62.悪魔の不興
「どうしたんだ、ヒソラ。その子は…?」
少々戸惑いつつも、柔らかい笑みを崩すことなく幼い弟に尋ねるその青年は、どこから見てもカイロウに違いなかった。この世界で見た知人の中では、彼が最もアリナの記憶の中に近い姿をしていた。
とはいえ、若いことに変わりはなく、おそらくこの彼は十七、十八歳程度だろう。ヴァースアックを束ねる当主となる以前のはずなので、その顔つきには厳格さの一切も感じられない。
もっとも、元の世界のカイロウも素を晒すと同様に威厳は皆無なのだが…。
「…兄さんが連れてけって」
「兄さん?ミカゲツが?君は一体…」
弟に目線を合わせしゃがんでいたカイロウはヒソラから真っ黒い優しげな目を離し、アリナを真正面から見つめた。そこから得られる出どころ不明の安心感も、変わらない。
「…あたしの名前はアリナ。あたしが何者かは、きっとあいつが教えてくれるわ。だって、あたしをここに送ったのは、あいつなんだもの」
「何?」
「そうでしょ…悪魔」
その単語を口にした瞬間に、カイロウが息を飲んだ。ヒソラは不安な面持ちで兄の服の裾を掴み、所在なさげに立ち尽くす。
かつてアリナとカヨウは、記憶を消された。
それは一回かもしれないし、複数かもしれない。何しろ、覚えていないのだから証明のしようがない。
だが、アリナは思い出した。あの夜、カヨウと一緒に中庭で月見をしていた自分は、突然現れた影の奇怪な訴えを聞いた。その後、影はカイロウに切り裂かれ、カヨウ共々、何らかの力により意識を失い、目覚めた時にはその出来事の記憶を喪失していた。
誰がそんなことをしたのかは、もうアリナには分かっている。
かつて、ヒソラに化けたあの悪魔は、病床のアリナの見舞いに来たカヨウに言っていたではないか。
「あの代用品は、真実に到達しかけた者の記憶を消し、元に戻している。それが幸いだと、本気で信じている」と。
そして、あの夜にカヨウとアリナを襲った影の正体、すなわちアリナを過去に飛ばしたものの正体も、分かっている。
「あの代用品、約束破ったな!」「スイを知ってるのは、おれだけでいいだろうが」
彼を代用品と呼び、スイという人物に執着を抱いているのは、あの悪魔に他ならない。
つまり、悪魔と影は同一の存在である。
カイロウが行方不明になり、その苛立ちからアリナに八つ当たりでもしたのか、それとも別の目的があってアリナを過去に送ったのかは不確定だが、ともかく、悪魔が原因なのは間違いないのだ。
この家に悪魔がいて、既にカイロウに執着し始めているのかどうかは賭けだった。しかし、目の前のカイロウの反応から見るに、アリナの推測は当たっていたようだ。
「…場所を変えよう。ヒソラ、彼女を連れてきてくれてありがとう。ミカゲツにもよく言っておいてくれ」
「え?あ、うん…」
温和な表情を保ったままカイロウはアリナを手招きし、屋敷内へと彼女を導く。
取り残されたヒソラは、兄の手入れ済みの植え込みの傍らで、二人が遠のいていく様をじっと見送っていた。
案内されたのはカイロウの自室だった。現代ではカイロウはほとんどの時間を執務室に費やしているように記憶しているが、こちらではまだ彼もカヨウやミカゲツのように部屋で過ごすこともあるらしい。レイシンのように私物が少ないわけでもなく、多少本棚や机周りがごちゃっとしていて生活感があった。
「あまり見ないでくれ。恥ずかしい」
「あ、すいません」
「で、悪魔…の話だったか」
物珍しそうにキョロキョロと首を動かすアリナに苦笑してすぐ、カイロウは本題に入る。アリナも見物するのをやめ、真面目な顔で頷いた。
「はい。実はあたしは過去に飛ばされてきたんです。つまり、未来からやって来たってことです。未来で、悪魔が影の姿であたしに襲いかかってきて、気づいたらここにいました。悪魔に聞いてください。あたしが元の世界に帰るには、どうしたらいいか。張本人の悪魔なら知っているはず」
「…だ、そうだ」
「すっげえ濡れ衣!」
突如カイロウの隣に黒髪の青年が現れたものの、アリナは動じず見やるだけだったので、彼はつまらなそうに口を尖らせた。
それはカイロウと同じ顔立ち、同じ背丈だったが、やはりその表情にはカイロウにない悪意のようなものが見え隠れしている。
「ちょっと、やめてくんない人のこと勝手に悪そうだとか品評すんの。まあおれ人じゃねえけど」
「でも、あたしを攻撃してきたのはあなたよ。あたし、思い出したんだから。そもそもあなた以外にこんなことできないでしょ」
「そりゃあおれって神様みたいなもんだし?やろうと思えば何でもできるけど、そっちの時代のおれの悪行をおれになすりつけられても困るんだけど!おれはお前のこと知らねえし敵対してる覚えもないんだからな!」
猛抗議してくる悪魔の言葉に、アリナはほっと肩を撫で下ろした。
「何でもできるってことは、あたしを元の時代に戻すのもできるのよね?」
「え、無理」
「な!?何でもできるって言ったじゃないの!」
期待を裏切られたアリナは悪魔の体を掴んでゆする。対して悪魔は依然として軽い調子で、
「いやあやろうと思えばね。でもやりたくねえよ。時間とか空間を飛び越えるなんざどれだけ代償払わされるか分かったもんじゃねえし。つーか、そっちのおれはずいぶん思い切ったことしてんな。過去に干渉するなんて、まるで…」
ふと、悪魔は口を閉ざした。アリナは首を傾げ、手を離して「どうしたの」と続きを急かす。それでも悪魔は微動だにせず、静観していたカイロウと顔を見合わせたところで、それは起こった。
「おうえええええええ」
「きゃあああ!?」
先ほど自分は人でないと自称したばかりなのに、悪魔は二日酔いの人間のようにえずき、顔色を真っ青にして、身を丸めて震え出した。
「どうしたの!?」「食い合わせが悪かったのか?」「えっ悪魔って何か食べるんですか?」「いや、食べないと思う」などと会話しながら、アリナとカイロウは軽率に手出しできずにただ見守る。
そのうち、悪魔の姿は男性、少女、老人、青年とぐにゃぐにゃ変わっていったが、やがて人の形をしただけの影に変化した。
真っ黒な輪郭に、一つだけ浮かぶ赤い口。
これこそアリナを襲った犯人である。記憶の中の影ともぴったり一致する。
しかしそれを高らかに宣言して「やっぱりそうじゃないか」と悪魔を責める気にはなれない。眼前で今まさに悶え苦しんでいるのを見せつけられては、敵視する気も失せる。
しばらく悪魔はもんどり打って暴れていたが、やがて横たわったままぴくりとも動かなくなった。
「…大丈夫?」
「無理」
即答だったため、少し安心する。
「…あー、把握、把握。お前が何でここにいるのか分かった」
「えっ!?」
「ついでに、お前の記憶もな。くそっ気持ち悪ぃ…魔力持ちならそう言えよ。情報なだれ込んできやがった」
身を起こし、自身が影に変貌しているのに気づくと瞬時に変身、今度はカヨウ(少年)の見た目になった悪魔は不機嫌の極地にある様相で「アリナ、アリナね。よーく分かったよ」とぼやく。
悪魔に名乗った覚えはない。本当に己の情報を入手したのか、アリナが疑問を呈しようとすると、悪魔は手で制し告げた。
「心配すんな。ここは過去じゃない。幻の世界だ。だから歴史が改変されることはない。好きにしな」
「な、なんですって?幻って…あなたも?」
「まあな。正確に言ってやると、ここは、お前の知るおれが作り出した幻。悪魔の記憶の中の世界だ。お前はそこに閉じ込められたのさ」
「だから、この領地以外には出られねえんだな」とサラッと悪魔は付け加える。
「つまーり、そこにいるカイロウはおれの記憶の中のカイロウだし、このおれは記憶の中のおれだ。ちょっと美化されてるかもしれないけど許してね」
ここは、アリナに襲いかかったあの影=悪魔の記憶から再現された世界であり、実際にアリナが時間を超越してきたわけではない。現実では、おそらくアリナは中身だけを悪魔に封じ込められ、体は寝たきりになっているだろう。
そして、元の世界に戻る、幻から脱出し意識を取り戻すためには、この世界の創造主である現実の悪魔が設定した「条件」を満たさなければならない。
カヨウの姿の悪魔はそう説明し、面倒だと言わんばかりにわざとらしくため息を吐いた。
「…条件って、何なの?」
「検討はつくけど言えないな。そういう制限だ」
「制限って…」
「制限は制限だ。誰かが正解に辿り着かない限り、おれは喋れない。残念だったな」
アリナは眉をひそめ、「カイロウさんは何か分かりますか?」と黙って成り行きを伺うカイロウに矛先を向けた。
青年は腕を組み、伏せ目がちに穏やかな声色で答える。
「うーん…俺からしてみれば、荒唐無稽な話だ。いきなりここは幻で、俺達も幻と言われても、受け入れきれない。君に協力し、無事に家に返してやりたい気持ちはあるが…」
彼からしてみれば、突然家に侵入してきた少女が、嫡子にしか伝えられないはずの悪魔の存在を言い当て、悪魔を嘔吐(未遂)させたばかりか、この世界は全てまやかしだと断言されたのだ。困惑するのも当然だろう。
「でも、君を見捨てるつもりはない。その条件が分かるまで、ここに滞在できるよう、父さんに頼んでみるから」
「ありがとうございます」
アリナは、こっちのカヨウと共同生活をするのはちょっと嫌だな、と思いつつも彼の好意を無碍にするのは避けたかったため、大人しく礼を述べた。
かくして、アリナはその屋敷で暮らすこととなった。




