40.プロポーズと婚約者
鏡の中の女は、柔らかい笑みを崩さず言葉を続ける。
「この世界の中のことに関しては、ぼくは結構な物知りなんだ。そのぼくが言うのだから、疑う必要なんてないよ」
「あ、あなた、何者!?どうして鏡に…!」
混乱するアリナを、女は表情を一切変えず見守る。
まだ若い女だった。長い栗色の髪を一つに束ね、まるで研究者のような白衣を着て、色の薄い金の大きな瞳でアリナと、その傍らで沈黙するヘンリーを見つめている。
「ごめん、自己紹介がまだだったね。とはいえ、ぼくがどんな存在かなんて、説明し出したらきりがない。そうだな、ぼくは…ヘンリー達、つまり、君の先祖が引き起こした事件の被害者一族に力を貸している、人ならざるもの、とでも覚えてくれたらいいかな」
「被害者?心外ですね」
批判の声を上げたのはアリナではなく、静観していたヘンリーだ。
「我々は元より、ジルベルトのために存在していた。そのジルベルトが愛した女性に身を捧げるのは当然ではありませんか」
「君はそう思うのだろうけれど、端から見たら彼女ほど傲慢な人間はいないさ」
女は目を伏せて、ちらりとアリナを窺い、低くも高くもない聞き取りやすい声で語る。
「ジルベルトとアンリ、二人の求心力を恐れたかつての公爵は、彼らの子を、自分とは違う新たな公爵に仕立て上げ、その子と自分、二人体制で国を治めることによって失墜を免れた。しかしアンリは、公爵を騙し使用人の子を差し出していた。それも全て、自分のために」
「自分の、ため?」
「そう。可哀想だと思わないかい、アリナ。彼は君の先祖が子を失いたくないばかりに、国に縛られ、今までずっとここで君を待ち続けていたんだ。報いようとは思わないかい?」
そんなことを言われても、とアリナは思った。
いきなりそんな話をされて、はいそうですかと頷けるほど、アリナは単純ではない。いくら鏡に映る人ならざるものの言葉であっても、簡単には受け入れられない。
だが、アリナはキリカを助けるためにヘンリーについてきたのだ。それを忘れてはいけない。
「…結局、あなたはあたしに何をして欲しいんですか。あたしは、早くキリカを元に戻したい。そのためなら、あたしに出来ることなら、検討します」
「おお!その言葉を待っておりました!」
顔を喜色に染め、ヘンリーはアリナを一目見た時のように膝をつき、手を取った。
「私と結婚してください」
「無理です!」
即答だった。
さっと青ざめたアリナはヘンリーの手を振り払うと、少しでも距離を取ろうと後ずさる。対してヘンリーは眉を下げ悲愴な面持ちで彼女に縋り付く。
「何故ですか!私の何が気に入りませんか?改善します、どうか教えてください!」
「だ、だってあなた、この国で一番偉い人なんでしょう!?そんな人と結婚なんて、む、無理ですよ!」
「ご心配なく。執政はこれまで通り私が担当します。貴女は私の隣にいてくれさえすれば良いのです!」
「そ、それにあなたいくつですか!あたしはまだ15です。離れすぎてるでしょ!」
「それほど離れてはおりません。私は今年で26です。貴女が成人してから結婚したいというならそれで構いません。待ちます」
「し、知り合ったばかりなのに!」
「これから交流して、理解を深めていけば良いのです」
「えっと、えっと…タイプじゃないです!」
「では、好みの傾向を教えてください。それに見合うよう、努力します」
「う、ううう」
何とか絞り出した理由が、次々に蹴散らされていく。思考が入り乱れている頭では、うまい断り方が浮かばない。
助けを求めるように胸の前で握られた両手の拳が、何かに触れた。
ハッと上着の内側を探る。そこに、確かにそれはあった。
「これを見てください!これが、あたしがあなたと結婚出来ない理由です!」
高々と掲げた、それは、
「…指輪、ですか?」
「そう!分かるでしょ!?婚約指輪です!」
「そのような安物が、ですか」
「そ、そんなことないですよ」
キリカとトンタの交際が発覚した、キリカ騒動の日。ライラックの街に行ったあの日、カヨウが露店で買わされ、アリナに贈ってくれた、緑の石の指輪である。
勝利を確信し、アリナは指輪をヘンリーの眼前に叩き付ける。
「とにかく!あたしには婚約者がいるんです。あなたとは結婚しません!」
「…ということは、その指輪の贈り主は、ヴァースアックの当主ですか?」
「えっ?」
「代替とはいえ、アルンの国を治める私は、そんじょそこらの男では敵わない身分にいます。その私の求婚を拒否するということは、貴女の相手はそれはもう、凄まじい人物なのでしょう?」
「え、ええ、まあ…」
「まさか、とは思いますが…当主以外の人物ということは、有り得ませんよね?例えば、その職業不定の弟、または、一介の使用人、領地に住む一般の男…という方々では、ないですよね?それなりの地位にいらっしゃる御仁なのでしょう?貴女の心を射止めたのですから!」
職業不定、まさしくカヨウを示すものである。
それがどうした、と返せれば良かったのだが、いかんせんアリナはこの時頭を働かせすぎていた。故に、それを肯定してしまったのである。
「そ、そうです、だからあなたとは」
「では、その方の名を教えていただきましょうか」
「そ、それは…」
「さあ、教えていただきたい!貴女の、婚約者の名は!」
「あたしの、婚約者の名前は!」
半ばヤケになって、当主カイロウと叫ぼうとした時、
キリカを思わせるようなダイナミックな扉の開け方で、彼は現れた。
鋭い視線のヘンリー、人間の映っていない姿見、見知った人物の登場で悲しいほど表情を明るくしたアリナを順に見て、彼は、
「あたしの婚約者は!」
「私だ!」
そう、ヴァースアック前当主の次男にして、現当主カイロウの弟であり補佐役、レイシンは堂々と宣言した。




