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61.再現

 アリナを屋敷に運び込んだカヨウ、アリナの体勢を戻し助けてくれたミカゲツ、そして名前を呼ばれていないためれっきとした証拠はないが、おそらくレイシンという名であろう、カヨウに怒鳴りつけた少年。


 地面と垂直に立ってもなお、アリナの混乱は治らなかった。

 見た目は違うのに、彼らと等しい名前を持つ年少の人々。今もカヨウとレイシンは口論を続けており、耳が痛い。だが、その応酬にはどこか馴染みがある。

 これはつまり、カヨウ達の少年時代、過去に来てしまったとしか考えられない。


「どうして…?」


 答えは決まっている。

 あの、得体の知れない影の仕業だ。影はアリナを飲み込み、ヴァースアック領地の端へと転移させた。それは場所の移動だけでなく、時間をも飛び越えさせる技だったのだ。

 では何故、そんなことをしたのか。それについては、何の材料もない。あの影は多少人語を操っていた。だとしても、こちらと正常にやり取りができるとは限らない。相手を選ばずただ理不尽を押し付ける、高度な謎の存在である可能性もある。

 何しろ、アリナはあの影と出会うのはこれが初めてなのだ。


(…?)


 ふと、頭の片隅に何かが引っかかる感覚がした。

 しかし、世界はアリナの戸惑いを追及する時間を与えてはくれなかった。


「あーいいよ!そんなに嫌だってんなら、オレはこいつと家出して仲睦まじく暮らしてやる!」

「出来もしないことをほざくな!お前がここを出て、どこに行き場があると言うのだ」

「兄さんと違ってオレは知人が多いんですー。頼りはいっぱいあるから心配しないで旅立ちを見守ってくれ!」


 言い捨ててカヨウはくるりと振り向き、思わず身構えるアリナを再び担ぎ出そうと体に手をかけた。

 咄嗟にその手を全力で叩いて後ずさる。アリナにとって、カヨウという青年は信用に足る頼もしい人物であるが、すぐそこにいる少年カヨウにはどこか居心地の良くない薄気味悪さを覚えずにいられなかった。


 拒絶され、あからさまにショックを受けてのけぞるカヨウに、憤然といった様子で階下に降りてきたレイシンは「さっさと元の場所に戻してこい」と弟の背中を拳で打つ。

 「ぐえぇ」とわざとらしくカヨウは呻いた後、一つ大きなため息を吐いて、名残惜しそうにアリナを上目遣いで見やった。


「あーあ、せっかくの逸材…いややっぱ勿体ねえよ!これ逃すのは流石にオレ嫌だって!なあ兄さんどうにかしてくれよ次期当主権限でさあ!」

「いい加減にしろ、仮に父上が許したとしても私は絶対に許さんからな!」

「何でだよ!?何がそんなに気に食わねーってんだ!」

「だから…!お前が女を神聖な生家に持ち込むなど許し難いと言っているのだ!」


 また口論が始まった。

 お互いがお互いを論破するのに夢中になっており、この隙をみすみす見逃すことなどできない。アリナはわずかに開かれた扉の隙間から屋外にちらりと視線をやり、扉に鍵がかかっていないことを確認、二人の少年と自分の距離をゆっくりと稼いでドアの前に移動すると、一気に屋敷から逃げ出した。


「…あ!?」


 気づいたカヨウの叫び声がアリナの耳に届いたのは、屋敷の全貌が目視できるほどの距離を取った後だ。かの少年はやはり声量に優れている。


 本当にここが過去ならば、逃げ場はない。彼らの元から離れても宛てなどない。だが、それでも今のカヨウにいいようにされるのは我慢ならなかった。

 必死で走っていると、かつてこっそりと夜間に領地脱出を決行した際のことを思い出す。

 あの時は、ヴァースアックのことを何も知らなかった。彼らが普通の人間と同じように笑ったり喜んだりするなど考えたこともなく、ただ、黒い悪魔と、化物と恐れていた。

 あの時は、カヨウはアリナが逃走するのを予測し、待ち伏せていた。そして、彼に「自分で決めればいい」と諭され、この地で暮らすことを選んだのだ。

 しかし今は、留まることなど選択肢にない。

 何故そこまで嫌なのか、アリナ自身にも分からなかった。


「はあ、はあっ…」


 息を切らしながら、ひたすら走る。これまでの記憶を手繰り、人の目にあまりつかないルートを選びながら、彼らに見つからないよう、追いつかれないように走る。

 どうにかして現代に帰り、いつもの彼らとの時間を取り戻す。


 そんな思いは、その光景を目にした瞬間に霧散した。


「…え?」


 ヴァースアック領地の周囲には、人が迂闊に探検できないような自然の罠がある。それを易々と越えていけるのがヴァースアックであり、彼ら所有の馬であり、土地勘のない者ではたどり着くことすらできない。

 故にアリナも領地を出る際はヴァースアックの者と同行するしかないのだが、それどころではなかった。


 先がないのだ。

 領地の先には、鬱蒼とした木々が見えるはずだった。それが薄闇に閉ざされていた。

 恐る恐る近づいてみる。まるで何かに阻まれているかのように、その闇には近づけない。気づいたら元の場所に戻っていたというのでもなく、進んでいるのに進めていない。どこか抜け穴はないか横に歩き回っても同様。物理的に不可能だった。

 空を見上げる。領地のはるか先の空は薄闇に飲まれ、窓越しに外を覗いた時のように歪んで見える。


 アリナは悟って呟いた。


「…逃げられない」


 そうなれば、頼りは一つしかなかった。




「何で戻ってきたんだ」


 屋敷に到着したアリナを最初に発見し、他者に見つからぬよう裏手に導いたのはミカゲツだった。今はアリナより幼いが変わらず思慮深そうな瞳をした少年は、この頃から既に端正な顔をしかめて「僕の兄があんたをどうする気か、分からないのか。さっさと逃げないと一生苦しむことになるぞ」と脅すように言い募る。

 少年の優しさに内心安堵し感謝しつつも、アリナは手を握り締めて毅然と伝えた。


「カイロウさんに会いたいの」

「…何だって?どうしてあんたが兄さんを知っているんだ。あんたただの捕虜じゃないのか。一体どこから」

「説明は、カイロウさんに会ってからする。お願い。あたしをカイロウさんのところに連れて行って」

「…簡単に言ってくれるなよ。カヨウは使用人を総動員して今もあんたを探してあちこち…いや待て。何故、あんたは捕まっていないんだ?」


 何故、と問われてもアリナには分からない。アリナはただ、人通りのない道をなるべく静かに歩んできただけだ。だが、ミカゲツにはそれが信じられないようだった。


「…本当にただものじゃないんだな…でも鍛えられた形跡もない…仕方ない。少し待っていてくれ」


 少年はアリナを残して離脱し数分後、何かを引っ張って戻ってきた。

 それは紛れもなく彼の弟である少年に違いなかったが、アリナの知っているヒソラとはあまりにも異なっていた。


「ヒソラ、僕がカヨウ達を引き付けている隙に、この人をカイロウ兄さんのところへ案内してやってくれ」


 ヒソラはミカゲツの裾を掴んで俯いたまま、首を横に振った。ミカゲツが仮に十二歳だとすればこのヒソラは九つのはずだが、それにしては幼く、大人しかった。アリナとも目を合わせようとしない。

 ミカゲツは弟の視線の高さに屈み、華奢な肩に手を置く。


「頼む。ヒソラ以外にお願いできる人がいないんだ」

「…いないの?」

「うん」

「…わかった」

「ありがとう。カヨウをやっつけたら僕もすぐに行くから」


 ミカゲツは立ち上がり、目を丸くして見つめていたアリナに気づいて「あんた、僕の弟に何かしたら許さないからな」と眉間にしわを寄せる。

 「しないわよ」「どうだか。僕は根に持つから、もし裏切られたら次は絶対に協力しない」「…ええ。あなたに嫌われると長いものね」などと会話し、アリナはしっかりとヒソラと手を繋ぐ。


「じゃあ、僕が騒ぎを起こしてくるから、その間に中に」


 少年は素早く身を翻し、「カヨウ!こっちこいぶっ殺してやる!」「ええ!?急にどうしたお前!?」「日頃の積年の恨み!」「何だそりゃ!?」という叫声が聞こえてきたと同時に、アリナはヒソラに手を引かれ再三屋敷の中に潜入した。




 カヨウがアリナ捜索のために総動員しているというのは間違いではなく、屋敷内に人影は少なかったため、進行と回避は困難ではなかった。

 それよりアリナが気になったのは、行き先だった。

 現代のカイロウが常にいるのは執務室だが、おそらくこの時代ではまだカイロウは当主ではなく、彼の父親がそうなのだろう。また、カヨウが先刻レイシンを「次期当主」と呼んでいたのも気がかりだった。

 とにかく、アリナにはカイロウの居場所の検討がつかなかったのである。案内を依頼する他なかった。


 ヒソラは一切無駄口を叩かずアリナを迅速に導いてくれた。故に、目星がつくのも遠くなかった。


「中庭…」


 忘れてはいない。かつて、屋敷で迷ったアリナが裏口と間違えて足を踏み入れた時、スイ―――カイロウと出会った場所だ。

 忘れていない。確か、ニラの街から帰ってきた日の夜、カヨウと一緒に月を眺めていて、指輪をもらって、それで、影を、


「…か、げ?」


 襲ってきたあの影を、見たのだ。


 アリナの声に、太陽の下で休息していた黒髪の青年が驚いたように振り返った。

 その柔和な顔は、月夜に影を切り裂き、アリナとカヨウの記憶を消した男とは、まるで結びつかなかった。

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