第35話 祠の屋根が、木々の間に見えた
第三標識の仮記録は、思ったより安定していた。
食料小包、普通荷、供物小包。三つの扱いは、ひとまず分かれた。札はもう迷っていない。神官さんの前置き確認も、祈りの本文をほどかずに標識へ乗っている。
問題は、札ではなかった。
足元だった。
第三標識のまわりの道は、やっぱり悪い。草が伸び、ぬかるみが残り、細い土の道がところどころ沈んでいる。リタが食料小包を持って歩くと、足がずるっと取られた。
「わっ」
ミオはとっさに手を伸ばした。
リタは転ばなかった。でも、食料小包の布袋が大きく揺れて、中で麦と豆がふすふす鳴った。
「大丈夫?」
「はい。すみません」
「いや、これは道が悪いです」
ミオはしゃがみ込んで、ぬかるみを見た。
水は多くない。けれど、土の下に水が残っている。人が何度も通れば、すぐ広がる。荷を持った村人が歩けば、もっと崩れる。
このまま第三標識を使い始めると、祈りの道も荷の道も、先に足元から駄目になる。
ミオは透明な板をかざした。
[ROUTE CONDITION]
――――――――――
第三標識周辺:低出力安定
路面:ぬかるみあり
草量:多
荷運び適性:低
推奨:小規模補修
――――――――――
「小規模補修……」
ミオは小さく読む。
白狐が、すぐ横へ来た。
「ミオ様」
「はい」
「小規模、です」
「分かってます」
「三歩分くらいです」
「三歩分です」
「本当に三歩分です」
「分かってますって」
白狐は疑っている顔だった。
ひどい。いや、ひどくはない。過去の実績が悪い。
神官さんが、第三標識の前で静かに言った。
「道を広げるのですか」
「広げません。ぬかるんでいるところを、少し歩けるように戻します。巡礼の道を変えるんじゃなくて、崩れているところを直すだけです」
「祈りの道を、ほどかない」
「はい。ほどきません」
ミオは地面に指で範囲を示した。
「ここから、ここまで。第三標識の前、三歩分だけです」
「三歩ですね」
「白狐さん、二回目」
「確認は大切です」
リタが少し笑った。
村人が古い板切れと小さな杭を持ってくる。麻ひももある。ミオはそれを受け取り、ぬかるみの横に並べた。普通なら、踏み板を置いて終わりだ。でも、この道はただの道ではない。
草の下に、古い石の反応がある。
ミオには見えていた。
第三標識から、地面の下へ細い線が伸びている。切れかけているけれど、まだ死んでいない。たぶん、昔の参道の補修線だ。
そこへ触れば、少しだけ楽に直せる。
少しだけ。
ミオは、心の中で三回言った。
少しだけ。
[PATCH PLAN]
――――――――――
対象:第三標識周辺三歩
目的:ぬかるみ回避
道幅変更:なし
石畳復旧:最小
祈り本文:変更なし
――――――――――
「石畳復旧、最小」
ミオは指先で板の端をなぞった。
草の下に眠っている古い石を、ほんの少しだけ起こす。水の逃げ道を作る。踏み板を固定する。巡礼者が転ばない程度に、荷を持った村人が足を取られない程度に。
「実行します」
「ミオ様」
「三歩です」
「はい」
白狐はそれ以上止めなかった。
ミオは小さく息を吸い、実行線を押した。
すうっ。
地面の下で、細い光が走った。
ぬかるみの水が、ゆっくり端へ逃げる。土の表面が少しだけ締まり、草の間から古い石の角が見えた。
こつ。
一枚目の石。
こつ、こつ。
二枚目、三枚目。
リタが目を丸くした。
「石が出ました」
「うん。三歩分だけ……」
ミオが言い終わる前に、三枚目の先でまた音がした。
こつ。
四枚目。
白狐がミオを見た。
「ミオ様」
「今のはわたしじゃないです」
「では、誰ですか」
「古い道が、勝手に……」
言いかけて、ミオは黙った。
それはだいぶ言い訳っぽい。
透明な板の表示が変わる。
[AUTO ROUTE RESPONSE]
――――――――――
最小補修:成立
旧参道反応:連鎖
範囲:拡大中
原因:第三標識周辺補修を参道復旧条件として認識
注意:停止推奨
――――――――――
「連鎖……」
白狐が静かに言った。
「止めましょう」
「はい。止めます」
ミオは慌てて停止線を探した。
でも、古い参道はもう動き始めていた。草の下で、石がひとつずつ起きる。ぱた、ぱた、と軽い音を立てて、埋もれていた石畳が顔を出す。ぬかるみの水が細い溝へ流れ、道の端にあった小さな石灯籠が、ぽうっと灯った。
ひとつ。
ふたつ。
三つ。
「ミオ様、三歩ではありません」
リタが正直に言った。
「はい。見れば分かります」
ミオは停止条件を叩いた。
[PATCH STOP]
――――――――――
旧参道反応:停止要求
自動復旧:低出力継続
範囲制限:再設定
対象:第三標識から前方十二歩
――――――――――
「十二歩になってる……」
「増えましたね」
「白狐さん、静かに言わないでください」
「大声を出す場面ではありません」
たしかに、大声を出す場面ではなかった。
村人たちは、草の下から出てくる石畳を呆然と見ていた。神官さんも表情を変えている。怒りではない。驚きでもある。けれど、それだけではない。
知っているものを見つけた顔だった。
「これは……祠道です」
神官さんが、低く言った。
「ほこらみち?」
「古い祠へ向かう道です。今はほとんど埋もれて、誰も使わなくなっていました」
「じゃあ、これが……」
ミオは前方を見た。
石畳は、第三標識の前から木々の間へ続いている。完全に復旧したわけではない。ところどころ草が残り、石も欠けている。でも、さっきまでただの細い草道だった場所に、古い参道の形が出ていた。
道が、見える。
読者向けに言うなら、報酬だった。
いや、今そんなことを考えてはいけない。
ミオは板を見た。
[OLD SHRINE ROUTE]
――――――――――
第三標識:低出力安定
旧参道:一部露出
石灯籠:三基応答
水抜き溝:部分復旧
先行反応:古い祠候補
操作:これ以上非推奨
――――――――――
「これ以上非推奨」
ミオはすぐに手を止めた。
今度は本当に止めた。板から手を離す。実行線にも、補助線にも、触らない。
白狐が隣で、同じ方向を見ている。
油揚げの小包を見ていない。
そこが、いちばん不穏だった。
「白狐さん」
「はい」
「何か、分かりましたか」
「少しだけ」
「祠と関係ありますか」
「おそらく」
白狐の声は丁寧だった。でも、いつもの食べ物まじりの軽さがなかった。
リタが、そっとミオの袖を引いた。
「ミオ様、あそこ」
木々の間。
石畳の先。
葉の隙間に、苔むした屋根の端が見えた。
小さな屋根だった。古く、少し傾いて、半分ほど木々に隠れている。それでも、形ははっきり分かる。祠だ。
村人のひとりが息をのむ。
「祠だ……」
神官さんが、祈りの箱を両手で持ち直した。
白狐は動かなかった。
しっぽも揺れない。耳も寝ていない。ただ、じっとその屋根を見ている。
ミオは口を開きかけて、閉じた。
触りたい。
見たい。
解析したい。
透明な板をかざせば、きっと何か出る。祠型端末。旧ID。封印。地方管理ノード外縁。そういう言葉が、たぶん表示される。
でも、白狐が止まっている。
神官さんも、まだ何も言わない。
ここで手を伸ばしたら、たぶん駄目だ。
ミオは板を胸に抱え直した。
「今日は、ここまでです」
自分で言った。
少しだけ悔しい。
でも、言えた。
白狐が、ようやくミオを見た。
「はい。それがよいです」
その声は、いつもより小さかった。
ミオはうなずいた。
「触りません。祠には、今日は触りません」
「道は触りました」
「……それは、はい」
「三歩ではありませんでした」
「十二歩です」
「増えましたね」
「増えました」
リタが小さく笑いかけて、すぐに口を押さえた。
空気が重くなりすぎる前に、白狐がぽつりと言った。
「でも、転びにくくはなりました」
ミオは少しだけ目を瞬かせた。
「そこは褒めてます?」
「半分です」
「残り半分は」
「あとで叱ります」
「はい」
丁寧に叱られる予定が入った。
神官さんが、石畳の前に布を置いた。
「今日はここまでとしましょう。道が姿を見せたなら、村へ知らせ、祈りを整える必要があります」
「はい」
「祠へは、支度をしてからです」
「分かりました」
ミオは透明な板を下げたまま、祠の屋根を見た。
古い屋根。
第三標識の先。
白狐が黙る場所。
やり過ぎかけた結果、道が少し起きた。三歩のつもりが十二歩になった。祠の屋根まで見えた。
失敗ではない。
でも、成功と言い切るには、白狐の沈黙が気になりすぎる。
[ROUTE UPDATE]
――――――――――
第三標識:低出力安定
旧参道:十二歩露出
祠候補:視認
白狐反応:未解析
次回推奨:祠外縁確認
注意:直接操作禁止
――――――――――
直接操作禁止。
ミオはその文字を見て、深くうなずいた。
「分かってます」
白狐が横で言った。
「本当にですか」
「本当にです」
「では、板を少し下げてください」
「下げてます」
「もう少し」
「はい」
ミオは透明な板を、さらに胸元まで下げた。
木々の間で、古い祠の屋根がぽつんと見えている。
風がさわさわと草を揺らした。
石灯籠の小さな光が、ぽう、ぽう、と三つ並んでいた。
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