41.禁句
「…すまないが、もう一度詳しく説明してくれないか」
「私が着く直前、ヘンリー殿がアリナに求婚しました。入室した私に対し、彼女が助けを求めていると判断したので、婚約者と偽りました。真かどうか疑ったヘンリー殿は私とアリナが本当に婚約しているのか確かめるため、側近を我々に同行させ、彼らはしばらくこの地で私とアリナを監視することになりました」
「…そうか」
ヴァースアックの現当主、カイロウはいつもの無表情であったが、返答はやや遅れた。
報告もせずにアルンの国に旅立ったレイシン、キリカ、アリナを連れ戻すため手の空いていたミカゲツを派遣したが、まさか人数を増やして帰還するとは想定外だった。
ヘンリーの使いであるエジット・セルペットとその部下達がレイシンらの後ろにぞろぞろとついてきているのを目にした時は、流石のカイロウと言えども眉を動かさずにはいられなかった。
話を聞けば、エジットはヘンリーに、もしこの機会に有用な働きをすればこれまでの失態を見逃し地位を上げてやると言われ、意気揚々とやってきたらしい。それをカイロウに直接言うのはどうかと思うが。
余談だが、此度の元凶とも言えるトンタは意識のないキリカを大層心配していたものの、アルンの国に残った。キリカを操りアリナを捕らえようとした兄と、生家である伯爵家に生じたいざこざを片付けるそうだ。
ともかく、レイシン、アリナ、使用人のシキ、迎えに行ったミカゲツは無事だった。
問題なのは、キリカだ。
彼女は未だに眠っている。今は自室のベッドに寝かされ、ミカゲツと使用人が診察している頃だろう。
「…カイロウさん。あたしは…ヘンリーの、相談役?みたいな人に、言われました。キリカを戻す方法は、カイロウさんが知っているって。あなたがミサ姉さんのこと隠しているのは分かっていたけど、それどころか…あたしの秘密も、キリカの記憶も、全部、あなたは知っているんだって、そう言われたんです」
今までレイシンの報告を彼の隣で沈黙して見守っていたアリナが、目を伏せて絞り出すような声で言う。
彼女の脳裏に浮かぶのは、鏡の中の女の言葉。
婚約者を名乗られ愕然とするヘンリーを横目に、レイシンと共に一旦退室しようと背を向けた時、ぼそりと、しかし確実に聞こえる声量で女は告げた。
「君の出生も、君の姉の経緯も、銀髪の少女の過去も、彼女を救う術も、全ての真実はカイロウが握っている」
振り返るも、鏡の中に人影はない。レイシンはヘンリー以外誰もいない部屋を見て空耳と断じたようだが、アリナは違った。
カイロウがミサをアリナから遠ざけようとしていたことは事実である。それに加えて、カイロウの指示で追いかけてきたミカゲツによれば、カイロウはキリカがこうなることを知っていたのだ。
ちなみに、アリナとミカゲツの距離に変化はなく遠いままであり、この情報はシキから得たものである。
「あなたなら、キリカを戻せるんですよね?」
すぐ近くで、こちらを眼力で射殺さんとばかりに睨みつけてくるカイロウは、何よりも恐ろしい。
けれど、アリナは悲鳴を上げることも、腰を抜かすこともなく、見返した。
カイロウはしばし無言でアリナの緑色の瞳を見つめていたが、不意に口を開いた。
「カヨウとヒソラが帰ってくるまでに、ヘンリー殿の疑惑を晴らせるよう、尽力してくれ。私も支援しよう」
「…え?」
誤魔化された。
そう気付くまでに、少々の時間を要した。
カイロウは話は終わりとばかりに立ち上がり、棚に重ねて置いてある帳簿を漁り始めている。それを受けてレイシンが「私がいなかったせいですね…!すぐに取り掛かります」と何故か嬉しそうに紙束を取り上げた。
「ま、待ってください!ちゃんと答えてください、じゃないと、ここから動きませんから!」
慌てて食ってかかると、資料を両手に抱えたカイロウはこちらを向いて、抑揚のない声で返事をする。
「案ずることはない。キリカはこの地にいればじきに回復するだろう。この地は、ヴァースアックの初代が切り拓いたせいか、特殊な力に満たされている。気候が荒れないのもそのためだ」
「そ、そうだったんですか!?へえー…いや、そうじゃなくて、そうなんですけど、それだけじゃなくて!」
どうやらキリカの件は時が解決してくれるようだが、アリナの疑問は彼女を助ける方法についてのみではない。
元々疑っていた、ミサがカイロウと離婚した本当の理由。それと、キリカの失われた記憶、今回の旅で判明した、アリナの出自に関すること。それら全部を掌握しているらしいカイロウをこのままにしておくことなどできない。
「キリカはどこから来たんですか?記憶がないのはどうして?知っているなら、どうしてキリカに教えてあげないんですか?あたしの、姉さんの何を知っているんですか!?」
立て続けに質問をぶつける。焦燥に任せ、相手の表情も見ずに吐き出し続ける。
「あなたはどうして、姉さんを捨てたんですか?」
瞬間、空気が変わった。
それと同時に、アリナも我に返った。
口に出す気は全くなかった。言ってはならないことだった。
ただ、信じられなかったのだ。
かつてミカゲツは嘯いた。ミサが不貞を働き、それが明るみになりかけたから逃げたのだと。それが別れた原因なのだと。
そんな馬鹿な話がある筈がなかった。あの優しくて、若干天然な姉が、そんなことをする訳がない。
そして、姉が、一度愛した人を見捨てる筈もなかった。
カイロウとミサ、二人の間に歪みが生まれたのだとしたら、それは、カイロウが発端となったに違いなかった。
だってミサはアリナの大切な姉で、かたやカイロウは、恐ろしい悪魔そのものとしか、思えないから。
「アリナ!口が過ぎるぞ!」
目を吊り上げたレイシンが怒鳴る。アリナはびくりと体を震わせ、膨れ上がる罪悪感に心を蝕まれながら謝ろうと口を開けた、ちょうどその時、笑い声が響いた。
レイシンとアリナは揃って息を飲んで扉を見遣る。そこに黒髪の青年がいた。
「あっはっはっはっは!ひっでえこと言いやがるなお前!あの下衆野郎が惚れた女の血を引くだけはある!」
見覚えがあった。彼は、ヴァースアックらしくもなく優しげで、柔らかい雰囲気で、アリナを導いてくれた。
それが、今はその面影もなく、笑っている。げらげらと、心底可笑しそうに笑っている。
「あなた…スイ、じゃない…?」
スイ。アリナとは二度会ったことがある。黒髪に黒目の、カイロウ、カヨウに似た顔の青年。
アリナがアルンへ行って真実を探すのを決めたのも、彼の助言あってのことだった。彼は誠実で、嘘をついたり隠したりする他のヴァースアックとは違っていた。
それなのに、彼は今、アリナを馬鹿にするように笑っているのだ。
「何者だ、貴様は!その顔は…何のつもりだ!!」
書類を投げ捨て、剣を引き抜きアリナを庇うように前に出てレイシンが叫ぶ。カイロウは先程からぴくりとも動かない。
そんな彼らを、青年は嘲笑った。
「あーあー喚くんじゃねえ。せっかく誘導してやったのに台無しにしてくれやがって。このポンコツ共が」
「何だと…!」
「ぐっちゃぐちゃだよぐっちゃぐちゃ。もうこれからどう修正すんのよ?なあ、おい、代用品」
問いかける。
その黒目に映っているのは、カイロウただ一人だった。




