第159話 三つの灯りは村の手で戻った
朝露を吸った白布は、広げると少し重かった。
村中央の水皿のそばで、担当の女の人が布の端をつまみ、ぱたぱたと振る。細かな雫が飛び、葉籠の豆に二粒ほど落ちた。
「供物が増えた」
「水だから数えないよ」
「では、豆は三つのままですね」
白狐さんが確かめるように言った。
「白狐さん、食べ物の確認係じゃないですよ」
「ミオも作業係ではありません」
「はい。見ています」
言いながら、ミオは両手を背中へ回した。そうしておかないと、曲がった布の端や、縄輪の結び目に手が伸びそうだった。
今日は、三点の灯りを村の人たちだけで戻す。
リュミナ村では、水皿、葉籠、縄輪、井戸の影、鐘、白布。南側では、前に開けた面だけの清掃と、水、塩、豆三粒。ルーナ村では、地上標識の泥と傾き、低い灯り、それから荷車が横へ寄れる道幅を確かめる。
ミオは作業の順番を言わない。透明板も開かない。
広場の端には、交代する人の木札が並んでいた。鐘、中央、丘、南、ルーナ、記録。表が朝の担当、裏が次の担当だ。
ルーナ村から来た担当者は、以前も豆の荷車を押していた女の人だった。裾に乾ききらない泥がつき、肩には炭写しを包んだ布袋を掛けている。
「石は今朝、私が見たよ。泥を落として、横から糸を垂らした。昨日より傾いてない」
女の人は布袋から細い板を出した。標識の正面、横、荷車の轍が炭で描かれ、端には小さな豆の印が四つ並んでいる。
「豆が四つあります」
「三つは荷。最後の一つは、荷車が通った印」
「分かりやすいです」
「字が少ないからね」
女の人は笑い、板を記録役のエルンへ渡した。エルンは写さず、ルーナ村の板をそのまま隣へ置く。
井戸の影が、白布の最初の折り目へ近づいた。
中央担当が水皿へ水を張る。葉籠の口を平石へ向け、縄輪の結び目も中央へそろえる。南へ向かった担当からは、丘を二つ越して白布が返ってきた。清掃済み、供物済み、印の向きよし。
ルーナ村の担当者が丘の見張りへ、自分の白布を預ける。
「灯り待ち、泥なし、傾きなし、荷車よし」
言葉も一緒に渡され、丘から村外れへ下りてきた。
ところが、鐘は鳴らなかった。
影はもう折り目へ触れている。中央担当が鐘の男を見ると、男は手にした札を裏返し、首をかしげた。
「俺は二番だぞ」
「二番は終了後の照合。鐘の二番は、あたしだよ」
隣にいた若い女の人も、自分の札を見た。どちらの裏にも炭で小さく二とある。
ミオの指が、背中から半分出た。
白狐さんの尾が、その手首へそっと触れる。
「見守るのでしたね」
「はい。でも、二が二つです」
「担当の方々にも見えています」
鐘の男は札を並べ、エルンの記録と見比べた。若い女の人は水仕事で濡れた指を布へこすり、札の端にある印を指す。
「こっちは鐘じゃなくて、終わりの鐘。丸がついてる」
「丸が泥で埋まってたのか」
「あんた、札まで掃除しなかったね」
「標識じゃないからな」
男が袖で泥をぬぐうと、二の横に小さな丸が現れた。広場に、ふっと笑いがほどける。
「朝はあんた。終わりはあたし。表に朝、裏に終わりって書こう」
「字が増えるな」
「豆を描いてもいいよ。朝一粒、終わり空の莢」
二人は札の印を直した。遅れた時刻も記録する。南とルーナへは、白布を横に一度振った。次の折り目で始め直す印だ。
誰もミオを見なかった。
少し寂しく、胸の奥が温かくなって、ミオはまた両手を背中へ戻した。
井戸の影が、二つ目の折り目へ触れた。
からん。
今度は鐘が鳴り、村外れの白布が上がった。丘の上で白い点が返り、ルーナ道と南寄り旧道へ分かれる。
中央担当は水皿から手を離した。葉籠にも縄輪にも、もう誰も触れない。
朝の空を映した水面が、ちり、と震えた。
葉籠の編み目へ白い筋が入り、縄輪の乾いた泥の間を淡い光が走る。村入口から来た線が水皿の下へ潜り、ルーナ道からの線が葉籠へ、南からの線が縄輪の結び目へ届いた。
三本が、村中央の平石で重なる。
一本になった。
それを見ても、担当者たちは声を上げて終わらなかった。
東西の係留石から、こつん、こつん、と順に音が返る。丘の白布が一度回り、南側の低い灯りがついた合図を渡す。最後に、ルーナ村の担当者が道の先をじっと見た。
遠く、朝露の残る轍の向こうに、低い白がともっていた。
「灯り、戻った。荷車の高さより下。道の真ん中には出てない」
女の人は自分の板へ、白い灯りの代わりに炭の短線を一本足した。
「泥なし。傾きなし。灯りあり。荷車よし」
一つずつ指で押さえ、それから石の絵の下へ大きな横線を引く。
「あとは、浮かないこと」
「それは、最後に私が表示だけ見ます」
ミオは初めて透明板を開いた。作業はもう終わっている。白線も、三か所の灯りも、担当者の記録も、先に現物でそろっていた。
[三点式地上帰還網・再取得]
――――――――――
リュミナ村基準:点灯
ルーナ地上標識:点灯
南側帰還標識:点灯
三点時刻・印方向:一致
村中央統合:成立
前回記録参照:作業判断に未使用
――――――――――
「同じ三点です。村中央でも、同じ一本になっています」
中央担当が水皿をのぞき、エルンは三枚の板を並べた。鐘が遅れた分だけ時刻は前回と違う。けれど始め直したあとの順番、印の向き、白線が戻った場所はそろっていた。
表示が、南の白線に沿ってもう一段深くなる。
[地上帰還標識・結果確認]
――――――――――
正式名称:南系統第一灯
応答状態:村側承認待ち
本起動・本接続:未実施
ルーナ地上標識:浮上対象外
役割:補給・連絡・帰還標識
地上通行:阻害なし
――――――――――
ミオは必要な行だけ読んで、透明板を閉じた。
「南系統第一灯。返事は前と同じ、村側承認待ちです。承認はしていません。ルーナ村も、浮上する場所には入っていません」
「よし」
ルーナ村の担当者は、自分の板の横線の下へ、豆袋、水桶、結んだ布、帰り道を順に描いた。
「豆と水を置く。言葉を渡す。帰る方を見る。浮かせない」
「その記録を、こちらの言葉に直してもいいですか」
エルンが尋ねると、女の人は首を振った。
「写すなら、そのまま写して。ルーナでは、この絵で次の人へ渡すから」
エルンはうなずき、村中央の記録にも同じ四つを写した。ミオの読んだ言葉は、その脇へ小さく添えるだけにした。
担当札も直された。札の上へ朝露の一粒、下へ空の豆莢を描く。終了後は中央、南、ルーナの記録を並べ、時刻、印の向き、灯り、白線の終わる場所を照合する。
一つでも違えば、その場で勝手に合わせない。担当者同士で現物を見直し、食い違いごと残す。
「ミオさんがいない時は?」
鐘の男が聞いた。
「白線と三枚がそろったところまで記録する。透明板の言葉は、次にミオさんがいる時に最後だけ見る」
若い女の人が答えた。
「それまでは灯りを増やさない。返事もしない」
「はい。それなら、私がいなくても同じところまでできます」
口にすると、背中へ回していた手の力が抜けた。
終了の鐘が、からん、と鳴る。
白線は荷車の轍と白布の端をやわらかく照らしていた。けれど皆はもう光を囲まない。水皿は井戸へ、縄輪は壁へ、葉籠の豆は鍋へ戻された。
ちょうどルーナ道から、残りの豆袋を積んだ荷車が着いた。
「灯りの横、通るよ」
車輪は低い白を踏まずに広場へ入った。袋を下ろす手へ温かな布が渡され、冷えた指が湯気の向こうでほっと開いた。
鍋には豆と青い葉が入り、木の椀が並べられる。
「白狐さん、これは結果確認の供物ではありません」
「承知しています。終了後の食事ですね」
「担当表に白狐さんの名前はないですよ」
「見守り役です」
「私と同じですね」
「ミオは途中で手が出かけました」
「半分だけです」
白狐さんは答えず、小さな椀の前へきちんと座った。
三つの灯りは、ミオの指を待たずに戻った。
井戸の影と、白布と、泥のついた札と、場所ごとに確かめた人の声で、同じ白線が村中央へ帰ってきた。
湯気の向こうでは、もう次の交代役が、朝露と空の豆莢の印を指でなぞっていた。
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