引越し
文章中にある病は架空のものです。実際に存在するものとは一切関係ありません。
土曜日。今日、元の家から少し離れたところに引っ越した。新しい家族との生活が始まる。
「無事に引越しが終わってよかったよ」
「そうね。そうだ、お茶にしましょう。侑斗手伝って」
遥香さんが湯を沸かし、侑斗君がカップの用意をする。遥香さんを「母さん」と呼ぶ勇気はまだない。
わたしと父さんは座って待っている。
「明奈、学校に少し近くなってよかったね」
「んー、うん。これから暑くなってくからね、助かるかな」
温度差はわたしの体には毒だから、日傘を差して、できるだけ日に当たらないように登校しなけばいけない。距離が短くなるのはいいことだ。車で送ってくれると父さんは言うけれどそんな事をしたら、自分が惨めになるからと断った。弱いことを認めるのはイヤ。
わたしはいい意味で言ったつもりだったけど、父さんは一瞬眉をひそめた。
「ねぇ。わたしさ、新しい日傘欲しいんだ。今度一緒に買いに行こうよ」
笑っていてほしいから。悲しそうな顔を見たくないから。わたしは物に頼って誤魔化すの。
「うん、一緒に行こう。他に欲しい物はない?」
「ないよ。とりあえず、新しい日傘が欲しいの」
分かったよ、と言って父さんが笑った。
「お茶入れたわ。クッキーも出したの」
4つのカップがそれぞれの前に置かれた。2倍に増えたそれらに違和感を覚えた。早く慣れないといけないと思う自分と別に慣れなくてもいいじゃないかと思う自分がいる。
「良い香りだね。クッキーも美味しそうだ」
父さんが遥香さんに向かって笑う。あぁ、変な感じがする。今までその笑顔はわたしと母さんのものだったから。・・・ただの独占欲だ。
ゆったりと時間が過ぎていく。話し声は絶えることがない。まあ、主に喋っているのは父さんと遥香さんだけど。
「明奈ちゃんもクッキー食べてね」
「あ、はい」
愛想笑い。いい加減疲れる。クッキーにはナッツが入っている。わたしはナッツが苦手なのだ。食べないんじゃなくて、食べたくない。父さんはわたしの好き嫌いを知らない。知られないように、細心の注意をはらってきたから。好き嫌いなんていうわがままで父さんを困らしたくはない。
残っていた紅茶を一気に飲み干した。
「疲れたので部屋に戻ります。お茶、美味しかったです」
キッチンにカップを置き、自分に与えられた2階の部屋へと向かった。
父さんや遥香さんがどんな表情をしているか知らないふりをして。侑斗君の視線に気がつかないふりをして。
「息が詰まる」
部屋に入るなり、呟いた言葉は無意識に出たものだった。
この新しい生活にわたしは慣れることができるだろうか。先行きが不安でならない。




