CROSSOVER 6 prelude / REN 開けない光
北の入口を見た夜、ミオはなかなか眠れなかった。
教会の小さな寝台に横になっても、まぶたの裏に白い筋が残っている。第三標識の根元から、古い祠へ。古い祠から、北の入口へ。草の下でぽう、ぽう、と光っていた細い道。
それから、もうひとつ。
個人鍵に似た光。
通信ではない。
接続でもない。
記憶とも言い切れない。
けれど、胸の奥だけを先に揺らす、変な光。
レン。
ミオは寝返りを打った。
名前だけなら、もう浮かぶ。けれど、そこから先がほどけない。顔を思い出そうとすると、霧のように逃げる。声を聞こうとすると、耳の奥で遠ざかる。
それでも、その名前を大事にしなければいけないことだけは分かる。
自分のものだから、ではない。
たぶん、相手がいる名前だから。
ミオは起き上がった。
窓の外はまだ暗い。村は静かで、どこかの家の戸が風でこと、と鳴った。リタは別室でもう眠っている。神官の部屋にも明かりはない。
足元で、白狐が目を開けた。
「眠れませんか」
「白狐さんも起きてたの」
「ミオが三回寝返りをしました」
「数えてた?」
「はい」
「やめて」
「四回目で声をかけるつもりでした」
「今、三回でよかった」
白狐は小さく尾をゆらした。
その動きがいつも通りで、ミオは少しだけ息を吐く。
「第三標識、見に行く?」
「今からですか」
「うん。少しだけ。開けない。触らない。見るだけ」
「その言い方が出る時点で、開けたくなっているのでは」
「……見透かさないで」
「神獣です」
「便利な言葉」
白狐は立ち上がった。
「行きましょう。夜の祠灯も、見ておいた方がよいです」
ミオは透明な板を持ち、薄い上着を羽織った。
夜の村は、昼より小さい。家々は暗く、畑の方から土のにおいがする。水場の近くで、細い水音がしていた。復旧した水路は、夜でも止まらない。小さな音が、村が生きていることを教えてくれる。
第三標識の前に着くと、白い灯りが残っていた。
朝より弱い。けれど、消えていない。
三つの荷の印も、供物の点も、北へ伸びる細い筋も、夜の方が見えやすかった。草の下で、ぽう、と淡く光る。遠くの北の入口に残った白い輪も、ぎりぎり見える。
「きれいだね」
「はい」
白狐が隣に座る。
ミオは透明な板をかざした。
[NIGHT SHRINE ROUTE]
――――――――――
祠灯:夜間維持
小さな荷印:三点維持
北側入口:微弱可視
個人鍵反応:保留
追加干渉:なし
――――――――――
「保留のまま」
「よいことです」
「うん」
ミオは板を少し下げた。
夜の標識は、昼より静かだ。村人の声も、子どもの足音もない。あるのは風と、水音と、白狐の呼吸だけだった。
その静けさの中で、胸の奥がまた少し揺れる。
レン。
声には出さない。
でも、浮かぶ。
ミオは標識の前に膝をついた。
「白狐さん」
「はい」
「わたし、これを追ったら、たぶん早く何か分かる」
「そうかもしれません」
「でも、壊すかもしれない」
「はい」
白狐はすぐに否定しなかった。
それが、かえって助かった。
「名前が浮かぶのに、顔が戻らない。胸だけが先に反応する。こういうの、気持ち悪い」
「はい」
「でも、怖いだけじゃない」
「はい」
「大事なものを、乱暴に開けたくない」
白狐は標識の灯りを見ていた。
「ミオは、村の水路には大胆でした」
「うん」
「祠にも、最初はかなり大胆でした」
「それは……うん」
「ですが、人には、少し慎重になりました」
「少し?」
「かなり、と言うと油断しそうです」
「白狐さん、言い方」
ミオは笑った。
笑うと、胸の奥の狭さが少しやわらぐ。
透明な板の端に、小さな光が出た。
ログではない。
通知でもない。
白い筋の奥、北の入口とは別の場所で、個人鍵に似た光が一度だけ揺れた。
ミオは板を開き直さなかった。
開けば、きっと何か表示される。
でも、今は見なくても分かった。
あの光は、呼んでいるのではない。
たぶん、向こうでも誰かが名前に触れた。
そう思った瞬間、胸の奥がまたきゅっとした。
「レン」
今度は声に出た。
白狐は何も言わない。
ミオも、それ以上続けなかった。
呼びかけではない。
通信でもない。
ただ、名前をなくさないために、声に出しただけだ。
[KEY STILLNESS]
――――――――――
個人鍵類似反応:微弱
通信:未成立
接続:未成立
記憶:断片未満
干渉:なし
状態:保留
――――――――――
板に、あとから静かな表示が出る。
ミオはそれを見る。
干渉なし。
保留。
その二つが並んでいた。
「よし」
「よし、ですか」
「うん。開けなかった」
「はい」
「でも、消さなかった」
「はい」
白狐が、少しだけ目を細める。
「それがよいと思います」
「白狐さんも、古い朝のこと、消さなくていいからね」
「……はい」
「言える時でいい」
「ミオ」
「何?」
「その言い方は、少しずるいです」
「白狐さんが先にやった」
「実用ですね」
「実用」
二人で小さく笑った。
夜の第三標識の前で、笑い声はすぐに風に溶けた。祠灯は乱れない。むしろ、白い筋の先が少しだけ明るくなる。
ミオは北の入口の方を見る。
北の小祠。
そこへ行けば、白狐さんの古い朝に触れるかもしれない。個人鍵の光も、また揺れるかもしれない。RENという名前が、もう少し形を持つかもしれない。
でも、今夜ではない。
今は、行くための場所を作る夜だ。
ミオは第三標識に手を合わせた。
作法はまだうまくない。指の角度も、リタより少し雑だ。けれど、今日はそれでよかった。何かを開く手ではなく、開けずに置いておくための手だった。
透明な板の表示が、静かに落ち着く。
[PRELUDE HOLD]
――――――――――
REN:名称反応あり
通信:未成立
接続:未成立
記憶:断片未満
保留:維持
次段階:北の小祠
――――――――――
REN。
表示に出た文字を見て、ミオは息を止めた。
レン、ではない。
REN。
旧文明の表示に近い、硬い文字。
でも、胸の中では同じ響きだった。
ミオは指先で板の縁を押さえた。
消さない。
追わない。
置いておく。
「白狐さん」
「はい」
「表示に出た」
「REN、ですか」
「うん」
「ミオは、それをどうしますか」
「保留にする」
「はい」
「でも、忘れない」
「はい」
白狐はうなずいた。
「では、戻りましょう。夜の石は冷えます」
「白狐さん、寒いの?」
「わたくしではなく、ミオの足です」
「あ、ほんとだ。冷たい」
ミオは立ち上がった。
膝に土がついている。払うと、指先が少し白くなった。祠の光ではなく、ただの土ぼこりだ。
そういう普通の汚れが、少しありがたかった。
村へ戻る道で、白狐はいつもよりゆっくり歩いた。ミオも合わせる。急ぐ理由はない。
教会に戻るころ、東の空が少しだけ白んでいた。
まだ朝ではない。
でも、夜が終わる前の色だ。
ミオは寝台に戻る前に、透明な板をもう一度だけ見た。
[HOLDING AREA]
――――――――――
REN:保留
MIO:応答なし
通信:未成立
接続:未成立
次回参照:北の小祠
――――――――――
MIO。
自分の名前まで出ている。
ミオは少しだけ眉を寄せた。
「勝手に並べないでほしいんだけど」
「並んだのですか」
「並んだ」
「消しますか」
「消さない」
「はい」
白狐は、それ以上聞かなかった。
ミオは透明な板を閉じる。
名前は並んだ。
けれど、まだ線ではない。
呼び合ったわけでもない。
ただ、同じ場所に置かれただけ。
それでいい。
今は、そこまででいい。
ミオは寝台に腰を下ろした。
胸の奥には、まだ小さな光が残っている。怖くはない。落ち着かないけれど、嫌ではない。
REN。
ミオは声に出さず、その名前を胸の中だけで確かめた。
開けない。
でも、消さない。
夜明け前の村で、古い祠道の入口は静かに光っていた。
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