彼女の旅立ち
店内には、相変わらず客の姿はない。もはや慣れてしまった光景に苦笑しつつ、カウンターの内側にいたマスターと奥さんに軽く頭を下げた。
「こんばんは」
カウンター席に座っていた奥さんは、僕の姿を見るなり立ち上がると、待っていたとばかりに奥の席へと手を向ける。
「いらっしゃい。こちらへどうぞ」
奥の席には、既にコースターが2つ、用意されていた。
「あの、これは?」
「うちは貸切もできるの。知らなかったでしょ?」
種明かし、と片目を瞑ってみせた奥さんに、思わず吹き出してしまう。この店に来る度、経営状況を案じていたのをお見通しってわけだ。
案内されたテーブルに着席し、感慨深そうに手で撫でていると、なにも言わずともオレンジジュースが差し出された。これもまたお見通し、か。
「いただきます」
約束の時間まで、まだ10分以上ある。少し早かったかもしれない。
「最初に見た時と比べて、随分と男らしくなったわね?」
「え?」
カウンターから、奥さんの意地悪く呟いた。
「――って、この人が」
目を丸くした僕を見て、口元に手をやりながらくすくすと白状。
「そ、そうですかね?」
「えぇ。随分と見違えちゃったわ」
十和瀬に出会う前と今。僕は、成長できているようだ。それが、不思議と誇らしい。僕の努力というか、前進が少なからず認められたようで。
「こんばんは」
「あら、いらっしゃい、朱里ちゃん」
カウベルが知らせた来客は、案の定十和瀬だった。親しげに挨拶を交わし合う女性2人に、僕は再び目を丸くした。
「あれ、もう来てたんだ」
僕を見つけ、意外だと驚いているようだ。
「そうよ、随分と前に。朱里ちゃんがなかなか来なくて怒ってたわよ?」
「え、本当ですか?」
奥さんの小さな意地悪に、あたふたと小走りに駆け寄ってきた十和瀬は、軽く化粧でもしているのか、どこか大人っぽく見えた。
「ごめん、怒ってる?」
「……あー、僕も今来たところだから」
「え?」
騙されたとわかると、唇を尖らせ、恥ずかしそうに俯き、顔を逸らす。
「随分と仲良さそうだったけど、通ったりしてるの?」
いきなり本題に入るわけにもいかず、当たり障りのない世間話から入ることにする。
「あれ、知らなかったっけ?」
「なにが?」
「ここ、私のおじさんの家よ」
「え?」
「あら、言ってなかったの? あの人は、朱里ちゃんのお母さんの弟」
あらかじめ頼んでおいたのか、注文せずともカフェオレが十和瀬の元へと運ばれる。
「この間は大変だったのよ? 君が朱里ちゃんを泣かせるもんだから、あの人が怒って、怒って……」
ちらりと、僕はマスター、いや、おじさんを覗き見た。素知らぬ顔で、グラスを磨いてはいるものの、内心は必死で怒りを抑えているのかもしれない。そう考えると、なんともおっかない。
「冗談よ。ごゆっくり、お2人さん」
十和瀬の肩をぽんと叩き、心底面白そうに笑いながら離れていく奥さん。
「さて、遊月くん。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
オレンジジュースとカフェオレ、グラスの中身が半分ほど減るまでは、相変わらずというか、会話はなかった。お互いに本題に入るタイミングを窺っている、そんな感じだった。
微笑ましそうにカウンター席からこっちを見ているおばさんの視線に耐えかねたのか、それとも呼び出した本人としての責任感か。カフェオレを一息に飲み干し、僕の顔を正面から見据えつつ、そう切り出した十和瀬。
「あ、うん。こちらこそ、呼んでくれてありがとう」
「えっと、なにから話せばいいのか迷うんだけど。まずはその、ごめんなさい。事情も話さず、いきなりいなくなってしまって」
膝の上に手を置いたまま、頭を下げられ、僕は軽く笑いながら首を振った。
「そのことはもういいよ。ただ、どうしてそうしたのかってのを聞きたいな」
「うん。文化祭の日、梨音が見に来てたの、知ってる?」
当然だ。蒼坂さんを誘ったのは僕だから。
「その時にね、実は梨音だけじゃなくて、私の昔のマネージャーさんもいたの」
「昔のマネージャーっていうと……」
「あのWikiを消してくれた人」
「そういえば前に言ってたね。それで?」
「その人が、私の読み聞かせを聞いて、声優として復帰してみないかって言ってくれて」
「え、じゃあ……」
「うん。私、OKした。あのステージで、皆から貰えたたくさんの拍手で、自分のやりたいことがはっきりとわかったから。もう1度、声優として夢を叶えたいって」
彼女の声は凛として、まるで僕が知らない一面を見ているようだった。大人っぽく見えたのも、そんな心境の変化があったからかもしれない。
十和瀬の告白は続く。
「幸いにも、梨音の事務所……というか、私の元事務所なんだけど。そこが温和だったのと、梨音が口利きしてくれたおかげで、なんとか戻ることができたわ。凄く怒られたし、色々な人に迷惑かけちゃったけど」
「そう、よかったじゃない」
「ありがと。それでね、私、復帰する時に決めたことがあるの」
「決めたこと?」
「遊月くんや皆がいてくれたから、私はまた前を向けた。歩き出せた。でも、皆がいてくれるなら、私はそれでいいって思っちゃう。夢が叶わなくても、また同じ失敗を繰り返しても、皆が励ましてくれるから、受け入れてくれるから。でも、それじゃダメなの」
真剣な眼差しが、僕に向けられていた。覚悟、とでも言うのだろう。
「だから、転校を?」
「……馬鹿馬鹿しいって思うでしょ? 薄情だって思うでしょ? でも、私、もう逃げたくなかったから」
逃げ出さないように、甘えないように、あらかじめ退路を断っておくという考え。その壮絶な覚悟に、僕は胸を打たれた。
十和瀬は、僕達が嫌いになったわけじゃない。むしろ逆で、僕達を大切に思ってくれているからこそ、甘えや諦めの原因を押しつけたくないとして、自ら去ることを選んだ。
「そっか、そうだったんだ。よかった、君が僕達を嫌いになったんじゃなくて……」
「そんな、嫌いになれるわけない。むしろ、私は……嫌われても、忘れられたとしても……、絶対に皆を忘れない。橘くんを、香川さんを、クラスの皆のことを、絶対に!」
「……うん、それが聞けただけで、嬉しいよ。あ、今の話、康太や香川にも話していいかな?」
あの2人も十和瀬を心配してたから。そう教えると、とうとう彼女は泣き崩れた。
大粒の涙が、テーブルに落ちては消えていく。
その様子をしばらく眺めながら、僕は最後に付け加えた。
「でもさ、十和瀬。ちょっと甘いよ?」
「……え?」
「僕が、ううん、僕だけじゃない。康太や香川だって、十和瀬を馬鹿だの薄情だのって笑ったりするなんてことしないよ。嫌ったり、忘れることもない。だって、皆十和瀬のことを応援してるし、心配してるんだから。だって、友達でしょ、僕達?」
それに、と、涙を拭っていた彼女の手を強く握る。
「約束したじゃないか。僕は、なにがあっても、君の味方でいるって」
大きく見開かれた十和瀬の瞳。その瞳に吸いこまれるように、僕は彼女の涙を親指で拭ってやった。
「ね?」
僕の笑顔が、彼女の力になってくれると信じて。
「……ありがと、奏真」




