82.特集昔話〜悪魔と悲劇はワンセット〜
「ああ、貴女のご到着を心待ちにしておりました!我らが英雄王の末裔よ!」
公爵ヘンリーは最後に見た時と変わらず、陶酔の面持ちでアリナを出迎えた。
赤に近い茶色の整然とした髪に、碧の瞳。カヨウとはまた質の違った、よく通る声。
賢者と女傑の過去を知ってからだと納得できる彼の相貌に、アリナは密かに同情せざるを得なかった。
ヘンリーは両手を広げてアリナに挨拶した後、彼女の後方に佇む黒髪の男にわざとらしく視線を向ける。
「…ああ、これはこれは。ヴァースアックの当主も同行していたとは。顔を合わせるのは随分と久しいかな」
「そうだな」
「…アリナ様を見つけてからというもの、少し調べさせてもらったよ。カイロウ、君は…アリナ様の姉と婚姻関係にあったそうだね?」
「ああ」
「悲しいじゃないか。表面上だけとはいえ、私も英雄の一行の血を引く者として通させてもらっているというのに…やはり剣王ライの血筋としては、私のような偽物など信用できないということかな?」
「いや。ミサが誰の血を引いているかなど、私は興味がなかった」
「ああそうかい、それは失礼。いずれにせよ感謝するよ。君のおかげで、アリナ様は今ここにこうしてご健勝でいられる。是非私とアリナ様の式には参列して欲しいものだ」
「ちょ、ちょっと勝手に話を進めないでください!」
アリナは慌ててヘンリーとカイロウの会話に割って入る。「私とアリナの式」とは何のことだ、まさか結婚式のことだろうか、想像するのも恐ろしい。
今この場にカヨウとエジット達はいない。面会の前にヘンリーの指示によって固く拒まれたのだ。
本来ならアリナ一人で相対させられるつもりだったようだが、流石にカイロウ相手にその命令も通らず、アリナとカイロウは二人でヘンリーを説得することになった。
「…今日は、大切なお話があってきました」
「貴女の言うことでしたら、いくらでも」
「…あたしは、賢者と女傑の子孫ではありません」
「まだそのようなことを。貴女も以前、お聞きしていたでしょう。何者も敵わぬ、知識の権化とも言うべき存在が、貴女を間違いなく彼らの子孫だと断言したのを!」
「…それが、間違ってるんです」
アリナは、ヘンリーの背後に鎮座している古い姿見を睨みつける。そこに人間の姿は映っていない。
アリナとて、何故あの時彼女が「君はジルベルトとアンリの血を継ぐ者だよ。ぼくの知識によるとね」などと言っていたのか、何故真実をヘンリーに伝えないのか、分かっていない。
そもそも彼女が騙しているのか、本当に何も知らないのかも分からない。
だが、アリナが見たものこそが真実なのだと、胸を張って告げることができる。
「あたしの先祖は、女傑の、血の繋がらない弟である、アックです」
「…え」
「そして、賢者と女傑の子孫は、あなたです、ヘンリーさん」
アリナの言葉に、ヘンリーは碧の目を見開き、凍りついた。
「ぼく、お姉ちゃんのためなら、なんでもできるよ」
アックは親のいない子だった。
アンリも同様、彼女は貧民街の出であり、幼子の頃に一人で泣いていたアックを拾った。以来、人生の全てを捧げて彼を育ててきた。
アックにとって、アンリは親であり、姉であり、大切な人であり、絶対に己を愛してくれる存在だった。故にアックはアンリの幸福を何よりも祈っていた。
「だから、ライ、リュカお兄ちゃん。ぼくが悪魔の容れ物になる。あいつをぼくの中に引き止めておくから、そのままぼくごと、殺して」
「…本気で言ってるのか?」
リュカはアックの言い分に、首を振って忌避感を示した。
ライは無言で、金髪の少年を睨みつけている。
アックは今年で十六歳。彼らの中で最も年下だった。
人々を虐げる魔族を倒すために、無職のリュカと貴族のジルベルトは旅をしてきた。そこに風来坊のライを加え、失踪した弟を探していたアンリと出会い。
リュカとライ、ジルベルトとアンリの二手に分かれて弟の捜索を始めた。
戦闘において、リュカは役に立たなかった。彼は肉体労働が苦手で、おそらくアンリより体力がなかった。
ライは凄まじい剣の使い手だったが、自己中心的な面が目立ち、リュカの煙に巻くような話術がなければ制御できない人材だった。
リュカとライ、ジルベルトとアンリ。それは無駄のない組み分けなのだが、リュカは不満だった。
ジルベルトは完璧な人間だった。英雄とは、ジルベルトを言うのが相応しい。
ライには及ばないが戦闘にも強く、医者志望で頭がいいし、何より優しい。あと声がめっちゃいい。リュカが旅路においてどれほど役立たずでも「君には君のやるべきことがある」と良い声で励ましてくれてすごい元気が出る。絶対にライのように「雑魚」「鈍間」「荷物」と罵ってこない。
アンリも嫌いではない。彼女はやや弟が好き過ぎるきらいはあるが、さっぱりとした性格で、リュカの故郷の女共のようにグチグチ言ってこないから接しやすかった。
故に、アックを見つけられた時、リュカは安心していた。
何故失踪したのか尋ねたリュカに、アックは答えた。
ぼくとお姉ちゃんは、いわゆる魔族なのだと。
世界を騒がせる、悪辣なる集団の一員であると。
しかし魔族の正体とは、あくまで、魔力を持ち、魔力行使に適合できる肉体を持つ人間、というのに他ならない。
そして、魔力を持つ人間を「悪魔」が乗っ取り、その肉体を操って他の人間を虐殺しているだけで、本来は普通の人間と変わらないのだと訴えた。
全ての元凶は一体の「悪魔」であり、それを殺せば、世界は平和になるのだと告げた。
「悪魔は人の体を自由に出入りできる。でも、お兄ちゃん達が魔族を退治してきたから、もう悪魔が乗り移れる肉体は限られてる」
「人間以外には寄生できないのか?」
「できない。あいつは、人の感情から生まれたから。だから、人以外のものには、取り憑けないんだよ」
ライはずっと無言で成り行きを見守っていたが、やがて帯刀していた鞘の上に触れて告げた。
「てめえは、未練はないのか」
「お姉ちゃんには幸せになってほしい。たとえ、そこにぼくがいなくても」
「…そうかよ」
「お願いだよ、ライ、リュカお兄ちゃん。魔族なんていない、幸せな世界を、作ってね」
そうして、後に、リュカの手によって、「悪魔」が憑依したアックは―――魔族の王は倒された。
その際、彼の遺体は魔力の影響か、水晶のように透き通る石に変貌し、その石は「魔石」と名付けられることになる。
アックは姉を愛していた。
血の繋がらない姉を、「悪魔」について何も知らない姉を、いつも弟を優先して全てを与えてくれた姉を、なんとしても守らなければならないと、彼女が平穏なままいてほしいと、家に置き去りにして奔走した。
しかしその道中、彼はある少女に出会う。
鮮やかな赤髪に、輝きを宿した緑色の目。色彩と後ろ姿が、姉によく似ていた。
アックはしばらくの間、少女の元に居着いていたが、やがては世界のために旅立ち、ただの町娘であるその少女は彼を引き止めることなどできず、ただ、彼を見送った。
その後、少女は子宝に恵まれ、その家系は細々と、しかし確実に繋がれていった。
「それが、あたしの先祖です」
かつて悪魔に見せられた幻の記憶を辿りながら、赤髪の少女は説明を続ける。
「あたしには、確かに魔力があるみたいです。でもそれは女傑のものではなくて、その弟のだから、あたしはアンリとは関係がないんです」
「…馬鹿なことを」
固まっていたヘンリーは一言呟き、次いで引き攣った笑顔を浮かべた。
「誰にそんな嘘を吹き込まれたのか分かりませんが、信用に欠けます。何故なら、私の持っている情報の方が遥かに正確性が高い。そうでしょう?何故なら私に教えを授けたのは、知識欲の化身なのだから。世界のあらゆる事象を把握している、完璧な存在なのだから。彼女の知識に誤りはない。彼女は正しい。貴女が間違っている。そうでしょう?」
「…あたしも聞きたいです」
もしアリナの方が偽りの情報なのだとしたら、それは、ヴァースアックの領地に住まう悪魔が間違っているということになるだろう。アリナに幻を見せたのは彼なのだから。
しかし彼は言っていた。この幻は、己の記憶より正確なものなのだと。
「大体…貴女が、女傑の弟の子孫なのは、それはそれとして。私が賢者と女傑の子孫というのは、全くもって信じがたい。この偽物が、真の英雄の末裔だったなどと、そんなことがあるはずがない。アンリは、我が子が貴族となり苦しむのに耐えられず、年の近い、ジルベルトの使用人の子を公爵の座につけたのだ。それが私たちであるはずなのだ」
「…でも、あたしは、見ました」
アリナは、ヘンリーを説得するために何度も反芻した内容を語り始める。
「アックに手を出したら、容赦しないからね」
アンリは、アックを愛していた。
孤独だった彼女にとって、血は繋がらないとはいえ幼少から面倒を見てきたアックは弟であり、子供であり、何に変えても守るべき存在だった。
アックのおかげで、希望を失わず生きてこられたと言っても過言ではない。
幼い頃に弟が絵本の理想郷から引用してつけてくれた名字も、彼女に自己の確立として力を与えてくれていた。
「無論、傷つけるつもりはないさ。ライにも十分言い含めてあるよ」
「信用ならないね。あの男、あたしを見た途端に腕を掴んで、殴りかかろうとしたんだ。暴漢と勘違いするのも無理はないと思うがね」
「そうだな…」
苦笑しつつ、ジルベルトはアンリの茶色に近い赤毛を見下ろす。
無骨な剣士があの時何を考えていたのか薄々想像はつくが、ジルベルトとは世界観が違い過ぎて今でも納得ができない。
「…あたしはアックが元気で一緒にいられたらそれでいいのさ。あんたらには迷惑をかけるが…」
「迷惑ではないさ。私達は君に恩義がある。恩人に報いるのは当然のことだとも」
「道を教えたくらいで大袈裟な…」
アンリはそう言うが、東国出身のジルベルト、リュカ、そして中部の深い森に住んでいたというライは西の地の利が全くない。魔族のこともあるし、地理に詳しい者がいるに越したことはないのだ。
「…アック…お腹を空かせてなきゃいいんだけどね…」
「君は本当に弟思いだね」
「たった一人の家族なんだ。当然だろ」
ぶっきらぼうに答え、彼女はそっぽを向いた。
アンリは、アックを愛している。
故に彼女は、アックが「悪魔」に取り憑かれ、ライに剣を向けられた時、狂乱した。
「嫌!やめて、置いていかないで!世界なんてどうでもいい!あの子さえいれば、あの子だけは、助けて!」
それまで一度も泣いたことのない彼女が、我を忘れ、ライに縋り、剣をもぎ取って捨て、制止するジルベルトの腕を振り払おうともがき、叫び続けた。
アンリの悲鳴を聞いて、ライは動かなかった。
だからリュカは、彼の剣を拾い、アックに向けた。
「…約束、忘れないでね。ぼくのこと…いっぱい、伝えてね」
そしてアンリは、弟を失った。
アックがいなくなってから、アンリは生気を失った。
医学に精通するジルベルトは、話すことも笑うこともなく、一人では食事すらままならない彼女の様子を危険と判断し、自らの国へと連れて帰り、治療を試みた。
ジルベルトの故国は、彼の帰還を盛大に祝った。
彼が旅立つ際は何の支援もしなかったというのに、それでこそ我らが英雄だと褒め称えた。
ジルベルトはそれを否定した。
「私は英雄ではない。近々、西に大きな国ができることだろう。それを治めるリュカ・レリウスこそ英雄王だ。私は…そう、功績から言えば、賢者とでも名乗るべきか」
賢者。あの捻くれた青年は嫌がるかもしれないが、正しく彼の役割はそれに見合うものだった。
魔族を倒した者達。その功績は、世界に広がっていた。
類稀なる頭脳を有し、あらゆる戦術で魔族を翻弄した軍師。
圧倒的な力を誇り、長身の剣で数多の魔族を切り捨てた剣士。
そして、力と頭脳を兼ね備え、清く正しく美しく、人々の希望として活躍した、英雄。
彼らこそ、世界の救世主であると。
その噂を聞いた時、リュカは「なんだそのめちゃくちゃ有能っぽい肩書き。戦術なんて考えたことないよ行き当たりばったりだぞこっちは」と喚き、ライは「切り捨ててねえよ、殺人鬼みたいに言いやがって。殺さないよう苦労したってんだ」とぼやき、ジルベルトは「過大評価が過ぎるようだ」と苦笑した。
そんな彼らも、「悪逆非道の限りを尽くした魔族の王」の惨めたらしい最期の噂を耳にすれば、黙らざるを得なかった。
アックの遺言は、願いは、「恐怖で支配した魔王が打ち倒され、世界に理想郷が築かれる」こと。
アックという名を、「滅ぼされて然るべきであった魔王」として、語り継ぐこと。
「…ジル。お願いがある」
「何かな、リュカ」
「僕に、君の功績を譲ってほしい」
「それは…どういうことだろうか」
「君は、英雄と評されている。事実、「悪魔」に取り憑かれ、勝手に体を操られて、魔族と呼ばれ、世界から目の敵にされ絶望していた人達に希望を与えたのは、君だ。君がいたからこそ、彼らは協力してくれた。彼らが「悪魔」に再度取り憑かれないために、ライの剣で斬るのを了承してもらえたのは、君が説得してくれたからだ。君こそ英雄に相応しい」
「私などは、未熟者に過ぎないよ」
「いいや。分かってるんだ。君が相応しいのは。君は英雄で…君が、やった方が、上手くいくのも分かってる」
魔族と呼ばれた人々には、魔力があった。その魔力を吸収する武器を、ライは所持していた。
ライの剣により魔力を根こそぎ奪われ、普通の人間になった彼らは、しかし、居場所がなかった。
かつて魔族として世界を脅かした彼らは、駆除されるべき存在だった。
世界から追い立てられる彼らを、受け入れ、安住させる場所が、必要だった。
「僕は…国を作る。アックの望んだ理想郷を。誰もが平和に暮らせる国を。そのために、君の名声をくれ。英雄としての実績を、世界と渡り合うための盾を、僕に譲ってほしい」
「無論だ。君は必ず良い国を築くだろう、リュカ」
「…ありがとう、ジル。君に言われると本当にそう思えるよ」
リュカは、ただの同行人に過ぎない。確かに悪知恵で窮地を脱したことはあったかもしれない。だが、ジルベルトとライの活躍には、遠く及ばない。
リュカは、ただ、「悪魔」に取り憑かれた最後の魔族に、とどめを刺した人間に過ぎないのだから。
けれど、アックの、平和への犠牲になった少年の望みを叶えるためなら、どんな手段も厭わなかった。
「…てめえが、そいつの功績をもらうってんなら。オレはアックの悪名をもらう」
ライが、言い出した。
「魔族の王ごときじゃあいつの野望には足りねえだろうよ。オレがやってやる。だからアンリ、てめえの弟の名、オレがもらうぞ。代わりに、オレの名声は、てめえにくれてやるさ」
弟を失ったばかりのアンリは、生気を失っていて、応答もない。だからライは勝手に約束を取り付けた。
かつてアックが語っていた願い。
それを実現するために、ライは、「黒い悪魔」の一族を立ち上げることとなる。
「私は英雄ではない。近々、西に大きな国ができることだろう。それを治めるリュカ・レリウスこそ英雄王だ。私は…そう、功績から言えば、賢者とでも名乗るべきか」
人々はジルベルトの笑みを含んだ言い方に首を傾げつつ、賢者という呼称を浸透させた。
彼の言葉通り、後に西の小国レリウスは目を見張る速度で発展していくことになる。
故国の人々はジルベルトを敬愛し、彼こそ国の頂点に立つに相応しいと、長らく空席だった王の座を、ジルベルトに与えるべきだと口々に勧めたが、彼はやはりそれを拒否した。
彼には、アンリの心を取り戻すという使命があった。
それを、王が消えてから実権を握っていた公爵の一派は、非常に不愉快に思っていた。
何が賢者、何が英雄。
過剰な地位は要らぬと言っているらしいが、それもどこまで本心なものか。
そんな上の疑心など意に介さず、ジルベルトは毎日を忙しなく生きていた。
彼はアンリがまた笑ってくれる日を夢見て、決して彼女を見放すことなく世話をし続けた。
そして、ある日。
「…あんたも変な奴だね」
「アンリ」
「…あの子がいないのに…あたしは生き延びてしまったのに…お姉ちゃんが、守ってやるからって、ずっとそう言ってきたのに、結局あたしはあの子を犠牲にして…」
「…アンリ。アックは、君の幸せを何よりも願っていたよ。平和な世界で、君が幸福に生きることを、望んだんだ」
「…あの子がいない世界で、どうやって幸せになれって言うんだい…」
「私がするさ」
ジルベルトは跪き、彼女の手を取って誓った。
「君を必ず幸せにする。だから、生きてくれ、アンリ」
「…悪趣味な、男だね」
そうして二人は夫婦になった。
「剣の達人であり、英雄王と賢者と共に世界を救った」と噂される彼女を、妻として不釣り合いだと笑う人間はどこにもいなかった。
少しずつ回復し、次第に人前にも顔を出すようになった彼女は、周囲から女傑と異名をつけられ、当人は苦い顔をしながらもジルベルトに宥められて渋々それを受け入れた。
ジルベルトは貴族であったが、他の貴族のように奴隷を使い捨てることを良しとしなかった。むしろ、彼らがきちんとした治療を受けられるような場所を作ろうと、老齢の医師の下で働きながら計画を立てていた。
彼の名声も相まって、賛同する者は多く、ジルベルトの元には多くの支持者が集まっていた。
アンリはたまに体調を崩すこともあり手伝うことはできなかったが、彼が日々夢に向かって動いているのを眩しく眺めていた。
やがて彼女の腹の中には、ジルベルトとの子供が宿り、二人は幸せな時間を送っていった。
アンリの出産予定日、そわそわしていたジルベルトは医師に妻の元にいてやるよう送り出され、仕事場から離脱した。
足早に帰宅しつつも、途中、足を怪我している子供を見つける。また使い捨てられた奴隷だろうか、酷く思い詰めた顔をしていた。
彼は優しい言葉をかけ、血が流れている足に包帯を巻こうとして屈み、首に刃物を刺された。
子供は短剣を奥まで捻じ込み、逃げ去っていく。
ジルベルトは震える手を伸ばしたが、声を出せず、碧眼を開いたまま地面に崩れ落ちた。
最大の障壁となるジルベルトが死んだ。
公爵の子飼いがうまくやったらしい。表面上は物の見方も知らない奴隷の子が貴族を逆恨みし、たまたま出会った彼を刺したことになっている。犯人は怒れるジルベルトの信奉者によって捕えられ既に収容済みだ。
賢者が殺されるなど、恐ろしい世の中になったものである。
こんなことでは、ジルベルトの遺児も、普通に育てていては危険だろう。
我々が保護し、堅牢な屋敷の中で安心安全に育成してやろう。
そんな勧誘のような命令を、公爵はジルベルトの家に届けた。
ジルベルトの家に代々仕えている侍女は、その令状を破り捨てた。
何が安全。何が育成。
公爵がこの事件に無関係ではないことなど、誰でも分かる。しかし証拠がない。物証がない。犯人とされる子供は憎らしいほどに、公爵と何の関係も洗い出せない。
赤子を差し出す。
そんなことが許されてなるものか。
けれど、一貴族が国の支配者に逆らうことなど、できるはずがない。
あるいはジルベルトが生きていたなら、あるいは女傑アンリが健在だったなら、彼らの人望を元に、旗頭として反乱を起こす道もあっただろう。
だが、ジルベルトはいないし、今のアンリにその力はない。
アンリは、ジルベルトの死に、誰よりも心を痛めていた。
元々、彼女はこの国に来た時も、既に大きな傷を抱えていた。そこからようやく少しずつ脱却していたところで、この仕打ちだ。
やつれた表情で、しかし生まれた子を誰にも渡すまいと必死に腕の中に守っている彼女は、痛々しくて見ていられなかった。
そんな状態の彼女から、赤子を取り上げ、悪辣なる公爵の元へ送るなど、誰ができようか。
故に侍女は決意する。
己にも、子供がいた。ジルベルトとアンリの子より一月早く生まれた子だ。
…その子を、差し出すのだ。
侍女は、幼い頃より仕えるジルベルトを敬愛していた。彼が選んだ伴侶であるアンリも。
彼らのためなら、どんな罪業にも手を染めよう。
侍女は、アンリに詳細を伝えずに、公爵の元へ赤子を見せにいくことになったと告げ、出発前、乳母車の中身をこっそり我が子に入れ替えた。
アンリの身支度を整え、「すぐ終わりますから、大丈夫ですからね」と声をかけ。
そうして、侍女はアンリと共に、公爵邸にやってきて。彼らの前に乳母車を停め、天蓋を開け。
息を飲んだ。
…そこには、ジルベルトとアンリの子供がいた。
何故。
確実に、取り替えたはずなのに。
混乱する侍女の前で、アンリが我が子を抱き上げる。その表情に力が漲っているのを見て、侍女は呆然と立ちすくんだ。
アンリが、自分の子に戻した。それ以外に、考えられなかった。
「…ごめんよ、ずっと、迷惑をかけて」
アンリが、すれ違い様に小声で囁く。やがて彼女は殺意と見間違うような眼光で、公爵に対峙した。
「この子をこの屋敷で育てるというお話、ありがたく頂戴させていただこう。しかし子供の世話には母親が付き物だ。わたしもここに置いていただく」
馬鹿な。
ジルベルトがどうなったのか、彼女は身に沁みて知っているだろう。
彼らがそんな好機を逃すはずがない。
例えそうでないとしても、女傑という偶像を手中に収めて、彼らが何をするかなど想像に難くない。
薬で洗脳?赤子を盾に強要?あるいは交渉材料として他国に…!
追い縋ろうとする侍女に、アンリは微笑んだ。
「ご存じであろうが、わたしの名は、アンリ・アルン。わたしには力がある。英雄王に並び立つ力。人智を超えた力だ」
不可思議なことが起こった。屋内なのに、どこからか風が吹き込み、次第に強さを増していく。
彼女は、必死に体勢を保つ公爵の方向に何気なく掌を振り下ろした。
スパ、と音がして、彼の下履きがずり落ちた。甲高い悲鳴を上げて公爵が股間を押さえる。
「…分かっていただけたか?わたしには、力がある」
静まる空間に、アンリは力強い瞳を向け、
「…ゆめゆめ、お忘れなきよう」
眠る子供を優しく撫で付けながら、告げた。
後に、ジルベルトとアンリの子は、新しい公爵として位を認められることになる。
彼は祖国の名を、かつて、父ジルベルトが提言した「アルン」に公的に改名。多くの賛同者を従え改革派として、国の運営を手掛けていく。
アンリは子供が立派に成長し、彼の息子―――アンリにとっての孫が誕生し、その孫の子供が生まれるまで、長生きし続けた。
アンリの子は母と、父の意志を継ぎ、孫も同様に、彼女らを頼るべき指針として据えた。
ひ孫が生まれ、アンリが没し、しばらくして。
ひ孫の子供が生まれ、その子が物心ついた時に、それは、現れた。
「…やあ、初めましてだね」
「あなたは?」
「ぼくは、名乗るほどの者ではないよ。けれど、君に伝えたいことがあったんだ。アンリの被害者である―――英雄の末裔と騙されている、君にね」
古びた姿見の中に現れた若い女は、ゆったりとした笑みを浮かべ、耳障りの良い声で告げた。
リュカ
後の「英雄王」。偏屈。レリウス王国初代国王。
ライ・ヴァース
後の「剣王」。乱暴者。初代ヴァースアック。
ジルベルト・クィト
後の「賢者」。イケメン。アンリの旦那。
アンリ・アルン
後の「女傑」。弟大好き。ジルの妻。魔力持ち。
アック・レリウス
後の「魔族の王」。お姉ちゃん大好き。魔力持ち。
アルン…古い絵本に描かれている、理想郷の名前。幼少アックにより姉の名字に指定。
レリウス…古い絵本に描かれている、魔王の国の名前。幼少アックにより己の名字に指定。




