蒼坂梨音
「いらっしゃいませ」
僕達は駅から1本裏にある、小さな喫茶店に入った。個人経営らしきその店は、大型チェーン店とは違い、こじんまりとはしているものの、こだわり抜かれたモダン調の内装と、薄暗い照明は、どこか安心感を与え、ホッと一息つくことができた。時間を忘れて自らの趣味に没頭したり、楽しい話に華を咲かせるのにはちょうどいい、秘密の隠れ家的な感覚だ。
店内には、カウンターの中でコーヒーを入れていた、柔らかな表情が特徴的な40代半ばぐらいの男主人と、その妻と思われる女性の2人だけで、僕達の他に客は誰もいない。時間が時間故に、当然といえば当然か。
僕達が案内されたのは、店の1番奥の4人掛けのテーブルだった。先に座るようにと指差された僕は、壁を背中にして窓際の席に座る。その隣に腰を下ろした十和瀬。俗にいう恋人座りってやつだった。
「ふふ。ご注文は、お連れ様がいらしてからになさいますか?」
「あ、今で。私アイスカフェオレで。あんたは?」
「え? あ、お、オレンジジュースで!」
「うわ、お子ちゃまー」
「……ほっとけ」
自慢じゃないが、僕はコーヒーが飲めない。ミルクや砂糖を入れても、なんとなく苦手だ。
「かしこまりました」
最後まで意味深な笑顔を向けられ、僕は愛想笑いを返す。
「ねぇ、きっと私達恋人だと思われてるわよね?」
「え、えぇーっ!」
突然振られた十和瀬の小悪魔じみた一言に僕は素っ頓狂な声を上げた。店長と奥さんが何事かとこちらを見やる。
「あ、いや、すみません……」
「ちょっと、止めてよ。恥ずかしい」
「……ごめん。すみませんでした……」
十和瀬に、そして店長や奥さんに頭を下げる。
「いえいえ、お気になさらずに。ただ、今はいいけど、他のお客様がいらしたら迷惑になるので、気をつけてね?」
大人の女性の雰囲気を全開に、優しく微笑んだ女性は、隣に座る同級生とは比べ物にならないほど、神々しい。
あぁ、今日1日ですっかりと神経が磨耗してしまったみたいだ。
注意を終えた奥さんは、店長がカウンターに用意したドリンクを手に、再び歩み寄ってきた。
「お待たせ致しました。カフェオレとオレンジジュースです。お連れ様は、大体いつ頃いらっしゃるのかしら?」
それぞれが注文したドリンクをテーブルに置き、入り口の方に顔を向ける。
「えっと、もうそろそろ……あ、噂をすれば」
十和瀬が指し示す指を追って、奥さんと共に僕も店の入り口を見た。
扉を押し開け、気恥ずかしそうに俯きながら、店内に入ってきたのは女の子だった。
ふわっとした上下一体のロングスカート、胸元にはふわふわとした2つの白いボンボン。頭には、これまたふんわりとした手触りの、もこもことした丸型の帽子。胸元に垂らした髪は、手入れが行き届いているのか、歩く度にさらさらと揺れている。……っていうか、僕はなんだってここまで気合いを入れて仰視してるんだろう。
「あ、朱里ちゃん、お待たせ。遅れてごめんね。あ、私アイスティーお願いします」
「……別に。忙しいんだから仕方ないわよ。今日は終わり?」
「ううん。収録の合間、かな。えっと、こちらは?」
店に入ってきた女の子は、十和瀬の顔を見た途端、嬉しそうに顔を綻ばせた。僕のことなど眼中にないのか、向かい合って座り少しばかりのガールズトークに花を咲かせた後、ようやく不思議そうに問いかける。
ん、収録?
「あぁ、彼は私のクラスメートで遊月奏真くん」
「ど、どうも」
素っ気ない素振りで、僕を紹介しつつカフェオレの入ったグラスに口をつける。
「はい、初めまして。えっと、私は……」
お互いに軽く頭を下げ、それから少しばかり気まずそうに十和瀬に意味深な視線を送った女の子。未だにかぶったままの帽子になにか意味があるのかな。
「いいわよ。……彼は、好き勝手言いふらしたり、ブログだのなんだので呟くようなことはしないと思うから」
「ん、朱里ちゃんがそう言うなら……」
「な、なぁ十和瀬、一体誰なんだよ、この子は……」
なんとなく釈然としない思いを抱え、そっと耳打ちをする。
「え、それ本気で言ってるの?」
唖然としたように、口を開いた十和瀬。
なんだよ、なにか僕変なこと言ったか?
「……初めまして、蒼坂梨音です」
帽子を取った目の前の女性は、気恥ずかしそうにはにかんだ。
「は?」
おそるおそる顔をそちらに向ける。
僕の聞き間違いだったかな。今、蒼坂梨音って……。
「なに呆けた顔してんのよ。あんたの大好きな蒼坂梨音でしょ?」
「え、ちょ……、本当に?」
あまりの衝撃に、思わず仰け反り、口ごもり、訳のわからない言葉をもごもごと呟いている僕を放っておいて、2人は話を進める。
「あ、言い忘れてたんだけど、梨音、彼、あんたのファンだから」
「え、本当? それにしては、全然驚かれてないけど……」
「ま、にわかだしー」
「そうなの?」
「うん。あんたの出演作とか特集とか、全然知らなかったもの」
「あ、そう、なんだ……」
な、なんだ、コレ。もしかして、僕をからかってるのか? 大体、十和瀬が声優と知り合いだったなんて、いくらなんでも話がうま過ぎるよな。
目の前のこの子は、明るいというよりは、むしろ大人しいし。どっちかというと、十和瀬の方が、普段ラジオから聞こえてくる蒼坂梨音にそっくりだ。
いや、でも、からかうだけなら、こんな面倒な小芝居をする必要はないし……。
くー、汗がどっと出てきた。
「最近、忙しそうじゃない?」
「そ、そんなことないよ……」
「さぞ儲かってるんでしょうねー?」
「も、もう……朱里ちゃん……」
それに、この声は確かにCDやアニメで聞く本人のものと同じだ。
「お待たせいたしました。アイスティーです」
「あ、ありがとうございます!」
やっぱりそうだよ、この声はヘッドフォンを通じて聞こえてくるあの声と一緒。顔なんてもう、さっきの雑誌に載っていた写真とそっくりじゃないか。いや、そっくりというか、そのままなんだが。
じゃあ、つまり……つまり、今俺の目の前にいる彼女は、その……本物の……。
「あー、アイスティー美味しそう。私もそっちにすればよかったかも。ね、梨音、1口ちょうだい?」
僕の葛藤も知らず、呑気に出てきたアイスティーを羨んでいる同級生に腹立たしさすら感じてきた。
いや、腹立たしさを感じるのはおかしいだろ。彼女は、僕と蒼坂さんを繋いでくれた愛のキューピッドだぞ!
「ちょっと! いつまで呆けてんのよ、口閉じなさいよね、恥ずかしい!」
知らない内に、口を開けてじっと見つめていたみたいだ。
「あ、うん。そう、だね。いや、でも、そのさ……えと、僕、今、あの蒼坂梨音、あ、いや、蒼坂さんと……」
「……なにどもってるの?」
「え、だ、だって……げ、芸能人だし……誰かに聞かれたら……」
誰か――というか、店長達に聞かれないように、周囲を見渡し音量を落とした僕を見て、十和瀬は溜め息をつき、蒼坂さんは小さく吹き出した。
「心配しなくても、今この店であんた以上に動揺してる人間なんていないから。それに、1番声が大きいのは間違いなくあんたよ」
僕に警戒の視線を向けられたせいか、店長達は苦笑いを浮かべたまま、こちらを極力見ないようにしてくれていた。
「あの、大丈夫、遊月くん?」
「だ、大丈夫です」
心配そうな眼差しは、僕の心をがっちりと掴んで放さない。
ヤバい、可愛すぎて直視できない。雑誌とかの写真で見る彼女も可愛いけど、こうして生で見る彼女もまた……。
それでも、やっぱりどこか違和感があるよな。蒼坂さんといえば、元気、明るい、積極的、太陽、天使という印象が強いんだけどな。
「心配しなくてもいいわ、梨音。どうせ、あんたにあてられてるだけだから」
「お、おい、十和瀬!」
「なによ、図星でしょ?」
「……ま、そうなんだけど……」
「ふふ」
よく喋る十和瀬のおかげで、僕と蒼坂さんの距離というか、壁は少なからず無くなった……気がする。ありがとうございます、十和瀬様。
「……で、今日はなんの用?」
しばらく、それぞれが飲み物を啜る音のみが響いていたものの、その静まった空気を破るように、十和瀬がそっと切り出した。
蒼坂さんの顔が強張り、2人の間の空気が、少しばかり引き締まる。
「私が彼とのデートを放り出してまで来てあげたんだから、もちろん相応の話よね、梨音?」
「おい、お前、デートなんて……痛てててててっ!」
憧れの人を目の前に、デートではないと否定しようとしたものの、そうは問屋が卸してくれなかった。隣から伸びてきた細い腕が、僕の太ももを強くつねる。当の本人は素知らぬ顔をして、カフェオレを啜っているが。
「デート? ……そっか、そう、だよね……」
蒼坂さんは、どこか衝撃を受けたようだった。
もしかして、彼女は僕に一目惚れをしてしまった。それにもかかわらず、既に恋人がいることに衝撃を受けたのかもしれない。それが親友であるからこそ、尚更だ。彼女の短くも壮大な恋愛は、早くも終わりを迎えた――……とかだったらいいな。ま、絶対違うんだろうけど。
「そ。私はもう一般人で、こうして恋愛までしちゃってるんだから」
「うん……。あ、でも――」
「あー、もう、うるさい」
なんのことかは僕にはわからない。ただ、蒼坂さんが困っていることだけはなんとなく理解できる。
「あのさ、十和瀬、蒼坂さんが困ってるんだから、そんな言い方しなくても……」
「あんたは黙ってて!」
「は、はい……」
あまりの剣幕に、うなだれてしまう僕。うぅ、なんとも情けない……。
「それに、別に梨音は困ってるわけでもなんでもないのよ。ただ、逃げてるだけ」
「逃げてる? なにから?」
よほど図星をついたのか、蒼坂さんは気まずそうに俯き、ただでさえ小柄な体をより小さくさせた。……可愛い。
「この子、嫌なこととか辛いことがあるとすぐ逃げようとする癖があるの。で、今日はなにがあったのよ?」
「べ、別に逃げてなんてないもん!」
「あっそ。じゃあこの話はこれで終わりでいいかしら?」
「え、ちょっと待ってよ、朱里ちゃん……」
「……なに?」
十和瀬の剣幕に観念したように話し出す。
「実は、今度私が出演するアニメ、週刊誌で連載してる漫画が原作なんだけど……その読者さん達が、演じるキャラと私の声じゃイメージが全然違うって……」
「言われたの?」
「ううん、ネットの書き込み」
あ、マズい。
十和瀬が震えている。これは怒りの前兆だろうか。
「あんたね、ネットの書き込みぐらいでいちいち落ち込んで、人を呼び出してんじゃないわよ!」
ほら、やっぱり。
僕も、大分十和瀬についてわかってきたぞ。
「だ、だって朱里ちゃん……」
バンッ、とテーブルを叩いた音に反応し、体を震わせた蒼坂さん。……か、可愛い。
「だってだって、あの、レスっていうの? イメージが違うんじゃないかって書き込みに、俺もそう思うってレスがたくさんついてるんだよ?」
「あのねー、感じ方なんて人それぞれでしょ? 第一、あんた、CD出すときも似たこと書かれてたじゃない? 音程が危ういとか、感情が籠もってないとか……」
「そ、それはそうなんだけど……」
「そんなのいちいち気にしてたら、キリがないわよ?」
「わかってるけど……」
ハァ、とはっきりと聞こえてくる溜め息。
「あのさ、確かにあんたのイメージとは合ってないかもしれないけど、そんなの最初だけよ。皆、すぐ慣れるって。 ね、あんたもそう思うでしょ?」
「へ?」
不意に話を振られ、瞬きを数回繰り返した僕は、戦力にならないだろうと判断されたのか、露骨に舌打ちをされてしまった。あれ、僕の扱い酷くない?
「それに、そんなつまんないことでウジウジ悩んでる暇があるなら、もっと練習して、その書き込みをしてる人達を黙らせてみなさいよね?」
おお、十和瀬が凄まじく恰好いいことを言っている。正論だ、これには蒼坂さんも頷かざるを得ないはず。
「……無理だよ」
「どうして?」
「だって、朱里ちゃんも知ってるでしょ? 私、こんな性格だし。CDとか、ラジオのパーソナリティとか、1人でできるような力もない……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。蒼坂さんは、才能あるし、演技も上手だよ。歌だって上手いし、なにより毎週ちゃんとラジオの仕事もこなしてるじゃないか!」
黙っていようかとも思ったが、我慢の限界だった。なによりも、自分の好きな声優の悲しい姿は見たくない。
「……そうそう。彼の言うとおり。ちゃんと演じられてるわよ?」
聞けば聞くほど、2人に接すれば接するほど、僕の中の違和感が強くなっていく。
あまりにも、蒼坂さんのイメージが違い過ぎる。
あれ、この感覚、前にも感じたぞ。
あれは……、そうか、十和瀬が転校してきた初日の挨拶の時と同じだ。
でも、どこか違う。なにが違うというんだろうか……。
「……違うよ。だって、私は――」
「私は? なによ?」
「キャラクターを演じてるんじゃないもの。私はただ、朱里ちゃんの真似をしてるだけ……」
あぁ、そうか。
真似、という言葉で、僕は納得した。
あの時の十和瀬は、自分を偽っているように思えた。そして、それは事実だった。本当の十和瀬は、あんなにおしとやかというか、大人しくはない。傍若無人な、女王様だ。
でも、今の蒼坂さんはそうじゃない。むしろ、こっちこそが本当の彼女であるかのようだ。それはつまり、僕が好きだった蒼坂梨音は偽物だということなのか?
「私、どれだけ頑張っても、朱里ちゃんみたいにはなれないもん。朱里ちゃんみたいに、あんなに上手く――」
「――ストップ。そこまで。悪いけど、その話は今止めて」
感情に任せて捲し立てていた蒼坂さんの瞳から、涙が零れ落ちる。
「はいはい。またそうやってすぐ泣く。前に話を聞いてあげた時も泣いたでしょ、いい加減止めてよね。私だって、いつまでもあんたに付き合ってあげられるほど暇じゃないのよ……」
苛立ったように肩を竦ませる十和瀬。
その仕草に、僕はさすがにムッとした。
「おい、そんな言い方は止めろよ。声優には声優の悩みがあるんだよ! お前にはわかんないだろ、ウィキとか、掲示板とかに書かれる気持ちなんてさ!」
「……そうね。生憎、そういうのに書き込まれたことはなかったから」
「え?」
頬杖をついて、しみじみと吐き捨てる十和瀬は、どことなく自嘲的に見えた。なかった、っていうのはどういうことだ?
「ご、ごめん。朱里ちゃん、私、そんなつもりじゃ……」
「いいわよ、別に。ただ、あんたいつまでも私の真似してないで、本当のあんたで演じてみたら? どうせ、イメージが違うって言われてるキャラは、気弱だったり、女の子らしいキャラなんでしょ?」
「う、うん。友達にも、恋愛にも奥手で、あんまり言いたいことも言えなくて……、いつもおろおろ、人の影に隠れてる、ちょっと暗い子……」
「あら、どこかの誰かさんにそっくり」
「……そうだよね。でも……いつも朱里ちゃんをイメージして演じたことしかなかったから、いざ違うイメージって言われた時、皆に失望されないか不安なの……」
「はぁ、あんたいい加減に……」
蒼坂さんの悩みは相当深いようだ。
確かに、彼女の気持ちはわからないでもない。何故なら僕も、他人の評価や反応に脅えている。学校間と掲示板とじゃ、規模の大きさが明らかに違う。きっと、それは僕が抱えているよりもずっと壮大で、根深いものなのかもしれない。
一朝一夕では、到底解決できないだろう。そして、この問題は他でもない蒼坂さん自身が解決、乗り越えなくてはならない問題だ。
だからこそ、十和瀬は厳しく接しているのかもしれない。……ただ単純に楽しんでいるだけ、というオチは頼むから止めてくれよ。
その時だった。
蒼坂さんの感情が予想以上に昂っていたのか、それとも僕がこの場にいたことが影響して、十和瀬の反応が厳しくなったことが原因なのか。蒼坂さんは、真っ赤に腫らした眼で十和瀬を睨みつけた。
「だって、私は朱里ちゃんみたいに強くないもの! それに、朱里ちゃんに今の私の気持ちなんて分かりっこないよ!」
「うおっ!」
思わず、驚愕した。
叫びを断ち切るかのように、テーブルに手を叩きつけて立ち上がった十和瀬は、冷ややかな視線を蒼坂さんへと向ける。
「あら、そう。ごめんなさい。……でも、そんなに嫌なら、さっさと声優なんて辞めちゃえば? 無理して続けててもいいことないわよ?」
「あ、おい!」
そのまま、十和瀬は蒼坂さんを一瞥し、足早に店を後にした。
「え、えっと……」
このまま十和瀬を追いかけるべきか。いや、泣き続けている蒼坂さんを置いていってもいいものなのか。
なんだか、僕の男気を試されているようで、店長や奥さんからの視線や無言の圧力が僕に突き刺さっている。
「ん?」
ポケットに入れていた携帯が振動した。
【さっきのゲーセンにいるから。梨音が泣き止むまでいてあげて。ごめんね】
さすが、よくわかってる。店を出てからすぐに送信したらしく、なんとも素早いフォローでありがたい。
「……朱里ちゃんから?」
「ん、……うん」
「……ごめんなさい」
「いや、大丈夫……」
人気声優とこうして向かい合って座っているなんて一生にあるかないかの経験だというのに、僕はなにをしているんだ。サインとか、握手とか、色々できるのに。
いや、僕だってそんな場合じゃないことぐらい百も承知だ。だからって、この空気、キツ過ぎるよ……。
「こんなこと、ファンの人に言っていいのかわからないんだけどね……、昔は、上手くやれてたの。朱里ちゃんっていうお手本がいたから……」
「えっと、ちょっと意味がわからないんだけどさ、十和瀬がお手本ってどういうこと? あいつの性格とかを真似するってこと?」
蒼坂さんが、普段演じているキャラクターや、ラジオでの印象は、十和瀬の性格と酷似している。そのことを示唆しているのだろうか。
「うん、それもあるけど……、あれ、朱里ちゃんから聞いてないの?」
「え?」
だが、彼女は、それを認めた上で、更に不思議そうに見つめている。
「朱里ちゃん、昔は声優だったんだよ。知らないかな、【緋い雨――スカーレット・レイン】っていうアニメに出てたんだけど……」
「う、嘘だろ?」
びっくりした。いや、そんなもんじゃない。
「あ、もしかして知らなかった?」
僕の驚愕の表情を読み取ったらしい蒼坂さんが、口元に手を当てて、口を滑らせたかと眉をしかめた。
「う、うん。聞いてなかった……」
「あ、そうなんだ。一応ヒロインだったんだけど……」
「ひ、ヒロイン?」
「うん、リンファっていう女の子の役」
まさか、僕の大好きなキャラを演じていたのが、同級生の十和瀬だったなんて……。
「あれ、でも、遊月くんと朱里ちゃんって、お付き合いしてるんだよね?」
「え、ち、違うよ! ただの友達だってば!」
十和瀬の冗談を真に受けていたのか、呆然と口を開く僕を見つめながら、意外そうな表情で問いかけてきた蒼坂さんに、慌てて首を振り否定を示した。ここだけは、なにがなんでも否定しておかなくては。
「へー、そうなんだ。あんまり楽しそうにしてたから、ちょっと意外かも。私が言うのもなんだけど、朱里ちゃんって、結構キツいでしょ。だから、男の子と喧嘩する方が多いんだけど。……あ、ごめん。今のなし。絶対に朱里ちゃんには言わないでね?」
「ははは、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「よかった……」
この安堵の表情だけで、普段蒼坂さんが十和瀬にどんな接し方をされているかがよくわかる。うん、苦労人なんだな。その気持ち、よくわかるよ。
「えっと、ちなみにさ、十和瀬って、上手だったんだよね?」
当時は高評価であった彼女の演技は、身内からすればどうなのだろう。
「あ、演技の話? 朱里ちゃんはね、私なんかと違って、最初からもの凄く上手だったんだから!」
目を輝かせ、十和瀬の活躍を思い出しながら、嬉々として語る蒼坂さんを、僕は複雑な心境で見やった。
蒼坂さんにとっては、十和瀬は憧れの存在なのだろう。だからこそ、未だに彼女の影を追い、真似をして、少しでも近付こうとしているのかもしれない。
「でも、今は声優じゃないんだよね?」
「うん。ちょっと色々あって……」
「色々?」
「……それは、私の口からはちょっと……」
口ごもるということは、これ以上、聞いても空気が悪くなるだけだ。
話を変えるか。でも一体なんの話をしようか。あ、新曲買いました、とかいいんじゃないかな。
「あの……」
そんな風に思案していた矢先、おそるおそる切り出された。
「ん、なに?」
「学校での朱里ちゃんって、どんな感じなの?」
唐突に振られた話題に、僕は言葉に詰まってしまう。
どんな感じ、と問われても、あの本性を知った後に、なんと説明すればよいのだろう。
猫をかぶって、おしとやかにしてるよ、なんて言ったら幻滅させてしまうかもしれないし……。
「え、っと……、学校の人気者だよ?」
それはあながち間違っていない。
「へぇ、そうなんだ。でも、あの性格じゃ皆に嫌われちゃうんじゃない?」
探るような目で、僕を見つめる蒼坂さん。その瞳に吸いこまれ、思わず喋ってしまいそうになる。
「え? あ、そうだな……、えっと……」
必死に言葉を探す姿が面白かったのか、ぷっと噴き出した蒼坂さんは口元に手を当て、くすくすと笑い声を漏らす。
「ふふ、あははは、ごめんね。実は朱里ちゃんから聞いてるんだ。ちょっと遊月くんを困らせたかっただけ」
「そ、そうなの? も、もう……なんて言えばいいか困っちゃったじゃないか」
「ごめんなさい。朱里ちゃん、学校だとおしとやかなキャラを演じてるんだよね? 自分で言ってたよ、女優気分でちょっと楽しいって」
「じょ、女優って……」
日頃からなにを考えてるんだ、あいつは……。
「……でも、もしかしたら朱里ちゃん、また演技とかしたいのかな、って思っちゃって……」
「え?」
蒼坂さんの表情が一瞬曇った。
「あ、ごめんなさい。いきなりそんなこと言われても困っちゃうよね。でも、その話をしてる時の朱里ちゃんがとっても楽しそうで……ちょっと憧れちゃうんだ。今のお仕事も楽しいけど、やっぱり、学校って色々な思い出ができるもの!」
「そうなの? 僕には全然わからないけど……」
学校なんて面倒くさいだけの場所でしかないと思うんだけどな……。
「修学旅行とかキャンプとか、体育祭や文化祭みたいな行事って、やっぱり楽しいじゃない?」
「うん、確かにそれはわかるかも」
「でしょ! あ、そろそろ文化祭なんでしょ?」
「うん。それも十和瀬から?」
「そうだよ。フリーマーケットやるんだよね? 朱里ちゃんが自慢気に話してたよ」
「はは、それは十和瀬のアイデアだからね」
「いいな、楽しそう……」
強い憧れを抱いている、という通り、蒼坂さんは本当に楽しそうに話している。見ている僕まで、つられて文化祭が楽しみになってくるぐらいだ。
「ねぇねぇ、一般人の参加ってダメなの?」
テーブルに身を乗り出し、尋ねる蒼坂さん。
僕は、平静を装うべく考えるフリをしてみるものの、ふわりと香った髪の毛の匂いに、ひそかに身震いする。……ヤバい、ちょっと変態ちっくだ。
「え? いや、別にいいけど……、楽しんでもらえるか不安だな」
「不安? どうして遊月くんが不安になるの?」
「実は……、僕、生徒会長なんだよね。だから、実行委員とかも兼ねてて……」
「へぇ、凄い! なんだか恰好いいね!」
格好いい――その言葉だけで、僕は天にも昇る思いだった。あぁ、生徒会長やっててよかったって初めて思えた。
「あ、ごめんなさい、ちょっと電話に出ていいかな?」
その時、机の上に置いてあった蒼坂さんのスマートフォンが振動する。着信らしい。
「あ、うん。どうぞ?」
「ありがとう、ごめんね」
小さく頭を下げ、携帯を片手に席を立つと、そのままトイレへと駆け込む。
そうか、彼女はテレビに出演している人間だし、僕には聞かせられない内容なのかもしれない。数分して、トイレから出てきた蒼坂さんは、席に座ることもなく、僕に対して言いづらそうに言葉を探していた。
「えっと、もしかして仕事の話?」
それを察し、逆に僕の方から声をかける。
「う、うん。この後、ラジオの収録だったんだけど、スタジオが空いたから、開始が1時間早まるらしくて。もう行かなくちゃいけないの……」
「そうなんだ、ラジオっていうと、【ミッドナイト・りおん☆】?」
「うん、そうだよ?」
「そっか。わかった、気にしないで?」
「ありがとう。遊月くんって優しいんだね」
言いながら、そっと伝票に手を伸ばす仕草に気付き、僕は慌てて首を振った。
「女の子に支払いをさせるわけにはいかないよ」
「え、でも……」
「いいから、いいから」
「……ありがとう、遊月くん。その、これからも応援よろしく」
「うん。蒼坂さんも頑張ってね?」
最高の笑顔を僕に向けた蒼坂さんは、小さく手を振り、やや小走り気味で店を出て行った。よっぽど、時間が切羽詰まっているんだろうか。だとしたら、ちょっと悪いことしちゃったかも。名残惜しいけど、仕方ないよね。
さて、いつまでもここにいても仕方ないし、十和瀬と合流しようかな。
「君、意外といい男じゃない?」
伝票を手にレジの前に立った僕、笑顔で話しかけてきたのは奥さんだった。
「え、そうですか?」
「うん。今時、女の子の支払いを断るなんてね。ちょっと見直したわ」
見直したって、逆に最初はどんな目で見られてたんだろう?
「3人分で1500円なんだけど、1000円でいいって、あの人が」
「え?」
奥さんが軽くしゃくり上げた顎の先には、黙ってグラスを拭き続けるマスターの顔があった。
「あ、どうも……」
「また来てね、可愛い彼女と一緒に」
「ち、違いますったら!」
僕が差し出した1000円札を受け取った奥さんのからかいに、赤面したまま店を出る。
目指すのは勿論、十和瀬が待っているゲーセンだ。




