39.汚されたもの
アリナがヘンリーに大人しく付いていった理由はひとえに、キリカのためだった。
現れたヘンリーはアリナを目にすると膝をつき、ずっと待っていた、事情を説明するので我が城においでください、とほざいた。対してアリナは、キリカをここに置いて自分だけ離れることなど出来ないと突っぱねた。すると男は、それならお任せ下さいと、笑った。
素性もしれない怪しい男に城に招待するなどと突然言われても、普段なら絶対に従いはしない。しかし、あの男はキリカを、無表情で立ち尽くす銀髪の少女を、元に戻す術を知っていると、確かにそう言ったのだ。故にアリナはヘンリーの要望を聞き入れた。
ヘンリーの馬車で移動する道中、彼がアルンの国の支配者の一人であり、改革派の中心人物であると明かされた時は体が震えた。ヘンリーといいヴァースアックのきょうだいといい、一体自分はどこまで普通でない人々と関わるのだと、驚きと微かな恐怖に襲われたのだ。
ヘンリーが城の門を潜ってまずアリナを連れていったのは、古びた姿見の他には何もない、だだっ広い一間だった。違和感を覚える前に男は跪いてアリナの手を取り、甲に口付ける。
咄嗟に悲鳴を上げ、振り払うとどこからか笑い声がした。
「ふふ…」
「何!?あ、あなた今笑った!?」
「いいえ?気のせいでしょう。それより、よくぞご帰還されました。我々一族は貴女を迎えるために、これまで存在していたのです」
特に動揺する様子もなく、ヘンリーは流れるように立ち上がり、アリナを見据えた。彼女は少々気が立ちつつ、深呼吸して話の続きを求める。
「…そうですね、まず、説明してください。あたしが、何だっていうんですか?あたしは、ただの町娘なのに。今でこそヴァースアックに身を置いてはいますけど…」
「ああ、ヴァースアック!何という事だ、あんな無法者のところにいたなんて!誰よりも高貴な血筋の貴女が!」
「…だから、あたしの血が、何だっていうんですか!」
同じことを、トンタの兄に言われた。この血があれば、誰かを引きずり下ろすことが出来る、とも。
ヴァースアックを馬鹿にされたのもあって思わず声量の大きくなったアリナを、ヘンリーは熱のこもった目で見つめ、語り始める。
「かつてクルフィア大陸を救った英雄王リュカ、賢者ジルベルト、女傑アンリ。三人は長い旅路の末、魔族の王を倒し平和をもたらした。リュカはレリウス王国を築き、王座についた。ジルベルトとアンリは結ばれ、このアルンに君臨し、その子孫が国を治めていった…」
「それは、あたしでも知ってます。というか、あなたが、その子孫なんでしょう?」
「まさか!私はただの身代わりに過ぎない。そもそも、語り継がれる話が、大きく間違っているのです!」
「…ヴァースアックの剣王が、仲間だったって話ですか?」
キリカから聞いたことがある。ヴァースアックの剣王は英雄王の仲間で共に旅をしていた、今でも時々レリウスの王子様がヴァースアックの地を訪問する、と。
しかしヘンリーは形の良い眉を逆立て、叫ぶ。
「否!それも確かに真実ですが重要なのは、英雄王が偽りの英雄であったこと!」
「…えっと、偏屈なんでしたっけ」
アリナの憧れは英雄王だったため、この衝撃の事実はしっかりと記憶している。
だが、またヘンリーは首を振る。
「偏屈?そんなものでは済まされない!いいですか、あの男は、一切魔族と戦っていないのです!清く、正しく、美しい、勇敢な男?とんでもない!あれは汚く、歪んでおり、醜い、臆病者なのです!魔族と戦い続けていたのは、我らがジルベルト!あと、剣王も尽力したらしいですが、それは今はどうでもいいこと。真の英雄王は、ジルベルトに他ならないのです!それを、戦闘から逃げ続け機会を狙っていた汚らわしい盗人、リュカは、自分の手柄として大陸に広めた!これが真実!」
何故世界はアリナの初恋(とするにはあまりにも幼いが)を綺麗なままにしておいてくれないのだろうか。
ひどく力のこもった演説を眺めながら、アリナは少し泣きたくなった。
ヘンリーの一人舞台は続く。
「ジルベルトこそ、今世に伝わる英雄王そのものであり、完璧な男だった!だからこそ、リュカに功績を騙られても憎まず許し、文句もつけなかったのですが…ここからが本題です。よく聞いてください。貴女は、真の英雄王ジルベルトと、彼が愛したただ一人の女性、アンリの直系の子孫なのです!」
目が点になった。
通りすがった旅人に「あんたの正体は、実は妖精なんだよ」と話しかけられでもしたら、こんな顔になるのかもしれない。それほどに現実味のないことだった。
「かつて我が子がこの国に縛られるのを疎んじたアンリは、自らの子を国から逃がし、身代わりとして我らが一族の子を、ジルベルトの家に代々仕えてきた使用人の子を差し出したのです。その身代わりの末裔が私、ヘンリー・フォン・アルン。私達はこれまで、アンリの意志を尊重し、務めを果たしてきました。しかし!心の底では常に待ちわびておりました。正当な後継者が、再びこの地に戻ることを!貴女の存在によって、我々は救われるのです」
「ちょ、ちょっと待ってください!あたしが賢者と女傑の子孫?そんな訳ないでしょ!?」
勝手に盛り上がるヘンリーに焦りを隠せず、アリナは言い募る。
「だいたい、そんなのどうやって判別したんですか!」
「貴女のその赤髪、そして緑の目が動かぬ証拠です」
「こんな外見珍しくもなんともありませんよ!」
言葉を詰まらせたヘンリーに、アリナは好機として身を乗り出し、訴える。
「悪いけど、あたしはそんな特別な人間じゃありません!分かったら、キリカの治療法を教えて、皆のところに帰してください!」
「特別な人間だと自覚している人間なんて、そうはいないものさ」
「…え、誰、今」
愉快そうに挟まれた声を、今度こそアリナははっきりと聞いた。
ヘンリーは無言で、姿見へと視線を送る。それを追いかけて、息を飲む。
そこに、人影があった。
「君はジルベルトとアンリの血を継ぐ者だよ。ぼくの知識によるとね」
鏡の中で、細身の女がゆったりと微笑みを浮かべていた。




