25.届かない
涼やかな風が二人の間を吹き抜け、少女の赤く長い髪をなびかせる。
何となくその毛先を眺めながら、カヨウは軽く伸びをした。
「んー、やっぱ夜風って気持ちいいよなー。いいぞいいぞ、今ならオレ何でも出来る気がする。きっと空飛べる」
「もう、何言ってるのよ」
可笑しそうに小さく笑い、アリナはぽっかりと空に浮かぶ三日月を見上げた。
トンタが野望をバラし(バラされ)心情を吐き出したことで、キリカとの関係が変化した後、ミカゲツの提案により、彼らは共に夕食をとることになった。席ではぎくしゃくしながらもトンタは積極的なキリカを上手くいなし、礼をして粛々と帰っていった。
見送った後、それまでは静かにしていた、彼のことを認めていないレイシン、カヨウ、ヒソラが次々に「やっぱり駄目だあいつはいかん」と叫ぶが、「陰口なんて恥ずかしくないんですか」と、ミカゲツの一言で玉砕。
そして拗ねたカヨウは、キリカを気にかけていたアリナを誘い、中庭で二人仲良く月見をしているのである。
この土地でアリナは二週間程暮らしているが、基本的に天気は穏やかで、過ごしやすい。夜になると月や星がよく見える。
藍色の空を見つめていると、隣のカヨウが身動ぎした。
「あ、そうだ。アリナ、これ」
「えっ?」
不意に渡されたのは、指輪だった。
「えっ!?えっ、な、何!?」
指輪を手に取り乱すアリナを見て、カヨウはからからと笑い声を上げる。
「ほら、今日アクセサリー屋のおっちゃんに買わされたやつ。オレが持ってても仕方ねえし、アリナにやるよ。思い出に取っといてくれ」
「あ...ああ、そういうことね。うん。そうそう、そうね。ありがとう、カヨウ」
そういえばそんなこともあった。
街で露店の店主からカヨウがヴァースアックのようだとからかわれた時に、確かにこの緑の石の指輪を買わされていた。それを思い出にくれると言うのか。
じっくり手の上の指輪を観察していると、ふとカヨウが頷いた。
「...うん」
「え、カヨウ、何?」
「それ、やっぱりアリナの目の色だ。綺麗だな」
「カヨウ急にどうしたの?変なものでも食べた?」
「何故そうなる!?そこは、やだもうカヨウったらー!って、照れるところだろ!?」
「う、うーん」
正直、カヨウにはキザな言動が似合わない。
などと口に出す訳にもいかず、アリナは苦笑いで誤魔化す。
そのまましばらく沈黙してから、カヨウはぽつりと言った。
「...また行こうな」
「街?うん。今度はキリカも、皆も一緒に」
「ん。大所帯でな」
くしゃり、とカヨウは笑った。
ざあっ、と強い風が吹く。
気付くと、二人の前には、人影があった。
真っ黒な闇に包まれている、人。その輪郭以外、何も分からない。
「...誰だ!?」
カヨウの緊迫した問いには答えず、人影はじっと黙したまま二人を見つめる。カヨウは立ち上がり、固まるアリナを引き寄せ、身構えた。
やがて、影は真っ赤な口を開く。
「はやくいなくなっちまえ」
聞き取れるかどうか定かではないくらいの声量だが、低いそれは、男のものだった。僅かに、金属音のような雑音が混じっている。
影は続ける。
「はやく、スイちゃんをよこしてきえちまえ」
「...スイ?スイって...あなた、スイを知ってるの!?」
アリナは思わず身を乗り出して尋ねる。
この地に来て二日目に、広い屋敷で迷っていたアリナに紅茶をご馳走してくれた青年。彼の名前はスイであった筈だ。後にカヨウとキリカから存在を否定されたものの、アリナは彼が実在の人物であると信じている。
更に、彼と出会ったのは、この中庭であったのだ。
その中庭に現れた黒い影が、スイのことを言っている。聞かずにはいられなかった。
「...しっ、て、る?」
影は、ぶるぶると震え出し、身を振り乱してきいきいと叫ぶ。
「何で、お前が、知ってる?何で、何でなんでなんで...なんでお前が知ってる!?スイをしってるのはおれだけでいいだろうが!!あの、代用品、約束、破ったな...!!叩く、泣かす、閉じ込めてやる!!」
「おいおいおいおいどんなヤンデレだよお前!?つうかアリナ、スイって誰よ?」
「前に話したでしょう?この中庭で会ったって、紅茶をくれたって...」
「...ああ、あの庭師の霊か!?おい残念だったな化け物!スイは成仏したってよ!庭を綺麗にして未練なくなったからよ!」
カヨウの呼び掛けで、影はぴたりと動きを止めた。
「...じょう、ぶつ?は...は、ひゃははははははっ!!...馬鹿なこと言っちゃダメだぜ?カヨウちゃん?」
「は?何でオレの名前...お前、マジ何者だよ」
「スイちゃんに聞きなよ。まあ、おれはいつでもお前らのそばにいてあげてるから、親近感持ってくれていいぜ?ああ、そうだ。...おれは絶対にスイちゃんを逃がさない。お前らが何しようと、む」
声が途切れた。
影が真っ二つに切り裂かれ、霧散。最初から何もなかったかのように消失する。
「...カイロウ、兄さん」
影を切り裂いた犯人は、カヨウとアリナの背後で、月光に照らされていやに輝いている刃を携えて、立っていた。
「カイロウ兄さん、何でここに...」
「...レイシンが、そろそろ戻らないと風邪をひくと騒いでいた」
「それならレイシン兄さんが来ればいい話じゃねえか。...さっきのやつ、あんたは知ってんのか」
「......」
「知ってるんだな」
やけに噛みつくような態度に「カヨウ?」とアリナが不安げに名を呼ぶが、カヨウは答えない。無表情のカイロウをただ睨み付ける。
「スイってのは誰のことだ?あんた...あんたがスイなのか」
アリナは困惑で顔を歪める。あの優しく穏やかなスイと、目の前に立つ恐ろしげなカイロウでは、全く異なるからだ。
しかしカヨウはアリナに目もやらない。
「スイ、あんたが...あんたが、兄貴を殺したのかっ!!」
そう、叫んだ途端に、呼吸が止まる感覚を得た。
アリナが力なく倒れ、己も立っていられずに崩れ落ちる。
がたがたと体が震えている。
殺気を放たれた、と理解したのは、目の前にいるものへの恐怖で意識が奪われる寸前のこと。
カヨウは何も出来ずにその場に倒れ伏し、暗くなっていく世界を見ていた。
「...ごめんなぁ...」
微かに聞こえた、優しい兄の声は、幻聴だったに違いない。
だって、兄はもう七年も前に死んでいるのだから。
鳥の鳴き声が聞こえる。
ああ、もう朝か、と思いながら身を起こし、カヨウはぎょっとして目を見開いた。
「うおおおおっいつの間に寝てた!?ぎゃああああっ虫!服の中に虫いいいいい!!」
「...カヨウ?」
「アリナおはよ!オレ達中庭で寝てたみてえだ!ちょっと失礼オレシャワー浴びてくる!」
あっという間に姿を消してしまったカヨウをぽかんと見送り、アリナはよいしょと起き上がった。
どうやら、カヨウに指輪をもらって、しばらく語り合っていた内に、眠りに落ちてしまっていたようだ。
しかし不思議なことに自分にはカヨウのように虫は寄り付いていない。
虫除けでもしていただろうかと考えながら、アリナは朝日に目をすがめた。
今日もいい天気で、いい日になりそうだ。




