81.お酒はほどほどに
すっかり朝日が顔を出しても、一部の客は乱痴気騒ぎを続けている。
しかし自分達はそういうわけにもいかない。アリナに「朝迎えに行く」と約束を取り付けているのだ。
一晩分の酒代を給仕の娘に支払い、カヨウは兄カイロウと共に酒場を後にした。
カイロウの顔色は入店した時と全く変わっていない。素面と勘違いしそうになるが、たまに足元がおぼつかないのでカヨウは気にかけざるを得なかった。
「そこ段差あるから気をつけろよ」
「お前は何故それで異性と縁がないんだ」
「なんで急に悪口!?オレだって分かんねえよ!こんなに気配り上手なのに!」
やはり顔か、顔なのか、とモテる弟の面を恨めしげに思い浮かべていると、不意にカイロウが「お前がその気なら」と真顔で言い出す。
「見合いでも仕組んでやるが」
「いやあノーセンキュー。オレは自力で運命の人と結ばれるから問題なし。あんたこそ婚活した方がいいんじゃねえの。ヴァースアック本家の後継どうすんだよ」
「ヴァースアックの次代はお前だ。お前に任せる」
「いやだから継がねえってオレは…」
ていうかもし仮にあんたに何かあっても次はオレじゃなくてレイシン兄さんだろ、と続けようとして、カヨウは首を傾げ、無表情のままふらつく兄を見下ろした。
「つーか、レイシン兄さんはどこまで知ってんだよ、今日話してくれたやつ」
「一部」
「…具体的にどこまでなんでしょうか」
「ジョンについては何も話していない。というより、これを話したのはお前が最初だ」
「あ、そう…」
可哀想なレイシン、一番カイロウに尽くしてきたってのに…と同情を寄せつつ、カヨウは「まあ兄貴の性格が知らんおっさんに洗脳された産物とかあいつが知ったら憤死しそうだしなあ」と頷いた。
昨日通りかかった際の夕方の賑わいとはまた異なり、朝の爽やかな空気の中で今日も人々は活気に満ちて働いている。
もしヴァースアックが本気で世界征服に乗り出したら、この光景も無くなるんだろうなあとカヨウはぼんやり思った。
「…お前達と稽古がしたかった」
「あん?なんて?」
「私は剣を持つことを避けて生きてきた。だからお前達に指南することも、父に教えを仰ぐことも、他流の強者と手合わせをすることもなく、ここにいる。あまりにも情けない」
兄は道端で戯れる子供達を見つめていた。水桶を片手で持った少年が、よく似た顔をした年下の少年の手に洗濯物を積み重ねている。兄弟で手伝いでもしているのか、彼らは競うように駆け去っていく。
カイロウもカヨウももう子供ではない。だがカヨウはため息を吐いて首を振る。
「別に、今からでもやりゃあいいんじゃねえの」
「残念ながら、私にはもう無理だ」
「なんでよ」
「剣を持つ度に思い出す。父と斬り合った空虚な感覚を。あの瞬間に戦闘を退屈なものだと刻み込まれた。あの絶望をもう一度味わうなど御免被る。今度こそ心が死ぬ」
「…なんか、あんたも大変だったんだな…」
正直カイロウが話してくれた内容はあまり理解していない。
未知の情報も多かったが、中にはカヨウがとっくに知っていることを、さも重大な秘密のように語られて戸惑った部分もある。
というのも、ヴァースアックの強さの理由が、剣の腕が人並外れているから、というわけではなく、膨大な殺気を操り相手の動きを制限することで優位に立てるから、というのは、幼少より剣を師事する中で教わる当然の基礎知識なのだ。
その殺気の所以が悪魔の力というのは知らなかったとはいえ。
殺気で相手を圧倒し、動けなくなったところを狩る。その戦法をカイロウは「ハリボテ」と侮辱したが、カヨウはそこまで毛嫌いすることだろうか、と兄に共感できない。
もっとも、自分達の殺気が悪魔からの借り物で、虎の威を無意識に借る狐のような状態なのだ、と思えば、多少は納得できた。
ともかく。
この無表情な男がここ最近どれほど己を辱められたのかはちょっと分かった。
ヴァースアックらしくない性格に育って、それが生まれつきだと思っていたら他人に作られたもので、本来はもっと上手くやれていたと知ったら悩みもするだろう。
カヨウだって、自分が本当はミカゲツ以上のイケメンだったのに呪いで今の顔にされたのだと知らされたら「もっとモテるはずだったのに」と血涙を流すに違いない。別に今の自分の顔が嫌いなわけじゃないけれども。
「ま、あんま深刻に考えなくていいんじゃね。この先もずっと感性が変わらないとは限んねえし。一年くらいしたら理想の自分になれてるかもしんねえぜ?」
「…お前は何故それでレイパー未満などと汚名を着せられていたのだ」
「だから何で悪口!?しかも昔の傷抉ってくんじゃないよ!」
ミカゲツ、ヒソラと共に美人局に引っかかった古傷がぶり返しカヨウは頭を抱える。カイロウは弟へ上手い慰めの言葉がないか探しているうちに段差に足を引っ掛けた。
「…す、すっごい寝ちゃった…」
アリナは呆然と呟いた。
昨夜、エジットらと共に受付してもらい、二階に案内され(エジットらは一階だった)、わざわざ室内へ運んでこられた豪勢な夕食とデザートを食べ、豪勢な風呂に入り、ふかふかのでっかいベッドで睡魔に身を委ねたところ、目覚めたのは翌日の陽が高くなった頃だった。
慌てて肌触りの良い寝巻きから着替え、身嗜みを整えてから、朝食を取りに行かねばと急いで用意していると、朝食が向こうからやってきた。
あまりにもタイミングが良すぎる。まさか監視でもされていたというのか。
愕然としつつ口に運んだパンもスープも卵もボリュームはあるのに全く胃にもたれず、食後の茶を楽しむ頃にはアリナはすっかり気を緩めリラックスの境地にあった。
お高い宿、すごい。馬車旅の疲労も完璧に癒えてしまっている。
というか血筋に多少の難があるとはいえただの町娘だった自分がこんないい目にあっていいのだろうか。
まあいいか。
最近色々大変だったし。カイロウの厚意に甘えさせてもらおう。
時間たっぷり滞在してから、受付の広間に行くと、ちょうどエジット達も現れた頃合いだった。
彼らも皆肌ツヤが良い。人数の割に部屋は一つだったはずだが、それでも十分な休息が取れたのだろう。
「…おはようございます。どうでした?」
「いやあ、ハハハ…そちらも?」
「ええ、ふふふ…」
経験した者にしか分かり合えない満ち足りた感情を共有し、アリナ達は誠心誠意をもって職員達に感謝を伝えてから、名残惜しくも宿を後にした。
毛並みを綺麗にされた馬を引き連れて、アリナ達はしばらく前から彼女らの支度を待っていたらしいカイロウとカヨウと合流した。
が、
「うっ」
「うがあっ!?」
アリナは咄嗟に立ち止まり、先頭だったエジットが両手を振り回して悲鳴を上げる。
ただならぬ彼らの様子に、安穏と待機していた男二人は一気に顔つきを引き締め、尋ねる。
「おい、どうしたアリナ、何が」
「いえ、その…」
「酒くっっっっさ!!うがああ!近寄るな!我々は今まさに浄化されてきたばかりなんだぞ!命の洗濯をしてきたんだ!それなのにこんなにすぐ汚物に遭遇しようとは!!歩く生ゴミめが!!ええい去れ!往ねっ!」
言い淀んだアリナの気遣いを無碍にし、エジットは何の忖度もなく喚き散らした。
言っちゃった、とアリナは息を飲み、言われちゃった、とカヨウは両手で口を覆う。やがて両者の視線は同じ方に向く。
カヨウは、暴言を吐かれることに慣れている。大酒を飲んで帰ってきた次の日、弟にもっと酷い悪口を浴びせられたこともある。だからこんな程度では別に傷つかない。アリナに避けられるのは悲しいし、親交の浅いおっさんに罵倒されるのはむかつくが、尾を引くことでもない。
カヨウは傷つかない。
しかし、彼は。
アリナとカヨウ。二人の心配そうな視線を受けているのに気づいているのかいないのか、カイロウは変わらず無表情だった。
やがてびっくりするくらい小さな声で「すまない」と言い、踵を返した。
慌ててアリナが「大丈夫ですよ、大袈裟なんですよ」と弁明し始める傍らでカヨウは「てめえらあ!ヴァ…名家の当主たるカイロウさんに向かってその口の利き方、死ぬ覚悟はできてんだろうなあ!?」と拳を握ってメンチを切り始める。往来でヴァースアックと大声で言わない程度の落ち着きはあるようでアリナは安心した。
対してエジットも自分が何を言ったのか理解して目を白黒させていた。
おそらく反射的な台詞で深く考えた行動ではなかったのだろう。部下達は「ああ俺達死ぬのか」「でも最後にいい夢見たからいっかあ…」と諦めの境地に至っている。
「カ、カイロウさん、そんな気にしなくて大丈夫ですから」
「も、もも、申し訳ありませんでしたああ!!」
少女の必死のフォローと元凶男から怒涛の謝罪をかけられるカイロウの背中は、否応なく哀愁を感じさせた。
一晩酌み交わして、カヨウは兄の底を何となく把握していた。
本人が自称する通り、情けない話ではあるが彼はあらゆる面で経験がないのである。
晩酌はあっても徹夜して飲んだことなどないのだろう。そしてその結果周囲にどういう反応をされるのかも。
これがレイシンであったなら遠慮なくエジットに加担して日頃の恨みを晴らしても良いのだが、相手はカイロウ。オレ達の頭。
他国の下っ端などに馬鹿にされたとあってはヴァースアックの名に傷がつく。
というのはまあ建前で、カヨウは単純に、怒りを抱けないというカイロウの代わりに怒っていた。
カヨウは、当主となってからのカイロウのことが苦手だったし、深く踏み込まないでいた。
しかし、夜通し同じ酒を飲んで語らえば通じるものもあるのだ。
「ほ、本当に申し訳ありませんでした。つい口をついて…」
「…いや、こちらの落ち度だ。カヨウ、沐浴に行くぞ。このままでは馬にも乗れまい」
「お?おう」
振り返った兄は意外と平気そうだった。
心配そうなアリナと平謝りのエジットらと再び別れ、カヨウはカイロウと共に元来た道を戻る。
その道中、「あんためっちゃショック受けてたな」とつついてみれば、彼は「唐突で受け止めるのに時間がかかっただけだ」と平坦な声で言ってみせる。
「その割には声量すっげえ小さかったけどな」
「臭いと言われたのが初めてだった」
「ああ、うん…」
察して同情する。
何気に言われると結構心にくるワードよな、と同調しつつ、「まあ何事も経験だし良かったじゃねえか、オレなんか二日酔いした時「嘔吐物が服着て歩いてる」って言われたぜ」「そいつは斬ったのか」「残念ながら今頃ヒソラと一緒に昼飯でも食ってんじゃねえかな」と会話しながら二人は大衆浴場に消えていった。
体を清めて今度は何事もなく合流し、彼らはアルンへの旅路を続ける。
流石に一夜目のような贅沢の連発とはいかなかったが、それでも不便と呼ぶほどの施設に泊まることはなく、少なくともアリナは道中不満を抱えることなく旅程を進んでいった。
カヨウとカイロウは馬車移動でないため、疲れてないかしら、と度々アリナは心配を寄せたものの、ヴァースアックの強靭な肉体に気遣いなど不要とばかりに彼らは疲労の色など片鱗も見せることはなかった。
自然の多い宿泊地で、近場でキャンプファイヤーができる、と聞いた彼らはこぞって準備を始め、カヨウは燃え盛る炎の前で朗々とアリナも知っている童謡を歌い上げ、ちょっとした笑いを起こしていた。
カイロウの方もどこから調達したのか果実で簡単な甘味を製作しており、和やかな雰囲気に一役買っていた。
賊に襲われることも災害に見舞われることもなく。
アルンへの旅は予定通りに終わりを迎える。
ああ、バカンスが終わる…とハラハラ涙を流すエジットをよそに、アリナは厳しい顔で城壁を見上げる。
妄執に囚われたヘンリーを説得するために。
彼女は覚悟を決めて再び足を踏み入れた。




