第123話 触れないための手
個人鍵らしき光を見たあと、ミオはしばらく第三標識の前に残った。
村人たちは少しずつ戻っていく。畑へ行く人、水場へ向かう人、子どもを連れて家へ帰る人。みんな北へ伸びる白い筋を何度も見てから、静かに歩き出した。
第三標識の根元には、三つの荷の印が並んでいる。
朝の祈りの灯り。
供物の丸い点。
北へ向かう細い筋。
そして、ミオの胸の奥には、さっきの光が残っていた。
レン。
名前だけが浮かぶ。
顔を思い出そうとすると、うまく像にならない。声も遠い。けれど、胸の奥だけが先に反応する。誰かを知っているのに、まだ扉の向こうにいるような感じだった。
ミオは透明な板を開く。
[KEY TRACE REVIEW]
――――――――――
個人鍵類似反応:保存済
通信:未成立
接続:未成立
記憶:断片未満
影響:胸部反応/軽微
――――――――――
「胸部反応って、言い方……」
ミオは小さくつぶやいた。
正しいのかもしれない。
でも、あまりにも雑だった。
胸がきゅっとした。名前が浮かんだ。声にならなかった。そういうものを、胸部反応とまとめられると、少しむっとする。
「ミオ様?」
リタが戻ってきた。手には空の布を持っている。さっき使った小包の布だ。
「まだ、見ていらっしゃるのですか」
「うん。少しだけ」
「さっきの、変な表示ですか」
「そう」
リタは第三標識のそばに膝をついた。
ミオの透明な板は、リタには薄い石板にしか見えない。細かな表示までは読めない。それでも、リタは無理にのぞき込まなかった。
「危ないものでは、ないのですよね」
「今はね。危ないというより、触り方を間違えたくない感じ」
「触り方」
「うん。祠の奥にも、人の中にも、勝手に手を入れちゃいけない場所がある」
リタは少し考える。
「けがをしている人に、いきなり布を巻かないのと同じですか」
「近いかも」
「まず、どこが痛いか聞く」
「そう。言えるなら、聞く。言えないなら、待つ」
自分で言いながら、ミオは少しだけ苦笑した。
前なら、きっと違っていた。
見えた異常は、直したくなる。閉じているなら、開けたくなる。動かないなら、動くようにしたくなる。それで村の水も、祠道も、荷の印も進んできた。
でも、人の中は違う。
白狐さんの古い朝も、レンの名前をかすめた光も、同じ扱いではいけない。
白狐が近づいてきた。
足音は小さい。草を踏む音もほとんどしない。
「ミオ」
「白狐さん」
「まだ胸が狭いですか」
「言い方」
「違いますか」
「まあ、違わないけど」
白狐は第三標識の根元を見た。
三つの荷の印。その奥の白い筋。さらに北へ続く方角。
「先ほどの光は、ミオの中にも触れました」
「うん。たぶん」
「名前が浮かびましたか」
「……少し」
「レン、ですか」
ミオは答えなかった。
答えなかったことが、答えになった気もする。
白狐はそれ以上聞かなかった。
ただ、隣に座る。
「白狐さんは、聞かないんだ」
「ミオが、言えるところまででよいです」
「それ、わたしが昨日言ったやつ」
「よいものは使います」
「ずるい」
「実用です」
リタが小さく笑った。
その笑いで、ミオの肩が少しだけ下がる。
透明な板には、まだ個人鍵の表示が残っている。通信は未成立。接続も未成立。記憶は断片未満。何も始まっていない、とも言える。けれど、何もなかったわけではない。
名前が浮かんだ。
それだけで、十分に大きい。
「追わない」
ミオは言った。
「今は、追わない。レンに勝手にパッチを当てない。問い詰めない。こっちから無理に開かない」
リタは「パッチ」という言葉には首をかしげたが、すぐに聞き返さなかった。村で過ごすうちに、ミオの変な言葉は全部拾わなくてもいいと覚えたのだと思う。
白狐は静かにうなずく。
「では、どうしますか」
「言える場所を作る」
「場所」
「うん。祠道も、村も、白狐さんも、レンも。何かが出てきた時に、急に閉じたり、急に踏み込んだりしない場所」
ミオは第三標識を見る。
そこにあるのは、ただの石ではなくなっていた。村人が手を合わせ、小さな荷を届け、北へ向かう線を見つけた場所。今はまだ細いけれど、誰かに届くための入口にもなりかけている。
「ここも、そういう場所にしたい」
ミオが言うと、白狐は少しだけ目を細めた。
「手を洗ってから触るような顔です」
「またそれ」
「前より丁寧です」
「褒めてる?」
「はい。かなり」
ミオは照れくさくなって、透明な板を閉じた。
リタが空の布を胸に抱える。
「では、明日からは、北の小祠へ向かう準備ですか」
「うん。でも今日は、三つ目の印が落ち着くのを見る」
「また待つのですね」
「待つ」
「ミオ様が待つと言うと、少し不思議です」
「リタまで」
「すみません。でも、よいことだと思います」
ミオは笑った。
自分でも、不思議だと思う。
待つことが増えた。
すぐ動いた方が早いこともある。けれど、今は早さだけではだめだ。北の小祠へ向かう道も、白狐さんの記憶も、レンにつながるかもしれない鍵も、急いでこじ開ければ壊れる。
神官が戻ってきた。
「ミオ。今日は、ここで祈りを一度整えてから終えましょう」
「はい」
「北の小祠へ向かう道が見えたこと。三つ目の荷が届いたこと。それから、まだ言葉にならないものを、急がずお預かりすること」
「……神官、今の分かったんですか」
「分からないところもあります。ですが、急がない方がよいものがあることは、分かります」
ミオは神官を見た。
村人には見えないものもある。神官にも、透明な板の表示は読めない。けれど、祠の前で人が黙る理由は、分かるのかもしれない。
神官が第三標識の前で手を合わせる。
リタも続いた。
白狐は、少しだけ北側へ顔を向けてから、目を伏せる。
ミオも手を合わせた。
祈りの作法は、まだぎこちない。けれど、何かを無理に開かないための手としては、ちょうどよかった。
[QUIET HOLD]
――――――――――
三回目印:維持
北側線:延伸状態保持
個人鍵反応:保留
追加干渉:なし
祠灯:安定
――――――――――
ログの最後に、追加干渉なし、と出た。
ミオはそれを見て、小さくうなずいた。
何もしないことが、処理になる時もある。
その日の夕方、第三標識の根元には三つの白い点が残っていた。北へ向かう筋は、草の下で淡く続いている。村人たちは、明日の朝に北側の道を見に行く準備を始めていた。
リタは小さなかごを整え、神官は祈りの順を確認する。白狐は麦がゆを食べながら、何度か北の方角を見た。
「油揚げではありませんが」
「麦がゆも悪くないでしょ」
「悪くありません。ですが、油揚げは別です」
「元気出てきたね」
「供物運用のためです」
「はいはい」
白狐の声が少し戻っていた。
それだけで、ミオはほっとする。
夜になる前、第三標識の奥で、個人鍵に似た光が一度だけ薄く揺れた。ミオは板を開かなかった。追わないと決めたからだ。
代わりに、北へ続く白い筋を見た。
その先に北の小祠がある。
その奥に、まだ言葉にならないものもある。
でも、今はここでいい。
言える場所を作る。
ミオはそう決めて、第三標識の前を離れた。
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