などないんだ」
「―――だから、ヘンリーさんを騙していたことも、悪意なんてなかったって言うんですか」
口を挟んだ赤髪の少女を、ヘンリーはよろよろと見上げ、女は平坦な眼差しで見下した。
「そうだね。騙すという感覚はぼくにはない。あるのは好奇心だよ。ここでこの選択をしたらどう展開するか、世界に何の影響を及ぼすのか、それとも何も起きないのか、知りたい。そういう感情から、ぼくは生まれた。それのみで、形成されているのだからね」
「…本当に、人間じゃ、ないんですね」
「当然だ。初めて会った時から分かっていたことだろう?人間が鏡の中で生活できるものか」
でも、とアリナは思う。
かつて、スイのことを語ったあの悪魔は、まるで人間のような顔をしていた。人間のように愛し、悲しみ、怒り、誰かに話を聞いてもらいたがっていた。
「とはいえ。ぼくは、マリア個人から生まれたものだ。彼のように、二人の男女の機微から生まれたのではない。故に彼はきっとぼく以上に人間らしいのだろうね。人と人の間に生まれたものとして…そもそも、愛なんていう複雑な感情から出来てるんだから、ぼくとは構造が違うのは当然だよ」
聞き取りやすい声で説明を続け、動きのないカイロウの関心が「切り捨てること」から「話の内容」に移っているのを察知してか、女は「そうそう」と話題を切り替えた。
「カイロウ。君はジョンのことを知りたいんだってね」
「…知っているのか」
「ぼくは全知全能ではないし間違うこともあるけど、大抵のことは知っているからね。もし、ジョンについて詳しく知りたいなら、中央大森林、君達がヴァースアックとなる前から守護し続けてきた牢獄の中身を改めると良いよ」
カイロウは何も答えない。無表情のため感情は読み取りにくいが、女には察しがついたのか「何の話か分からないなら君の父親か、ライに付いて行かなかった人々の末裔に話を伺うことだ。一人で勝手に牢獄を暴くのは駄目だよ。牢獄を死守する彼…悪魔に殺されてしまうからね」と柔らかい口ぶりで説いた。
「…悪魔は一体何体存在するのだ」
「そんなにたくさんいないよ。今は、三人かな。最初はもう一人いたけど、英雄王に殺されてしまったからね。ああでも…その意志を君の妹が継いでるんだっけ」
「えっ」
カイロウの妹?
思わず声を上げたアリナは女とカイロウの背中の間で視線をうろつかせる。カイロウの妹と呼ぶべき存在は自身とキリカ。アリナに、誰かの意志を継いでいる自覚などない。ならばキリカに何かがあるというのか。
「心配せずとも、何も出来ないさ。あの子は人に取り憑いた状態でしか生きていけない性能だったし、魔族が消えた今、再び世界に反抗する糧など得られない。危ないことは何もないよ」
その話を信用できるかは別として。まだキリカに何か災難が訪れようとしているなら、許すわけにはいかないとアリナは眉を寄せ拳を握った。
「…さて、そろそろお喋りもお開きかな。ヘンリー、君は僕のことが嫌いになってしまったかもしれないけど、ぼくはいつでもここにいる。何か困ったことがあれば相談に乗るよ」
「……」
「カイロウ。愛から生まれた彼に執着されている君がここまで来るのは予想外だったけど、会えて良かったよ。これからも頑張ってね」
「戯言を」
「アリナ。君の存在は、ぼくにとって大きな進歩だ。君のおかげでヘンリーは真実を手に入れ、ぼくは楽しいお喋りができた。ありがとう」
「…それは…本心なの?」
「勿論。新しい人と出会えるのは、とても楽しいことだよ」
彼女が本当に悪意を抱いていないのか、アリナには判別できなかった。
しかし、彼女は最初から最後まで、アリナに害意を表することはなかった。
故にアリナは鏡に触れることなく黙って、その場を後にしようと背を向ける。
「…ま…」
腕が掴まれた。
「ま…待ってください、お、お願いします、アリナ様…」
「ちょ、ちょっと、離してくださ…」
端正な顔に絶望を宿し、しかし一筋の光を逃すまいとヘンリーはなりふり構わずアリナに追い縋る。カイロウに無言で剣先を向けられると、碧の目を見開いて喚いた。
「こ、こんなの、あんまりだ。だって…ずっと…そう教えられてきたのに…そ、そう、そうだ。そうです、今の話が本当に真実ならば!証拠をください!」
「しょ、証拠って…今、その人も言っていたじゃないですか。知識が間違ってたって。それが真実なんだって」
「言葉だけではなんとでも言えます!アリナ様も、この方も、物証はなくただ己の持論を展開しているのみで、具体的な証拠は何一つ提示されていないではないですか!そ、それならば、真実だと仰るお話だって間違っているかもしれないでしょう!?」
「い、いい加減に…!」
「―――証拠ならあるさ」
割って入った柔らかい声に、ヘンリーもアリナも視線を向ける。
鏡の中の女は、笑みを浮かべ続けている。
「ここにはないよ。でも、確かめる方法ならある」
「そ、それは、どのような」
「覚えているかな。かつて魔族と呼ばれた人間達には、魔力が宿っていた。しかし、剣王ライによって魔力を吸引され、悪魔に憑依される条件を失い、普通の人間へと成ってレリウス王国で平和に暮らしていった。魔力を奪われなかったのは、その時代にたった二人。女傑とその弟。アックは、自らの体に悪魔を取り憑かせ、自分ごと殺されることで悪魔を葬った。ではアンリは?彼女は魔力を奪われていない。悪魔が滅んだのだから、魔力をなくす必要もなかった。となれば、アンリの子孫…ヘンリー、君にも、魔力が宿っているはずだ」
「ま、魔力…ですか…そ、それならば、おかしいですね?私には、魔力などという得体の知れない力の感覚はありません。生まれてから一度も。おやおや、であれば、私には魔力などない。アンリの子孫ではないということに…」
「ま、待ってください!あたしだって、一応、魔力があるらしいですけど、言われるまで自分にそんな力があるなんて自覚、ちっともありませんでした!」
「くっ…」
アリナの主張に、ヘンリーは顔を歪めて言い分を探す。アリナも、往生際の悪いヘンリーにどう引導を渡そうか、頭を悩ませた。その緊迫の間を崩すのは、やはり、耳障りの良い声。
「剣王ライは、魔力を奪う剣を所持していた。その剣で斬って、人々を魔から解放した。その剣は今…ヴァースアックの管轄である中央大森林で大切に保管されている。そうだろう?カイロウ」
「……」
「彼の地に赴き、その剣に触れてみれば良い。もし剣が反応したなら、魔力があるということになる。反応がなければ、君には魔力がない…すなわち」
「…私は、アンリの子孫ではない、という証明になる」
ヘンリーの目に、光が戻った。その様をアリナは呆然と見つめていた。
まとまりかけていた話が、妙な方向へ進んでしまった。ヘンリーは「今すぐ出発したいのは山々ですが、私にも立場というものがございまして…準備が整いましたら、ヴァースアック領へとお伺いいたします。そうして、アリナ様、共に確かめに参りましょう。魔力の有無を、何が真実なのかを」と己にも言い聞かせるように宣言する。
最後に、ずっと黙って剣を携えているカイロウに正面から語りかけた。
「構わないだろう、カイロウ。さっき言っていたジョンとかいう件のついでに同行させてくれれば良いし…もしこの暁にアリナ様が真の後継者であると証明されたら、アルンは、実質君の眷属となるのだから」
「なっ…だからあたしは子孫ではないって…!」
「全ては、その時に委ねましょう」
先刻までの焦燥が嘘のように、ヘンリーはにっこりと笑う。
静かに剣を納めてからカイロウは目を伏せ、「先延ばしにしかならないと思うが」と呟く。ヘンリーの笑顔がわずかに引き攣った。
「だがそれで気が済むのなら良いだろう」
「感謝する。それでは、諸々が片付き次第ヴァースアック領にお邪魔させてもらおう。そして、中央大森林の案内をお願いしよう」
「了承した」
決まってしまった。
アリナは、まだ継続する事態にがっくりと肩を落とし、恨めしげにその場の者達へ順に視線を投げた。
最終決定を下したカイロウは無表情。ヘンリーは笑顔を保っているが、当初全身に漲っていた揺るがぬ自信はない。そして、唯一何の動揺もなく不利益も被らぬ鏡の中の女は、アリナと目が合うと満足そうに金色の瞳を細めた。
「もしヘンリーがアンリの子孫であると証明された場合は、その鏡、私が斬り捨てる。構わないだろう、ヘンリー」
「…もし本当にそうだった場合は、ね」
「あれー」
逃げ切れなかった。
場合によっては壊されることになった鏡の中で、彼女は頓狂な声を上げてから「ううん、人間って根に持つ…お母上様、どうかぼくに幸運値を…」と祈るように両手を組んだ。
そういうことでアリナは、時が来たらヘンリーと共に、ヴァースアックの所轄であるという中央大森林に行くことになった。




