第18話 空の白い輪が、少し近く見えた
村の広場に、小さな台が三つ並んでいた。
一つ目には、麻袋と紐。ノルテ村の人たちが朝早く運んできたものだ。口紐は前より長くなり、底の縫い目も少しだけそろっている。二つ目には、乾かした野菜と塩の小袋。三つ目には、薬草の束と、教会で使っていた古い木札が置かれていた。
市、というには小さい。
けれど村人たちは、その言葉を口にしたがった。
「市みたいだな」
「市というには、ちょっと少ないだろ」
「少なくても、市は市だ」
「じゃあ、小さい市だな」
その言葉だけで、子どもたちがはしゃいだ。
ミオは保存庫の前で、木札を一枚ずつ確認していた。昨日、バルドに言われた通り、売ったものと数を書くための札だ。文字を書ける人は少ないので、絵と刻み目も使うことにした。
麻袋は四角の絵。塩は小さな壺。乾燥野菜は葉っぱ。薬草は細い束。銅貨は丸。
子どもたちが描いた銅貨の丸は、なぜかほとんど芋に見える。
「これ、銅貨かな」
「銅貨です」
「白狐さん、芋に見えない?」
「芋に見えます」
「見えるんだ」
「ですが、描いた本人が銅貨と言えば銅貨です」
白狐は木箱の上で、きちんと前足をそろえていた。昨日から、村人たちは白狐を見る目が少し変わった。白狐さま、と呼ぶ声に、前より畏れが混じっている。
ただ、白狐本人は、その木箱の上で麦がゆの椀を待っている。
「白狐さん、神獣感があるのかないのか分からないね」
「あります」
「どっちが?」
「神獣感です」
「椀待ってるけど」
「神獣にも朝食は必要です」
ミオは笑いながら、透明板を出した。
今日の目的は、市を大きくすることではない。村の中で、どれだけ出していいかを確認することだ。売りすぎれば、村が困る。何も出さなければ、銅貨も情報も入らない。
[VILLAGE TRADE CHECK]
――――――――――
麻袋:四
紐:小束六
乾燥野菜:小袋五
塩:小袋三
薬草:小束二
販売上限:少量
記録管理:試験運用
――――――――――
「今日は、ほんとに少しだけ」
「何度も言うのはよいことです」
「白狐さん、最近そればっかり」
「あなたには必要です」
広場の端では、村長が木札を持って練習していた。
「日、相手、売ったもの、数、受け取った金……日、相手、売ったもの……」
「村長さん、そこ逆です」
「逆か」
「先に相手の名前」
「相手の名前を聞き忘れたら?」
「次から聞く」
「次から聞く、と書いておくか」
「それは記録じゃなくて反省です」
ノルテ村の若い男が真面目な顔で言った。村長は「反省も要る」とうなずいている。
ミオはそのやり取りを見て、少しほっとした。
村は忙しくなった。見張りも、記録も、品物の数も、やることは増えた。けれど、昨日のようにただ怯えてはいない。増えた作業を、村人たちは少しずつ自分たちの手に移している。
その時だった。
広場の上を、薄い影が通った。
雲かと思った。
ミオは顔を上げる。
空は晴れている。雲は少ない。青い空の高いところに、白い輪が浮かんでいた。
いつも見えているものだ。村人たちが、天の輪とか、神さまの道とか呼んでいるもの。晴れた日にはうっすら見えて、曇りの日には消える。ミオもこの世界に来てから、何度も見上げていた。
でも今日は、違った。
輪の縁が、いつもよりはっきりしている。
白い。
細い。
けれど、ただの雲ではない。空に貼りついた傷のように、まっすぐで、遠くて、変にきれいだった。
「……白狐さん」
白狐は、もう空を見ていた。
耳が動いていない。
しっぽも動いていない。
ミオは、その反応だけで嫌な予感がした。
「今日は、見すぎない方がいいって言ってたよね」
「言いました」
「今、かなり見えてる」
「ええ。かなり、見えています」
村人たちも気づき始めた。
「天の輪が濃いな」
「祭りの日みたいだ」
「昔は、もっと白かったってばあさんが言ってた」
「今日は、なんか近い」
近い。
その言葉に、ミオの胸がざわついた。
近いはずがない。空の高いところにあるものだ。山より遠く、雲より高く、この世界の外側にあるようなもの。それなのに、今日は少し近く感じる。
ミオは透明板を布の上から押さえた。
開かない方がいい。
昨日、白狐に言われた。空を見すぎない方がいい。開くと、向こうもこちらを見るかもしれない。
けれど、透明板が布の中で小さく震えた。
一度。
二度。
まるで、空の白い輪に反応しているみたいだった。
「開かないでください」
「まだ開いてない」
「開きたい顔です」
「それ、そんなに出る?」
「とても」
白狐がミオの前に立った。
「見るなら、短くです。深く追ってはいけません」
「うん」
「何か出ても、追わない」
「うん」
「レンという名前が出ても」
「……うん」
言われた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
レン。
昨日、ふいに口から落ちた名前。大事な人。たぶん。まだそれ以上は戻らない。でも、その名前を聞くと、胸の中に手を入れられたみたいになる。
ミオはゆっくり透明板を取り出した。
村人たちからは、薄い聖石板に見えている。何人かが不安そうにこちらを見る。白狐は黙ったまま、ミオの足元に座った。
透明板を空へかざす。
最初は何も出なかった。
青い空。
白い輪。
村の屋根。
麻袋を干す紐。
その全部の上に、透明板の薄い反射が重なっているだけ。
けれど、次の瞬間、画面が細かく震えた。
白い輪の縁に、文字が浮かぶ。
[SKY RING TRACE]
――――――――――
上位環状構造:損傷
遠隔管理系:断続
観測範囲:不安定
同期残滓:極小
――――――――――
ミオは息を止めた。
「上位環状構造……やっぱり」
白狐が低い声で言う。
「そこまでです」
「まだ短い」
「短いですが、もう十分です」
ミオは透明板を下げようとした。
その前に、画面の端が一度だけ暗くなった。
文字が追加される。
[SKY RING TRACE]
――――――――――
上位環状構造:損傷
遠隔管理系:断続
観測語:R――
同期残滓:極小
――――――――――
「R……」
ミオの声が、出た。
たった一文字。
それだけなのに、指先が冷たくなった。
R。
レン。
違うかもしれない。たった一文字だ。ほかにもRで始まる言葉はいくらでもある。リングかもしれない。ルートかもしれない。リモートかもしれない。なのに、ミオの中では、その文字がまっすぐレンへ向かった。
目の奥で、何かがちらつく。
白い部屋ではない。
古い机。
開いたノートパソコン。
夜の画面。
横から聞こえる声。
『それ、またスコープ広がってない?』
誰かが笑っている。
レンだ。
たぶん、レンだ。
ミオは透明板を握る手に力を入れた。
「今、声が」
「ミオ」
白狐の声が強くなった。
「閉じてください」
「でも、今」
「閉じてください」
透明板が熱を持ち始めた。
じん、と指先に伝わる。危ないほどではない。でも、ただの石板ならあり得ない熱だ。表示がにじみ、白い輪の縁が画面いっぱいに広がる。
ミオはあわてて板を下げた。
表示は消えない。
[OBSERVATION WARNING]
――――――――――
外部観測圧:上昇
参照元:不明
対象照合:未成立
遮断推奨
――――――――――
「外部観測圧ってなに」
「こちらから見ただけではありません」
「向こうからも……?」
「見られています」
白狐がそう言った直後、透明板の表示が白くはじけた。
ミオは反射的に板を胸へ抱えた。
音はしなかった。
けれど、世界が一瞬だけ遠のいた気がした。
広場の声が小さくなる。麻袋を縫う音が遠くなる。子どもの声も、村長の声も、白狐の声も、水の音も、薄い布の向こうへ行ったみたいになる。
かわりに、短い映像が来た。
赤い光。
金属の壁。
黒い端末。
誰かの手。
傷のついた指。
そして、声にならない名前。
レン。
ミオは膝をつきそうになった。
白狐が足に体を押しつける。
「ミオ」
「……見えた」
「何を」
「赤い光。壁。手。たぶん、レンの」
白狐は顔を上げた。
さっきまでの偉そうな顔ではなかった。小さな体のまま、真剣にミオを見ている。
「返事をしようとしてはいけません」
「返事?」
「あなたなら、しようとします」
「……しそう」
「しないでください。まだ道がありません。叫べば、穴が開くだけです」
言い方は変だ。
でも、なんとなく分かった。
今あるのは通信ではない。たぶん、向こうとこちらが同じ何かを一瞬見ただけだ。穴の向こうに人影が見えたとしても、そこへ手を伸ばせるわけではない。無理に広げたら、村も自分も巻き込むかもしれない。
ミオは透明板を布で包んだ。
板はまだ少し温かい。
「閉じた」
「開いています」
「え?」
「あなたの顔が、まだ開いています」
白狐はしっぽで、ミオの膝を軽く叩いた。
「戻ってきてください。ここはリュミナ村です」
「……うん」
ミオはゆっくり息を吸った。
広場の音が戻る。
麻袋を縫う声。木札に線を刻む音。子どもが銅貨の丸を描いている声。村長が、白狐用の椀をどこに置いたか誰かに聞いている声。
リュミナ村。
今いる場所。
守らないといけない場所。
村人たちが集まってきていた。
「ミオさま、大丈夫か」
「顔が白いぞ」
「天の輪を見たのか」
「何か、神さまの言葉が?」
ミオは首を振った。
「神さまの言葉じゃないです。たぶん、古いものの反応です」
「古いもの」
「空の輪が、少しだけ動いていました。でも、今はもう閉じました」
説明としては、かなり雑だった。
けれど村人たちは、それで少しだけ納得したようだった。分からないことを、全部分からないまま置くよりは、少し言葉がある方が落ち着く。
白狐が一歩前に出た。
「今日の市は、広げすぎないでください。空が騒ぐ日は、余分なものを呼びやすい」
「白狐さまがそう言うなら」
「売るのは予定の分だけだ」
「見張りも増やそう」
村人たちが動き出す。
白狐はミオを見上げた。
「今のは、よい判断でした」
「どれが?」
「全部話さなかったことです」
「話しても、たぶん分からない」
「それもあります。ですが、分からないことを大きな言葉で飾ると、人は余計に怖がります」
「白狐さん、今日すごく先生」
「いつもです」
いつもの返しに、ミオは少しだけ笑えた。
けれど、胸の奥はまだ落ち着かなかった。
R。
赤い光。
金属の壁。
傷のついた手。
レン。
はっきりとは見えない。けれど、いなかったものがいるに変わった気がした。遠いどこかに、まだ誰かがいる。
ミオは空を見ないようにして、広場の台へ戻った。
木札の上に、今日売る予定の品が書かれている。麻袋二つ、紐二束、塩小袋ひとつ、乾燥野菜二袋。少ない。とても少ない。
でも、ここからだ。
この村を育てる。道をつなぐ。記録を整える。結界を直す。白狐の力を少しずつ戻す。
そうしないと、あの白い輪へ近づけない。
たぶん、レンにも。
「白狐さん」
「はい」
「今日は、空を見ない」
「それがよいです」
「でも、いつか見る」
「でしょうね」
「止める?」
「止めます」
「止めても?」
「あなたは、聞かないでしょうね」
白狐はため息をついた。
「ですから、その時までに、せめて麦がゆを多めに用意してください」
「そこ?」
「長い戦いになります」
「白狐さんの戦い、麦がゆ多いね」
「補給は重要です」
ミオは笑った。
その時、透明板が布の中で一度だけ淡く光った。
今度は開かなかった。
ただ、布越しに小さな文字が透けた。
[SKY RING TRACE / CLOSED]
――――――――――
観測語:R――
外部観測:遮断
再接続:非推奨
――――――――――
ミオはそれを見て、すぐ布を重ねた。
白狐は何も言わなかった。
空の白い輪は、まだ頭上にある。
村人たちは小さな市の準備を続けている。
ミオは木札を一枚手に取り、今日の品数を書き足した。
手は少しだけ震えていた。
でも、線は引けた。
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