32.悪魔の囁き
「...今、何と言った?正気なのか!?」
到底信じられぬ発言だったため、そう言わずにはいられなかった。
「...あたしは、本気です」
赤髪の少女は真剣な面持ちで頷き、ぐっと手を握りしめる。
「...百歩譲って、私達の会話を盗聴していたのは許そう。だが、その申し出を受けることは出来ん。アルンの国へ、あの男の元へ向かうなど、捕らわれにいくようなものだぞ!我々は確かにアルンの国と繋がりがある。しかし何もかも許容されるようなものではないのだ。関係を悪化させるつもりなのか!?」
「そんなつもりは、ありません!でも...あたしは知りたいんです。あの国で、ミサ姉さんが...何をしていたのか」
レイシンははっと息を飲んだ。
この少女の姉であるミサは、アルンの国で、奴隷として生活をしていた。彼女を買ったのは、あの豚のような男の身内であり、どのような扱いをされていたのかは想像に難くない。
「...やめた方がいい」
思わず口から出たのはレイシンの本心だ。
この子はまだ十五歳なのだ。大人びて見えるが、キリカと同い年で、人の話を悪意なく盗み聞きしてしまうような、子供。そんな少女が知るにはまだ、早すぎるだろう。レイシンは、カイロウがこの子にミサの件をひた隠しにする気持ちが、やっと理解出来た。
「あたしは子供じゃありません」
思考を読んだかのような言葉に、レイシンは驚いて少女の緑の瞳を見つめた。
「あたしは...貧民街で生きてたんです。今更隠されるようなことは何も、ありません」
宝石のような輝きを放つ瞳だった。一度決めたら覆さないと察せられる、固い意志を持っている。
ヴァースアックから密かに逃げ出そうとしていた彼女が、今では、このレイシンに堂々と臆すことなく要求している。
レイシンは己の敗けを悟った。
「...カイロウ兄さんには私から話をつけておこう」
「ありがとうございます!」
途端に表情を明るくして、彼女は頭を下げる。レイシンは「ただし条件はつけさせてもらうからな」と付け加えつつも、彼女の成長にほんの少しの喜びを感じていた。
レイシンの後ろ姿を見送り、それが完全に失せてから、少女はにやりと、口を耳まで裂けさせて、笑った。
「ごめんねえ...レイシンちゃァん」
赤髪の少女の姿が、徐々に変化していく。髪は短く、目とともに黒くなり、背がぐんと伸びて体の凹凸は消え去った。
しばらくして、そこに立っているのは、気の良さそうな青年であった。どんなに険のある者も、彼と話し込めば警戒心を解かれてしまうような、そんな印象を与える青年。
その顔を歪ませて、彼は呟く。
「おれだってさあ、こんな騙すような真似はしたくねえよ?ちょっと汚い手だったし?でも仕方ねえじゃん?だって...邪魔なんだもん。なあ?」
魔を継ぐ者?
「...え?あなた、もしかして...」
背後からかけられた声に、青年はそれまでの歪みが嘘のように優しげな笑みを浮かべ、振り返った。
カイロウとトンタの会話に、結構な衝撃を受けたアリナは、夕方まで自室に引きこもっていた。
ミサがあの嫌な男の兄の奴隷であった、というのがなかなか受け入れられなかったのだ。あの男の兄ということは外見も内面も期待出来たものではない。そんなところにいたなんて、ミサはどんなに辛かっただろう。
更に、その兄はアリナと会いたいらしい。正直言って気持ちが悪い。絶対会いたくない。会ったら何か減る気がする。
カイロウもレイシンもアリナが嫌がることはしないし、カヨウも味方になってくれるとヒソラは言っていたが、果たしてどうなのだろうか。カヨウとレイシンはともかく、アリナにはカイロウが、あの悪魔のような姿をした男が何を考えているのか分からないのだ。
ため息を吐き、アリナは立ち上がった。とりあえずキリカにも相談してみよう。あの明るい少女に話を聞いてもらったらこの沈んだ気分も何とかなる。
部屋を出てキリカを探しに進んでいると、前方に誰かがいるのが見えた。
後ろ姿だが、その青年には見覚えがあった。
「...え?あなた、もしかして...スイ?」
「...やあ」
彼は振り返り、最後に会った時と何ら変わらない笑顔を見せた。とはいってもその「時」というのは「最初に会った時」と同意義であるのだが。
屋敷の中を迷子になっていたアリナに、中庭で茶を振る舞ってくれた優しい青年、スイ。庭師の幽霊だとか言われていた彼は、ここにいたのだ。
「や、やっぱりあなた、実在してたのね!あ、ごめんなさい、実は他の人にあなたのことを話したんだけど、信じてもらえなくて、幽霊だとか言われて...こうしてまた会えて良かった!」
アリナは微笑んだ後、不安げに目を泳がせる。
「ねえ、聞いてもいい?あなた...誰、なの?どうして他の人は誰もあなたを知らないの?今まで...どこにいたの?」
「おれはずっとここにいるよ。それより、アリナ。君は、アルンの国へ行くべきだ」
「えっ...」
言葉が出てこないアリナに、青年は考える暇を与えず続ける。
「知りたくないか?自分が何者なのか、姉はあの国で何を見たのか...。あの国に行けば、君は自分の秘密に気付き、答えを得るだろう。君だけじゃない。あの女の子も、記憶を取り戻せるかもしれない」
「キリカのこと!?」
ヴァースアックに拾われるまでの記憶がないキリカ。それが、解決するかもしれない?
「そうだよ。だから君は...行った方がいい。アルンの国へ。出来るならば...ヴァースアックの者は、あまり同行させずに」
「どうして?」
「彼らは君の行動を阻害しようとする。彼らは、君達に何も知らないままでいてほしいんだよ。その方が都合がいいから。だから、誰も君に姉のことを教えようとしないだろう?」
そうだ。カイロウもレイシンも、知っている筈なのに教えてくれない。ミカゲツに至っては、嘘を吹き込む始末だ。
「いっておいで。アルンの国へ。そこに真実がある」
「あなたは!...あなたは、どうしてそんなことをあたしに教えるの?あなたは何がしたいの?」
「おれは、正しいことをしたいだけだよ」
アリナは考える。
目の前の青年が、この優しい青年が嘘を吐く筈はない。
ヴァースアックは、アリナに何かを隠している。もしかしたら、キリカにも。
アルンの国には、答えがある。
「...分かった。あたし、キリカと一緒に、アルンの国に行く」
「それがいい。レイシンに言ってごらん。きっと良くしてくれる。ただし、大切なことは秘密にね」
アリナを、レイシン同様見届け、青年は口を両手で押さえた。
そうでもしなければ、笑い声が抑えられなかったのだ。
「...ほんっと、スイちゃんって楽な見た目してるよなあ。教祖とかなれんだろ、真面目に。さあてさて、準備は整った!後は追い出して、待てばいいだけだ。...お前もあの子も、ここに帰ってくることはないだろうよ」
あの二人の少女がいなければ。
少年はここを去り、愛しい妹に付きっきりになるだろう。
青年はここを去り、気に入っている娘を追いかけるだろう。
残った者は自分がどうにかすればいい。
そして、
そして―――
「...スイ、お前は、死ぬんだ」
目を細め、唇の端を吊り上げているのに。
吐き出した声は、酷く悲しげだった。




