第95話 レンの名が、数秒だけ残った
外縁の弧は、朝の草の下に細く残っていた。星見台から環祠へ、環祠から小祠群へ、小祠群から外縁道標へ。見た目には小さな灯りの点がいくつかあるだけなのに、透明板の上では一本の細い輪として読める。
ミオは小祠一の石段に透明板を置いた。白狐さんは隣で座り、しっぽを体の横にそろえている。リタは少し後ろで水桶を持ち、ベンは外縁道標の灯りを見ないようにして、でもたまに見ていた。
「今日は、昨日の輪をもう一度読みます」
「地方管理外縁環、ですね」
「はい。名前が出た場所だけ見ます」
「分かりました」
「白狐さん、耳の奥は」
「静かです」
「よかったです」
ミオは透明板を開いた。昨日の記録を重ねると、外縁の祠が淡い線でつながった。輪はまだ欠けている。けれど、欠けている場所も含めて、古い形が見え始めていた。
[地方管理外縁環・再読込]
――――――――――
外縁祠群:部分環状応答
星見台:同期候補
環祠:戻し線安定
外縁道標:低出力灯
守護者系統:待機
――――――――――
表示は硬い。けれど、昨日より線が太い。ミオは息を小さく吸い、星見台の入口を押した。
ぽう。
星見台が灯り、環祠が返した。小祠群が遅れて光る。外縁道標の豆火も、草の根元で低く揺れた。灯りは昨日と同じ道を通り、封じ祠の手前で細くなって、外側の弧へ戻る。
白狐さんの影は濃くならない。しっぽの毛先が少しだけ立ったが、すぐに戻った。
「通りました」
「はい。今日は、鳴り方が軽いです」
ミオは透明板をのぞき込んだ。地方管理外縁環の文字が、昨日よりはっきり出ている。その下に、小さな地図が開いた。村の外縁、星見台、環祠、小祠群。さらに遠く、まだ名前のない点がいくつか浮かぶ。
その一つに、白いノイズが重なった。
[CROSS OBSERVATION]
――――――――――
REN:TRACE
DURATION:01.9 SEC
LINK:NOT ESTABLISHED
――――――――――
ミオの指が止まった。
「レン」
小さく呼んだ声は、外へ届かない。ただ、自分の口から落ちただけだった。それでも、透明板の文字はすぐ消えなかった。RENの三文字が、白いノイズの中に細く残っている。
リタが息をのんだ。
「ミオ様?」
「大丈夫です。……名前が出ました」
白狐さんは透明板を見た。目の色が少し深くなる。けれど、昨日のように呼ばれる気配ではない。
「レン、ですか」
「はい」
ミオは透明板に触れかけ、指を止めた。押す場所はない。声を送る場所もない。これは通信ではない。透明板にも、そう出ている。けれど、名前だけはそこにある。
RENの文字が、一度薄くなった。
「もう少しだけ」
ミオは灯りを強くしなかった。環祠の戻し線を少し整える。外縁の弧が細くそろい、道標の灯りが低く揺れた。
RENの文字が、また浮いた。
[CROSS OBSERVATION]
――――――――――
REN:STABLE
DURATION:04.2 SEC
LINK:NOT ESTABLISHED
――――――――――
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
四秒。たったそれだけなのに、前より長い。消えかけた名前が、透明板の中央に残っている。ミオは息を止めて、その文字を見ていた。
ベンが小声で聞いた。
「レンって、人?」
「人です」
「遠い人?」
「……とても」
言ってから、ミオは少しだけ笑った。遠い、で済む距離ではない。けれど、今はそれでいい。ベンにはそれで伝わる。
白狐さんが静かに言った。
「ミオ」
「はい」
「手が白いです」
「え?」
透明板を握る指に力が入りすぎていた。指先が白くなっている。ミオは慌てて力を抜いた。
「押しても、届きませんよね」
「今は、名前を見ているだけです」
「はい。分かっています」
分かっている。けれど、名前が出れば、呼びたくなる。透明板に触れたくなる。何か一文字でも置きたくなる。
表示の下に、別の文字が浮かんだ。
[守護者系統]
――――――――――
候補照合:白狐
権限状態:保護中
取得条件:不足
連動:地方管理外縁環
――――――――――
白狐さんのしっぽが、ゆっくり揺れた。
「わたしの方も、見えましたね」
「はい」
「取るものではありません」
「はい。見えただけです」
ミオは短く答えた。ここで説明を増やすと、また手が動きそうだった。RENの文字。白狐さんの守護者権限候補。地方管理外縁環。全部が、同じ輪の上に少しずつ重なっている。
リタが水桶を置き、外縁の灯りを見た。
「今日は、灯りがきれいです」
「はい」
「昨日より、つながって見えます」
「そうですね」
村の人たちに見えているのは、淡い弧と小さな道標の灯りだけだ。透明板の文字は見えない。RENも、守護者権限候補も、地方管理外縁環も、ミオの手元にだけある。
それでも、灯りは同じ場所で揺れている。
RENの文字が薄くなる。四・二秒。表示はそこまでだった。白いノイズが散り、地図だけが残る。
ミオは何も押さなかった。
外縁の弧を細く整え、記録だけを残した。
[外縁環・観測記録]
――――――――――
地方管理外縁環:再表示
REN:STABLE / 04.2 SEC
守護者系統:候補照合
通信:未成立
――――――――――
ログの文字が、透明板の中で静かに並ぶ。冷たくて、正確で、少しだけ残酷だった。
白狐さんが、ミオの横に座り直した。
「ミオ」
「はい」
「待つだけではありません」
「はい」
ミオは外縁の灯りを見た。星見台が淡く光り、環祠が返し、小祠群が小さく続く。外縁道標の灯りは、草の中で低く残っている。
「届く場所を作ります」
「それがよいです」
白狐さんの声は静かだった。
ミオは透明板を胸に抱えた。RENの文字はもう消えている。けれど、記録には残った。見間違いではない。祈りでも、気のせいでもない。
外縁の輪が、ほんの数秒だけ、遠い名前を連れてきた。
小祠一の灯りが、ぽう、と揺れた。
ミオはその光を見ながら、指先の力をゆっくり抜いた。
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