73.目覚め
ふと瞼を上げると、懐かしい天井があった。
アリナはぎこちなく身を起こし、周囲の状況を見回す。
ヴァースアックの屋敷。ミサに頼まれたカイロウが与えてくれた自室。カーテンが引かれていて外の景色は隠れているが、日差しが漏れ入ってきているのを見るに、日中の時間帯のようだ。
ベッドの縁には、寄り掛かるようにしてキリカが眠っていた。
「…あたしは…」
呟き、声が掠れているのに驚く。
今はいつで、自分は何をしていた?
頭を両手で抱え、必死に記憶を探る。
そう、確か、悪魔の問いに答えて、幻の世界から抜け出して、それから―――
「アリナ…?」
思考が少女の声で中断される。
目をこすり、ぼんやりした眼差しでキリカはアリナを認識、瞬間飛び跳ねた。
「アリナ!?」
「キ、キリカ、あたし」
「うわー!アリナが起きた!起きたよー!良かったー!!」
勢いのままにしがみつかれ、アリナは再びベッドに身を沈めた。
「キリカ、お願い、離して苦しい…!」
「わあっごめん!でも本当に心配したんだよ!」
「そ、そうだったのね。でも今は元気よ、健康体!痛くも痒くもないわ。だからもう泣かないで」
「うん!良かったー!」
キリカの外見は、アリナが見慣れたものだ。肩までの銀髪に空色の丸い瞳。白いワンピース。表情は豊かにくるくる回っている。
自分はどうなっていたのか、と問いかければ、キリカは首を傾げて「ずっと眠ってたの。三日くらいかな」と回答した。
三日。たったそれだけなのか、とアリナは衝撃を受ける。精神的には三ヶ月…否、一年ほどの月日が経過したような気さえするのに。
「もうほんっとーに皆心配してたんだよ!カヨウお兄ちゃんは情緒不安定になるし、ヒソラお兄ちゃんとミカゲツお兄ちゃんは役に立たないし、レイシンお兄ちゃんは怒ってるし、カイロウお兄ちゃんは相変わらず何もしてくれないし!」
「…待って、キリカ。カイロウさん、どうしてるの?」
記憶が少しずつ現代に戻ってくるのを感じる。
そう、そもそも、カイロウが街で行方不明になったのが始まりだったのだ。
カイロウがいなくなって、悪魔がその身代わりを務めて、悪魔の助言によりレイシンが前代当主を呼び戻そうとして、事情を知る自分もできることをしようと思った。
その矢先に、悪魔によって幻に閉じ込められた。
そして現在、どうにか旅から帰還してきたらしい。
キリカの言い分では、カイロウは変わりなく、何もせずにいる。ということは、未だに悪魔が化けているということだろうか。
しかしレイシンが怒っているとは、悪魔に対しての怒りか。悪魔の正体を知り、カイロウが消失したのも把握している唯一相談相手にもなり得るアリナが、突然に悪魔に眠らされてしまっては、レイシンも憤るのは当然だ。
「カイロウお兄ちゃんなら、いつもの部屋だよ」
キリカの返答に、アリナは身だしなみを整える暇もなく自室を飛び出した。
「あなた!今、どういうつもりなの!?」
執務室の扉を乱暴に閉めるなり、アリナは叫び、椅子に深くかける男に駆け寄った。
男は無表情で詰め寄るアリナを見つめる。真っ黒な眼光は鋭くこちらを抉るようだ。何を考えているのかさっぱり分からない。
「…目覚めたのか。それは良かった。しかし報告にはあまりにも性急ではないか。寝巻きの状態で、一体何の用だ」
「あ、あなた何言ってるの!?あなたのせいであたしは…!」
「すまないが言っている意味が理解できない。要件を手短にまとめてから来てもらわなければ困る」
話が噛み合わない。
この男は悪魔のはずだ。アリナを自身の都合により幻に封じ込め、過去の世界を体験させた。
ひょっとして、何か重大な欠陥でも生じたのか、と疑念が浮かぶ。
アリナを眠らせるのに魔力を消費し過ぎて疲労し、現状の認識が歪んでしまっているとか、消耗で記憶が欠損、アリナに正体を知られているのを忘れているとか。
言葉に詰まって俯いた時、背後で扉がダイナミックに開く音がした。
「アリナー!大丈夫!?慌ててどうしたの!?」
「アリナ!起きたんだな、マジで心配で死ぬかと思ったぜ!」
「三日三晩眠り続けるなんて、やっぱり病気なのではないですか?」
「でも前にもキリカがあったよね。あの時も結局何なのか分からなかったし、もしかしてヴァースアック以外にかかる風土病とかなのかな…?」
キリカ。カヨウ。ミカゲツ。ヒソラ。
続々と現れたきょうだいは、アリナの記憶そのまま、ぴったり一致する姿だ。
心に湧いてくる、懐かしいという感情に若干の戸惑いを抱きつつ、アリナは彼らを出迎えた。
「ごめんなさい、心配かけて。でももう平気よ。あたし…」
「すまないが、会合ならば外でやってもらいたい」
遮ったのは案の定カイロウだ。彼の態度に「そうかい!邪魔して悪かったなぁ!」と真っ先にカヨウが反発し、アリナは青年に背中を押され、執務室を退室せざるを得なかった。
廊下に出ると一人、離れた場所で強張った顔のレイシンが直立不動で待っていた。
彼ならば何があったのか知っている。アリナはきょうだいに「ごめんなさい、あたし一回着替えてくるわね。混乱していて思わず出てきてしまったけど、失礼だったわ。恥ずかしい」と頭を下げ、レイシンに露骨に目配せをする。
レイシンは複雑な表情をしてから、「アリナの無事も知れたし、私は戻る」と踵を返した。
何も知らない人々は「えー!でも仕方ないね、待ってるからね!」「おお!食堂で快気パーティーすっから準備出来たら来いよ!」などと言い募りつつはけていく。
アリナは自室に戻り、洗顔とその他もろもろを済ませ、久方ぶりの丁寧に洗濯された服に腕を通して、レイシンを待った。
やがて彼は窓から侵入してきた。他の人達にバレないようにするためとはいえ、絵面が酷い。
「…何があったんですか?」
「…悪魔が封じられた」
「えっ?」
「二日前…アリナが目覚めぬことで屋敷が浮き足立っている最中、散歩から帰ったかのように、ごく普通に兄上が帰還された。私以外は「カイロウ兄さんが瞬間移動した」とでも思っているだろう」
「そ、それって誤魔化せるんですか?」
「兄上は共通認識で超人だからな。その程度当たり前だと思われるだけだ。それはいいとして。兄上は、悪魔が自身に成り代わっていることを知って、躊躇いなく悪魔を地下の祭壇に閉じ込めた。それ以来、悪魔とは、何の連絡も取れない」
「じゃ、じゃあ、さっき会ったのは、本当のカイロウさん…?」
「そうだ。兄上は…変わってしまられた。行方不明の間に何があったのか私が尋ねると、『悪夢を見ていた』と、それだけ仰った。おかげで父上を呼ぶ必要は失せたが…」
レイシンの声と面持ちには苦渋が滲んでいる。
自身が夢を見ている間に相当疲弊したのだろう、と察し、アリナは、壁に背中を預け目を伏せるレイシンにそっと声をかける。
「あたしは、悪魔に魔法をかけられて、ずっと幻を見ていました」
「やはり奴の仕業だったのか」
「はい。ずいぶん長い夢でした…でも、どうして、カイロウさんは悪魔を遠ざけたんですか?確かに良い存在ではないかもしれないけど、助けられたことだってあるのに…」
「…言っただろう。兄上は変わってしまわれた。ヴァースアックの当主として相応しい、高潔な人間になったのだ」
「…なんですって?」
愕然としてレイシンの顔を見上げる。青年はため息を吐き、だらりと下げられた拳を握って答えた。
「兄上は、一族に寄生し当主を惑わし良いように操っていた悪魔を害虫として断じ、かつて剣王が宣言した元来の目的…ヴァースアックの名を世界に轟かせ、恐怖の化身として君臨するという指針を決めたんだ」




