75.キリカの中身
「ですから、あたしは女傑アンリと賢者ジルベルトとは関係なかったんです」
眠りから覚めた赤髪の少女は、思慮深い顔つきで滔々と自身の見てきたものを語った。
彼女はそれが真実であるとすっかり信じ切っているようだが、レイシンには疑い深い。
そもそも、アリナが意識を失ったのは、悪魔のせいだ。
その悪魔が見せた幻覚の世界で得た情報なのだから、信用に値するとは思えない。
いずれにせよ、アリナが記憶に混濁もなく心身に障害もなく復活できたのは喜ばしいことだ。そこだけは悪魔に感謝してやってもいいか。
いやいや、アリナが危ない目に遭ったのは悪魔のせいだ。感謝などする必要は全くない。
レイシンはそんなことを考えながら、少女の報告に耳を傾けていた。
「だから、このことをあの人達に伝えれば、もう演技する必要もなくなると思います」
アルンの国の公爵、ヘンリーに外見を見初められ結婚を申し込まれたアリナ。
成り行きで婚約者の関係(偽)になった自分とアリナ。
真偽を見極めるためヴァースアックの領土にまで押しかけてきたヘンリーの部下、エジットらを欺くためデートにまで行った自分とアリナ。
その先でこっそりついてきていた兄カイロウと行動を共にするも兄が失踪。
悪魔がカイロウに成り代わることで混乱は避けられたものの、その日の夜にはアリナが意識を失った状態で倒れているのが発見された。
当主である兄と、事情を知っていて相談相手にもなるアリナが交流不可能になり、精神的に追い詰められた自分。
中央大森林に暮らしている父トウセンを呼び戻すべきか否か、悩み抜いていた自分の前にあっさりと帰宅した兄。
その翌々日、これまたあっさりと目を覚ましたアリナ。
よく発狂しなかったものだ、と自分で自分を褒め称えたくなる。
カイロウについては不安事項もあるが、悪魔が地下に封じられ事態をかき回すことがなくなった以上、物事は好転していくに違いない。
「…いつ話すかなんですけど、やっぱり早い方がいいかなって…あの、レイシンさん?」
「ん」
「聞いてますよね…?」
「勿論だ。ヘンリー殿に事情を説明し求婚を断る日程の話だろう?」
「そ、その通りです!すみません、変なこと言って…」
「気にするな」
当主の右腕たるもの、考え事をしている最中でも他人の話を理解できないほど低能ではない。
「まずはあのエジットという人に仲介してもらった方がいいんでしょうか」
「そうだな。取りついでもらうならそれが…」
「アーリナー!せっかく三日ぶりに起きたんだから一緒に夜更かしでも…」
バーン!とダイナミックに扉を開けてきたのは、銀髪の少女だ。
彼女は奔放そうでなかなか常識がある。共有スペースは別として、個人部屋への入室の際にはノックを欠かさない。そんな彼女が大手を振って現れた。
つまり、アリナが起床したことでそれほどテンションが上がっていたということだ。責めるべきではない。
そう納得はできても、失態には違いなかった。
「…えっ」
アリナの快気パーティーという予定が詰まっていたため自分側の説明だけをして、パーティーを終え、アリナが地下室で悪魔と面会してくるのを待ち、ようやく相手側の詳しい事情を聞こうと窓からアリナの部屋に侵入したレイシン。
キリカから見れば、自室に戻っているか、長兄の補佐をしているはずの次兄が、夕食もとっくに済ませた夜に、アリナと密会していたことになる。
目も口もぽっかりと開け、キリカは言葉を絞り出した。
「…も、もしかしてあれってほんとだったの?」
「な、何だと…」
「婚約のお話。てっきりそういう振りかと思ってたけど、二人はその気だったの?」
「ば、馬鹿なことを」
泡を食うレイシンを制するように、アリナは前に進み出て呆然とするキリカに堂々と言い放った。
「やめて、キリカ。とんでもない誤解だわ。レイシンさんと少し打ち合わせしておきたいことがあっただけよ」
「そ、それだったら、アリナの部屋じゃなくても」
「その方が都合が良かっただけよ」
冷静な物言いのアリナに、キリカも多少は落ち着いたのか「そっか。そうだよね」と頷き、続けて「でもわたしもアリナと話したいこといっぱいあるから、後で相手してくれると嬉しいな」と笑った。
「ええ、当然よ。明日はいつでも空いてるから」
「うん。ありがとう。おやすみアリナ、レイシンお兄ちゃん」
「あ、ああ…」
キリカを見送り、アリナは腰に手を当て、凝り固まった首をほぐすように回すと、その勢いのままレイシンを見上げた。
「…言い淀むと余計に怪しいと思います」
「す、すまん…」
キリカで良かったですね、これがカヨウだったら、絶対騒ぎになってましたよ、と言い募ると、レイシンは、いや、私はカヨウの方がやりやすかった。あいつは叱ればいい話だからな、と真面目な顔で返すので、アリナは思わず苦笑してしまった。
キリカは廊下を一人歩いていた。
レイシンとアリナが二人で何やら話していた。秘密の会議だ。疑惑はアリナが否定したし、不埒な様子もなかった。別に構わないと思う。しかしちょっと寂しいのも事実だった。
「まあいいや」
こういう時はカイロウのところでくだらない話をするのが一番いいのだ。あの優しい兄は、キリカがどんなに馬鹿げたエピソードトークをしても静かに受け入れてくれる。
殺気。闘気。威圧感。それらはキリカにとって無意味なものだ。記憶を取り戻した今では、それは自身が魔石によって改造された結果の産物だと分かっているが、それでもカイロウの常時まとわれた殺気に惑わされず、本当の姿を見られるのはいいことだ。
初めてカイロウに会った時のアリナは、大層怯えていた。それが普通の反応だ。キリカが異常なのだ。
けれどそれでいいのだ。異常でも利点はある。
「カイロウお兄ちゃん!パーティーに出席しなかった罰としてわたしと徹夜コミュニケーションなんだよ!」
執務室のドアを両手で押し開き、キリカは仁王立ちで兄に宣告する。
それに対し、机の書き物に対面していたカイロウは一瞥もせずに返答した。
「断る。下がれ」
「…ええー!?」
「声量を抑えなさい」
「だ、だって」
初めてなのだ。
どんなに怖い顔をしていても、どんなに近寄り難いポーズを取っていても、カイロウは頼みを無碍にすることは一回もなかった。
「ええーカイロウお兄ちゃん何かあったの?お腹痛いとか?」
そういえば、この三日間、キリカを含めきょうだい達は眠るアリナにつきっきりで、カイロウとろくに会話していなかった。ひょっとして拗ねているのだろうか。
ジリジリにじり寄るキリカにカイロウはため息を吐いてペンを置き、真っ黒な鋭い目でキリカを見つめた。
「私は忙しい。お前に構っている暇がない」
「忙しいって、何してるの?」
「手始めに、レリウス王国を籠絡する。その準備だ」
「…レリウス?なんで?」
問いに、カイロウは一切目を逸らさず瞬きもせずに「あの国の王族を葬り去るためだ」と答えた。
「なんで。リュカがせっかく建国した、理想の国なのに」
「あれさえ消してしまえば敵はいない。ヴァースアックが王として君臨するために、レリウスは邪魔だ」
「誰がそんなこと望んだの。戦いなんて誰が得するの」
「それがヴァースアックの使命だからだ」
英雄王リュカが作り上げたレリウス王国。女傑アンリと賢者ジルベルト、ヴァースアックの祖である剣王ライが力を合わせ、アンリの弟が夢見た世界。人を虐げる魔族のいない、誰でも幸せになれる世界。
キリカはカイロウの手元を掴み、引き寄せ、びくともしない無表情に大声を浴びせた。
「ライがそんなこと望むはずない!」
「…なるほど。聞いていた通りだな」
カイロウは彼女の腕に手をかけ力を込める。痛みで歪んだ子供の顔へ平坦に語りかけた。
「お前の中には、元来の幼いキリカと、記憶を失ってヴァースアックに来て成長したキリカと、魔石に閉じ込められた怨念と、女傑の弟の残留意志があり、それらが区別もできないほどに混ざり合っている。ただの人間に魔石を植え付け、魔力を得た代償として、お前の肉体は健やかな成育を止め、精神は不確かなものになった」
「…誰に」
「もはやお前は一人の人間ではない。哀れなことだ」
カイロウから離れようと暴れるが相手は微動だにしない。幼少に魔石を埋め込まれ成長期すら緩慢になっている童の肉体と、長らく鍛錬を積んでいなかったとはいえ剣王の血を引く男とでは地力が違い過ぎる。
空色の瞳を見開き、キリカは掠れた喉で主張した。
「わたしは…ぼくは、ただアリナを、お姉ちゃんを守りたくて」
「アリナはアンリの血筋ではない。類似したのは見た目か性格か、どちらにしても他人の空似だ。お前が愛を捧げるべき人間ではない」
「だって私はお姉ちゃんだから、妹を守らないと…あの子はぼくのお姉ちゃんだから、弟のぼくが守らないと」
錯乱する妹の姿に、カイロウは柔らかな口調で話しかける。
「女傑の弟。落ち着いて考えるといい。もうアンリは死んだ。ジルベルトも、ライも、リュカも死んだ。英雄王の叙述は、とっくの昔に没した。死者に対してできるのは悼むことだけだ。もう、お前が苦しむ必要はない」
「ぼく…そっか。ぼくは、もう、お役御免…。でも私は、お母さんに言われた!お姉ちゃんなんだから、妹を助けてあげてって。だから私はアリナを助けなきゃ」
「幼いキリカ。お前の本当の妹は、母親と共に消えた。アリナはお前の妹ではない。縛られることはない。母との約束はとうに失われている」
「そんな…」
しばらくキリカは項垂れて、一言も口にしなかった。その様子をカイロウはじっと見守り、彼女が次に言葉を発するまで突き放すことはなかった。
「…でも、わたしはアリナが好きだよ。お兄ちゃんも、ここに住む人達も、皆。わたしに優しくしてくれたもん」
「私の知るキリカ。それがお前の本心なら、それでいい。過去の幻影に惑わされるな。お前の指針はお前が決めろ」
「でも…ずっと、聞こえるんだよ。記憶を失う前の幼い私でも、遠い過去の女傑の弟のぼくでもない。全部が憎いって。感情を生み出す人間なんて、滅びてしまえばいいっていう人がいるんだよ。誰だか、分からないけど」
『どうしてだ。何をしたと言うのだ。罪を犯してなどいないのに。憎い、嫌だ、全て消えてしまえ』
そんな衝動が自分の中の奥底には巣食っているのだと、キリカは目を伏せながら打ち明ける。
カイロウは背の低い妹の肩を叩いてなだめつつ、静かな声で言った。
「それが魔石の怨念だ。負けてはならない。もしそれに支配されれば、再び魔族が生まれ、英雄王が誕生しなければならなくなる。お前のせいで、多くの人々が泣くかもしれない」
「わたし、そんなの、嫌だよ…」
「ならば、じっとしていなさい。暗い感情を抑えて、楽しいことを考えろ。兄弟と平和に過ごしていればいい」
「…うん」
数分前までの気合いを削がれ、力なく肯定したキリカに、カイロウは「今日はもう寝なさい。風邪を引かないように」と言いつける。一度背を向けて、ドアまでぎこちなく進んでキリカは最後に「優しいのに。どうしてカイロウお兄ちゃんは争いを起こそうとするの。レリウス王国と仲良くできないの」と呟いた。
「…レリウスにこだわりはない。ただ、ヴァースアックの名を知らしめるためには、それが一番効率がいいだけだ」
「どうして」
「それがヴァースアックの生まれた意味だからだ」
先ほどと同じ意味の言葉を繰り返し、それ以上何も言わずにカイロウは妹を見送った。




