精一杯の祝福を、君に捧げる。
「――俺、結婚するんだ」
藤の花の香りが漂う中、そう言いながら彼は笑った。周りのどの花よりも儚く感じられたその言葉は、淡く僕の心に溶けていった。
花見をしよう、と誘ってきたのは彼の方だった。二人きりで、と念を押され、訝しみながら彼に連れられていったところは、有名な藤棚がある公園。テレビで名前は聞いたことがあるけれど、実際に行こうと思ったことはない。そんなレベルの場所だ。
それでも僕が行こうと決意したのは、他ならぬ彼の誘いだったからだ。
彼とは中学生来の付き合いだ。一緒に馬鹿騒ぎをし、遊び歩き、時々は勉強もした。そんな関係が高校、大学と続き、社会に出た今でも殆ど変わりはない。
藤棚の下をぶらぶら歩きながら世間話をし、頃合いを見計らって、話があるんだろう? と僕から持ちかけた。彼が僕とどこか特別な場所へ行きたがるときには、必ず何か特別な話があった。
そして言われた、あの言葉――僕の心は、意外なまでに静かだった。
「へぇ、そっか……おめでと。いつから付き合ってたの?全然そんなこと教えてくれなかったじゃん」
「一年くらい前、かな。会社の後輩でさ。……ごめん、なんとなく言いそびれてた」
「良いって。とにかく、良かったな。大切にしろよ。お前みたいな男、好きになってくれる子なんてそうそういないぞ」
「余計なお世話だって」
そう言って、彼は軽く笑い声を上げた。そのまま何故かふっと暗い表情を見せ、僕を置いて歩き出した。
いつもの癖で彼がポケットに手を入れたとき、僕はあることに気付いた。
「なぁ、あのさ」
「うん?」
「結婚指輪、嵌めないの?」
彼は無言だった。その背中が、酷く遠くに見えた。そうして、何故か小さく胸が軋む。
こんなこと、今まで無かったのに。
(いや……違う)
そうだ。幾度もあったではないか。彼が僕以外の誰かと一緒にいるとき。僕以外の誰かと話しているとき。僕以外の誰かに笑顔を向けているとき。いつでも彼が遠くに感じて、その度に胸の奥が人知れず痛んだ。
その痛みが何なのか、結局わかっていない。
「――あのさ」
不意に彼が立ち止まり、僕もつられて足を止めた。前を向いたまま、彼は僕に話しかける。
「今日さ、……お前に受け取って欲しいものがあって、持ってきたんだ」
「なに?」
彼はポケットから何かを取り出すと、僕に向き直ってそれを渡した。飾り気のない、小さな白い箱。丁度、アクセサリーでも入っていそうな大きさだ。蓋を開け、その中身を見て僕は思わず声を上げた。
「これ……」
「懐かしいだろ?高校の制服のボタン。しかも第二ボタンだぞ」
「なんで……僕に」
「……なんでも。お前に持ってて欲しいんだ」
細かな傷がついた、真鍮色のボタン。僕たちが通っていた高校の校章が刻まれている。懐かしい――それだけじゃない。込み上げてくるのは、もっと違う色をした、壊れやすい感情だった。
顔を上げれば、彼は既に歩き出している。そのあとを追い――気付いたときには、駆け寄って彼の腕を掴んでいた。
驚いた顔が僕を見下ろし、何か言おうとするように唇が動く。僕は一瞬逡巡した。しかし彼の瞳を見、何を伝えんとしているのか悟った。
ずっとわからなかった胸の痛みの理由。今、やっとわかった。
――目を閉じ、彼の耳たぶに接吻する。一瞬触れ合うか触れ合わないかの、微かな口付け。
「おめでとう。……幸せになってね」
「……ああ。ありがとう」
藤の花の香りが辺りを煙らせ、彼の表情はわからない。ただ彼の声は少しだけ震えていた。
淡い紫の光が静かに降り注ぐ中、僕たちは互いに抱えてきた想いに、そっと別れを告げた。
こんにちは、こんばんは。
もね太です。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
この作品は、こちらの診断メーカー(http://shindanmaker.com/243398)に友人の名前を入れて出てきたお題をお借りして作ったものです。
『藤棚の下で躊躇いながらする耳へのキスには祝福という意味がある』
とのこと。
素敵なお題をありがとうございました!